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Channel: ぶんやさんち
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昨日のFB 04/09

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お早うございます。主の平和。読書、佐野眞一『唐牛伝〜敗者の戦後漂流』。60年安保からシールズまで。昼食前、30分仮眠。昼食後、釣川堤防花見、少々雨に濡れる。昼寝1時間(OTB)。夕食後、土曜ワイド「西村京太郎シリーズ最終」を見て11時半に就寝。6時起床。体温:36.2、血圧(139:82、78)、体調・快調、チュン、チュン

19 佐藤 静代さん、小貫 ツマさん、他17人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

東山 富昭 おはよう😃ございます。今日は、聖日礼拝です。主なる神と主イエス・キリストにあって、礼拝をささげます。よろしく、お願いします。

藤木 冨士子 おはようございます。

村田 多鶴子 朝のご挨拶を出来ず、失礼致しました。
昨夜から息子一家が来ており、今朝はいつになくバタバタと朝食の準備&朝食、加えて礼拝の受付当番で、いつもより40分ほど早く教会へ…、と理由にもならない理由で、今頃になってFBを覗いております。
先生ご夫妻の今日これからの時間が祝されますようにm(__)m

植村 光郎 「北大路敏・青木・樺美智子さん」など。あの時代の情熱を

文屋 善明
4月9日 6:29 ·

お目覚めの花。「今日は復活前主日、いわゆる棕櫚の主日だ。今日の福音書は長いよ。さて各教会どうするのかな」。(今朝の花は野に咲く紫色の花の中に燦然と輝く赤い花)
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、自然、屋外

38 草薙 恵美子さん、川田信子さん、他36人
コメント

吉村 伸 うちの教会(京都マリア)では、伝統的に教会委員が各キャストになってセリフ仕立てで輪読します。

藤木 冨士子 アネモネ、原産地はイスラエルあたりでしょうか。

文屋 善明
4月9日 6:37 ·

2017 日々の聖句 4月9日(日)
わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。(イザヤ44:3)
祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て(憤慨し)、(イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」)イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」(マタイ21:15~16)
私の黙想:
乾いた土地に水が流れ、全体を潤す、というイメージが「聖霊の注ぎ」である、という。聖霊を火にたとえるのか、水にたとえるのか。私は「水のイメージ」が好きだ。土地が吸い込みきれない水は、土地の表面をなぞって流れていってしまう。重要なのは、流れてしまわないでゆっくりと土地に吸い込まれていく水だ。そこには何の騒ぎもない。音もない。ただじっくりと時間をかけて土地は水を吸い込む。しかも地中深く。これが、私の聖霊イメージだ。聖霊はカリスマではない。溢れる水は聖霊に関係ない。流れていってしまえば、それでいい。必要なのは時間をかけてゆっくりと地中深く吸い込まれていく水だ。それが命である。万物の命の源泉である。聖霊とはそういうものだ。一言で言うと、日常性の中で働く神の霊、それが聖霊だ。

19 東山 富昭さん、藤木 冨士子さん、他17人

文屋 善明
4月9日 6:43 ·

今日の名言:@baka__meigen
暗黒時代には、宗教ほど諸国民を導くのに最適なものはなかった。というのも、暗黒の中では目の見えない人がいちばんよい案内役で、目明(あ)きよりもずっと確かだからである。しかし、昼になって明るくなっても目の見えない人に案内させているとすれば、それは阿呆である。(ハイネ)
<一言>ドイツの詩人ハイネの言葉である。彼は宗教とは目明きには見えないもの、真実を見ているものと考えている。

19 東山 富昭さん、小貫 ツマさん、他17人

文屋 善明
4月9日 6:47 ·

棕櫚を手に、ホザナホザナと叫ぶ人、その直後には「殺せ」と叫ぶ 善明

48 Luke Etsuzou Nomahさん、玉城 豊さん、他46人
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杉浦 紀明 「ホサナ!」(今、救ってください)と叫んだ群衆はその5日後に、「彼を殺せ」と叫んだ。

杉浦 紀明 人は自分の意のままにならない者を聖なる名の下に平気で殺す。

糸原 由美子 たいていの人は神様をも自分の意のままにしようとしますね。だからキリスト教はわかりづらい。願かけしてお金払って聞いてもらえたら信じる、キリスト今日は

糸原 由美子 すみません、続きです。キリスト教は自分の十字架を背負ってついてきなさいという。

櫻井啓子 これがまさに人間の愚かな心理の極みですし、群集心理の怖さですね。

文屋 善明
4月9日 8:03 ·

聖週の福音書はヨハネだけが一貫している。
月曜日 12:1~11
火曜日 12:37~50
水曜日 13:21~35
木曜日 13:1~15
金曜日 18と19:1~37
土曜日 19:38~42
そして
日曜日(復活日) 20:1~18

21 金井 由嗣さん、東山 富昭さん、他19人

文屋 善明
4月9日 8:28 ·

今日はボンヘッファーがなくなった日です。ヒットラー再登場のムードの中、ボンヘッファーのことを思う。

62 Luke Etsuzou Nomahさん、加藤 望さん、他60人
コメント

杉浦 紀明 4月9日がボンヘッファーの没日だったとは見落としていました。1945年4月5日、ナチス落日の目前でしたね。

小泉 麻子 2週連続でボンヘッファーに触れました。

小貫 ツマ 聖公会の新しい聖歌集(2006)の552番はボンヘッファーが獄中からフィアンセに送った手紙から摂られたものと聞きました。歌う機会があまりないのが残念ですが、、、

文屋 善明さんが写真2件を追加しました。
4月9日 16:25 ·

ただ今、教会で棕櫚の日礼拝を、聖研を終えて帰宅しました。いささか疲れました。
自動代替テキストはありません。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

70 にしい ひろこさん、亀山 宏さん、他68人
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Izumi Nara この十字架をつくりたいのです。図面は「礼拝と音楽」でみたようにはおもいますが、作れないのです。

Mizota Michael Satoshi この十字架が懐かしい。聖公会に近いうちに戻ることにします。

Mizota Michael Satoshi パームクロスの作り方。
https://www.youtube.com/watch?v=kmtg7m7Ion8

Tutorial: Palm Sunday Cross
Origami tutorial and video instruction on how to fold a Palm Sunday Cross • Palm Sunday…


原本ヨハネ福音書研究より抜粋(第13章)

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原本ヨハネ福音書研究より抜粋(第13章)

はじめに
松村克己は「第13章からヨハネ福音書は第2部に入る。不特定多数の人々に向かって語りかけ、働きかけてきたイエスは人々から「身を隠し」(Jn.12:36)、少数の弟子たち、神の国の中心となるべき12弟子、イエスと運命を共にするために選んだ「自分の者たち」(Jh.13:1)にのみ語る。語られる内容は、訣別に当たっての最後の教訓という形式をとってはいるが、彼と彼らとの間柄が何であるかということ、一言でいえば信仰の開明であり、堅信の奨めである。彼と彼らとの間は彼と天の父との関係に根差していること、彼によってまた彼と共に、彼らもまた天の父の子となることを教える。第17章までの部分はヨハネ福音書における最高峰であり、山上の垂訓に比べても遜色のない珠玉の文学である。繰り返し熟読吟味して信仰の秘儀を学ぶべきである」と述べている」。松村の場合は、原本に含まれていない15章から17章を含んで考えている。
田川建三は「共観福音書と比べると、現在見られる形では、ヨハネの最後の晩餐の場面は異常に長い」と述べ、この章の「最初に『洗足』の場面を置いたのは、明瞭に、マルコ福音書に見られる聖餐式設定の場面を代替するためである」という。その上で「『晩餐』そのものの話はほとんど何も記されていない。2節と4節に、これは晩餐の時のことだよ、文字通りひとこと言及されているだけである」。「この著者が晩餐そのものよりも『洗足』の話だけを語ろうとしていることは、明白である。その話の作りも、いかにもヨハネ的な創作である」。13章21節以降ないしは18節以降はイエスの長い説教であり、これは17章の終わりまで続く。この長い説教の大部分は教会的編集者が書いた説教だと思われる。「最初のうちは(第13章)、それでも遠慮がちにところどころに自分の説教的挿入を加えていっただけだが(それでも後半になるとどんどん増える)、14章になると、著者の原文よりも教会的編集者の文章の方がずっと多くなり、15章〜17章はついにまるごとこの編集者の作文である」(田川:558頁)。

第1章 洗足(13:1~20)

<テキスト13:1~20>
語り手:さて、過越の祭が近づいてまいりますと、イエスは非常に緊張してきました。いよいよ、この世を離れ父の御許に帰る時が来たのです。その時、気になることは弟子たちのことでした。それでイエスは弟子たちをとことん愛していることを示すためには何をしたらいいのか考えました。
夕食が始まる前、イエスと12人の弟子たちは食卓に着きました。イエスは弟子たちを見回しました。とくに日頃から気にかけていた弟子の一人イスカリオテのユダの様子を見ていますと、いつもの快活さが見られません。彼もかなり緊張しているようです。おそらく悪魔が既に彼の心奥深くに入り込み、イエスを売る決意をさせたのだろうと思われます。イエスは、何とかそれだけは避けたいと思っていましたが、それもどうやら手遅れのようです。彼の決意もかなり固そうに思われます。
イエスは父が、これからのことをすべて自分に任せてくださったように感じました。父は私を全面的に信頼しておられる。そうならば、私も弟子たちを信頼しよう。イエスは密かに自分に語りかけました。もう躊躇することはありません。
イエスは静かに席を立ち、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまといました。それから水桶に水を入れ、弟子たちの足元にしゃがみ込みました。弟子たちはこれから何が始まるのか驚きました。人間は本当に驚いたときには何もできず呆然とするだけです。彼らはイエスの異様な行動を黙って見つめるだけでした。最初の弟子の足を手で丁寧に洗い、腰にまとった布で拭き取りました。そして、次々と同じように弟子たちの足を洗いました。シモン・ペトロのところに来たとき、流石にペトロは気を取り直し、イエスに言いました。

ペトロ:先生、あなたが私の足をお洗いになるのですか。
イエス:私が何をしているのか、今はあなたは分からないでしょう。でも後になってわかります。
ペテロ:私の足など絶対に洗わないでください。
イエス:もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と何の関係もないことになりますよ。それでもいいのですか。
ペテロ:先生、それなら足だけでなく、手、頭も。

語り手:全部の弟子たちの足を洗い終わると、上着を着て、席にお着きになりました。

イエス:さて、私が何をあなた方にしたのか、分かりましたか。あなた方は私のことを、「先生」とか、また、「主」とか呼んでいますが、それはその通り正しいのですが、その私が、主とか先生と呼ばれているこの私があなた方の足を洗ったのです。ですから、あなた方もお互いの足を洗いあうべきでしょう。私は身をもってその模範を示したのですから、あなた方も私がしたようにして欲しいんです。本当のことを言うと、召使いは自分の主人よりも偉いわけはなく、遣わされた者は遣わした者よりも偉くはありません。もしこのことが分かり、それを実践すれば必ず幸せになります。

教会的編集者の挿入:13:10~11,18~20
<以上>

(a) イエスと弟子たちとの最後の晩餐は何時行われたのだろうか。ヨハネ福音書の時系列を十字架による処刑から遡ると、イエスの処刑後、「その日が過越の食事の備えの日であったので、とくにその安息日は大いなる日に当たっておりましたので、ユダヤ人たちは安息日に十字架に屍体が残らないようにとピラトに頼みました」(Jh.19:31)とあり、その日の日没から安息日(ニサンの月の15日)が始まるとされる。つまり処刑は現代的にいうと金曜日(同14日)の日中ということになる。その日の朝、「イエスは祭司長カイアファの邸では尋問らしい尋問もされず、そのままローマの総督官邸に送り込まれました。その時は、もう明け方近くで、ユダヤ人たちは官邸に入ろうともしませんでした。その日は過越の食事をする日で外国人の家に入ることは穢れると考えられていからでした」(Jh.18:28)とあり、過越の食事が金曜日の日没以後、(ニサンの月の15日土曜日)にもたれることを示している。そうすると、イエスが逮捕されたのは13日木曜日の日没後、ユダヤ暦では日付が変更され14日金曜日で(太陽暦では13日金曜日)、イエスと弟子たちとの最後の晩餐は13日の木曜日の夕方ということになる。マルコ福音書によると過越の食事は除酵祭の第1日、即ち小羊をほふる日とされるが、その日に過越の食事がなされているように描かれているのは間違いであろう。
ここでヨハネではイエスの処刑は小羊をほふる日ということである。まさにイエスは犠牲の小羊である。
ヨハネ福音書ではイエスについての最初の言葉が洗礼者ヨハネによる「ご覧なさい、あの方が『世の罪を取り除く神の小羊』です」(Jh.1:29)という言葉であった。そしてその死は過越祭における「小羊をほふる日」であった。つまり、始と終わりとが見事に対応している。

(b) イエスは世を去るに当たり、心残りなことは弟子たちのことであった。「イエスは弟子たちをとことん愛していることを示すためには何をしたらいいのか考えました」(Jh.13:1)。ここで「とことん愛している」という言葉を新共同訳では「この上なく愛し抜かれた」と訳し、口語訳では「最後まで愛し通された」、フランシスコ会訳では「終わりまで愛し抜かれた」と訳している。この言葉には「最後まで」という言葉が含まれている。つまり、ここから十字架上での死に至るまで愛したという意味であろう。要するにここからの全ての行為は弟子たちに対する愛の実践だという。弟子たちに対するイエスの愛について、松村克己は次のように述べている。「弟子たちをトコトンまで愛して、彼らのうちに、彼が知っている父なる神の愛を知らせ、この愛によって互いに相愛する群れを確立することであった。「最後まで」の愛とは単に時間的に最後までという意味だけではなく、程度において徹底的にという意味を含む。イエスの弟子たちに対する愛は十字架を前にして極度にまで高められた」。
その具体的行為の始まりが弟子たちの足を洗うという行為であった。その冒頭にイスカリオテのユダの裏切りということが述べられていることを注目すべきであろう。イエスの「とことんの愛」は裏切るであろうユダをも含んでいる。

(c) 「最後の晩餐」の記事はMt.26:26~30,Mk.14:22~26,Lk.22:15~20等共観福音書にも見られる。それらの記事のいずれも聖餐式の制定が主なる内容である。ところがヨハネ福音書だけは聖餐式制定については一切触れられず、それに代わるものとしてイエスが弟子たちの足を洗ったという出来事を記録している。食事の前に足を洗うという風習は特別なことではなかったようで、通常は、部屋の入口でその家の僕が手桶を準備して来客の足を洗うことになっていたようである。ところが最後の晩餐では、既に彼らは食卓に着いていたようである。考えてみると、彼らは足を洗っていない。
この場面を松村克己は次のように描写している。「招かれた客を入り口で迎えその『足を洗う』のは僕の役割である。イエスの一行の夕食は他人を交えない内輪だけの食事で、その食卓のマスターはイエスであり、弟子たちは招かれた客である。彼らの足を洗う僕がここにはいない。この家はおそらくヨハネ・マルコの母の家、後に弟子たちが集まるのを例とした家であろう。イエスは弟子たちだけでの別れの宴を持つことを望んだので、彼女は奴隷を出さず水と手拭いだけを用意してそこに置いたのであろう」。かなり想像が含まれているがおおよそこのような情景であったであろう。

(d) ペトロとの会話。さすがに弟子の中での最年長者、先生が弟子の足を洗うという逆転した状況にいたたまれなくなったのであろう。ペトロはイエスが彼の足を洗うことを拒否する。その時のイエスの言葉、「もし私があなたを洗わなければ、あなたは私と何の関係もないことになりますよ。それでもいいのですか」(Jh.13:8)。「あなたは私と関係がないことになる」、直訳すると「私と共に分け前を持つことがない」で、ポイントは「共に」ということにありそうである。イエスと関係があるということは、イエスと共に分け前の共同所有者になること。分け前はともかく、「共同」ということが重要である。イエスのこの言葉の中に福音の神髄が込められている。「イエスと共に立つ」、「イエスと共に生きる」、「イエスと共に死ぬ」、これらをすべて込めた一語が「イエスと関係がある」ということである。
「それなら足だけでなく、手、頭も」。この言葉は、半分ぐらい、いや半分以上、いやもっとかな。イエスの言葉に対する冗談だと思う。これに続く10~11節は、この言葉を冗談として受け止めきれなかった教会的編集者たちの苦心の付加であろう。ここで洗礼式や聖餐式のことを思い浮かべること自体が、この文章が教会的編集者の言葉であることを示唆している。

(e) 「さて、私が何をあなた方にしたのか」以下の文章は分かりやすい。ほとんど解説を必要としない。何故、ここで聖餐式制定の出来事ではなくイエスが弟子たちの足を洗ったという出来事を語っている意図を、イエスの口を通して語っている。こっちの方が聖餐式というサクラメントよりはるかに重要だと著者ヨハネは考えている。「本当のことを言うと、召使いは自分の主人よりも偉いわけはなく、遣わされた者は遣わした者よりも偉くはありません」(Jh.13:16)の言葉は、例の「アーメン、アーメン、汝らに次ぐ」という定型句に始まる言葉である。特に重要なイエスの言葉を意味している。「召使いは自分の主人よりも偉いわけはない」。これは当たり前のこと。ところがここではイエスが召使いのように弟子たちの足を洗った。このことは一般社会ではほとんどあり得ないことである。しかし、これをあなたがたも実践せよと言う。この教えはかなり厳しいが言っていることは分かりやすい。問題は、これと同じように、「遣わされた者は遣わした者よりも偉くはありません」と言う。この言葉は同じことを別の例で繰り返したに過ぎないように見える。しかし実はそこには隠れた意味がある。この「遣わされた者」という名詞は「アポストロス」で、教会では「使徒」を意味する。ヨハネ福音書が書かれた当時、既に12弟子たちの「使徒職」は確立しており、主から派遣された者として教会内では高い地位であった。ついでにもう一つ説明を加えると、ここで「派遣する」という意味の言葉は、「アポステロー」と「ペンポー」と二つあり、この二つの名詞形を実に上手く使い分けて「使徒(遣わされた者)」は「派遣した者」よりも偉くはないという。今ここで、彼らの主であるイエス自身が謙虚であったよりも、もっと謙虚でなければならないということを示している。

第2章 弟子への最後の教え

ここまで語るとイエスは一仕事終わった時に感じる一種の安堵感と、これから嫌なことを言わなければならないという気持ちで、しばらく沈黙が続いた。ここから二つのシーンがある。

シーン1 イスカリオテのユダ

<テキスト13:21~27、30>
語り手:イエスはこのことを話し終わると、何か思い悩んだ様子でしたが、意を決したように重い口を開き話し始めました。

イエス:実は、あなた方のうちの一人が私を裏切り、売るでしょう。

語り手:イエスのこの言葉は弟子たちを動揺させました。誰のことだろう、とお互いに顔を見合せました。イエスの席の隣に座っていた弟子、彼は普段から「イエスが愛している者」と呼ばれていましたが、ペトロはこの弟子に、「誰のことか尋ねよ」と目で合図をしました。その弟子がイエスの耳元でささやくように尋ねました。

その弟子:先生、それは誰ですか。
イエス:私がパンをスープにひたして与える者だ。

語り手:そういうとイエスはパンを千切り、それをスープにひたし、イスカリオテのユダに与えました。するとその一片のパンと一緒にサタンが彼の中に入りました。それを見て、イエスは彼に言いました。

イエス:あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい。

語り手:イエスのその言葉を聞いて、ユダはイエスからパン片を受け取り、すぐに出て行きました。外は真っ暗な闇夜でした。
教会的編集者の挿入:13:28~29
<以上>

(a) この場面はイスカリオテのユダの裏切りを公にした場面である。マタイ福音書では26:21、マルコ福音書では14:18、ルカ福音書では22:21に記録されている。いずれも最後の晩餐の席である。マルコとマタイではこれを聞いた時「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」という。ルカもほぼ同様である。共観福音書ではこの告知の前にすでにユダは行動していることを述べている。しかし他の弟子たちはそれを知らない。こういう場面で「まさかわたしのことでは」という心配をするということは、そうではないとは言い切れない何かを心に抱いているのであろう。ヨハネ福音書では、イエスのこの発言は唐突であり、ユダについてはこの食事会が開かれる前に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(Jh13:2)とだけ述べている。
ヨハネ福音書ではここまでにイスカリオテのユダは2回登場しているが(Jh.6:71,12:4)、いずれの場合も「裏切る者」と言われている。まさに「裏切る者」というレッテルが最初から付けられている。もっとも、これは著者と読者だけが知っていることで当事者たちは知らないことである。
ともあれ、この予告がなされた時、ヨハネ福音書では「誰か」とお互いに疑っているが、自分に対しては裏切らないと思っている。ここが共観福音書と異なる点である。

(b) ここに登場するのが、イエスの隣に座っていた「イエスが愛している者」という謎の人物である。この人物と洗礼者ヨハネの弟子でアンデレともう一人の「無名の弟子」(Jh.1:40)とが同一人物かどうか明記されていない。ペトロは彼に無言で合図し、裏切り者は誰か訊ねさせる。その時、イエスは彼の質問に周囲にわからないように示す。私は、イエスが彼にだけこのような重要なことを教えたとは思えない。事実、この後もその人物が誰かということは明らかにされないまま、事態は進み、イエスは誰にも分からないように、ユダに「あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい」と語り、ユダはすぐにその席を離れて外出している。教会的編集者は、同席していた者は誰も彼が裏切り者だということに気が付かず、会計としての仕事をしてたという解説を挿入している。多分その通りでだったであろう。ここで重要なことは、イエス自身はユダの裏切りを知っていながら、そのことを他の弟子たちにはわからないように配慮していることである。にもかかわらず、「イエスが愛している弟子」にだけは暗示的にではあるが述べている。その理由が判らない。

昨日のFB 04/10

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お早うございます。主の平和。教会に行く。聖研を終え昼食、JR八幡まで送って貰って帰宅。体調が風邪気味で2時間ほど寝る(OTB)。夕食後、鼻水が止まらないので風呂に入って9時に就寝。5時半起床。昨晩は孫息子が奈良からこちらに向かって走っている。7時頃到着の予定。体温:36.3、血圧(141:76、80)、体調・異常なし、チュン、チュン

34 石松 周さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他32人
コメント

藤木 冨士子 おはようございます。
久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

東山 富昭 おはよう😃ございます。耳鳴りは、変化がありません。主なる神と主イエス・キリストにあって、今日も、歩みます。よろしく、お願いします。

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りです。守られますようにお祈りします。

村田 多鶴子 おはようございます~♪孫息子さんのご訪問、楽しみですね!♥
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

中尾香鶴子 体調は大丈夫ですか?無理されませんように。

文屋 善明
4月10日 5:58 ·

お目覚めの花。「聖月曜日、今日から聖金曜日に向かって一直線。今日の花、タンポポの終わりと見るか、始まりと見るか。今日の旧約聖書朗読はイザヤ書42:1~9で、6節から一句。「主の下僕諸国の光わが救い、地の果てまでも語られるべし 善明」。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、屋外、自然

33 植村 光郎さん、岸本 望さん、他31人
コメント

清水 行雄 おはようございます。素晴らしいタンポポの写真です。

文屋 善明
4月10日 6:17 ·

2017 日々の聖句 4月10日(月)
主は死を永久に滅ぼしてくださる。(イザヤ25:8)
わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(1コリント15:57)
私の黙想:
「死を永久に滅ぼす」とは、一体どういうことだろう。恐らく、時代により、民族により、文化により、おそらく個人により違う理解、観念を抱くのではなかろうか。じゃぁ、お前はどう考えている、と問われると困る。頭の中だけで、「死が永久に滅びる」ということを考えたら、「死なない」ということしか考えられないし、それは「考えられないこと」である。むしろ普通に考えたら、死が「永遠の滅び」ではないか。私は私の死によってこの世から完全に消えること。死によって私がなくなることか、死が死ぬこと(滅びる)ことによって、私が生きる(死ななくなる)ことか。言わば、生とは私と死との勝負ということになる。ということで、パウロは「死なない自分」を求めた、言い換えると死にたいする「勝利」を願った。それが今日の新約聖書の聖句の「勝利」という意味であろう。私は「死」をそのようには考えない。死は生の終わりにすぎない。もし、ただ、何となく生きるとしたら、それは人々の記憶の中だけである。

22 岸本 望さん、岡本真知子さん、他20人

文屋 善明
4月10日 6:30 ·

今日の名言:@B_Pascal_jp
自分の精神を損なうことがあるように、自分の直感を損なうこともある。自分の精神と直感とは、会話によって作り上げられる一方で、また会話によって損なわれる。(パスカル、『パンセ』§6)
<一言>ここでいう会話とは、「問い」と「答え」である。会話は「問い」から始まる。従ってよい精神を作り上げるためには会話を選べとパスカルはいう。つまり、「問い」それ自体の選択である。だから、良い「問い」に出会ったら喜ぶべきである。

26 Luke Etsuzou Nomahさん、大野 泰男さん、他24人
コメント

水草 修治 以前、久しぶりに大学時代のプラトンの先生にお目にかかかったとき、「哲学とはなんですか?」質問したら、「哲学とは問いを立てることです。」と答えをいただいたことを思い出しました。そして、問いの立て方が正しければ、正解に到達できるけれど、問いの立て方が悪いと、そうならない。そこで、問いを立て直す必要がある。…そんな風におっしゃっていたことを思い出しました。

文屋 善明 私の先生も常々「問いの立て方」を問題にしておられました。学生の場合は「質問」でその人の頭の程度、勉強の程度がわかるとも。

水草 修治 理系ですと、実験の仕方なんでしょうね。

文屋 善明 実験より前に「仮説」があるんじゃないでしょうかね。

水草 修治 そうですね。

文屋 善明
4月10日 6:32 ·

<現代文イミタチオ・クリスチ>
第15章 神の言葉を聞く(D)
キリスト:
愛する者よ、怠け者で愚痴ばっかり言っている下僕たちよ、君たちのために準備されている天国行きの切符の枚数よりも、地獄行きの切符の方がはるかに多いことを恥ずかしいと思わないのか。真理を喜んでいる者よりも、虚しいものを喜んでいる者の数の方が多いということは一体どういうことなんだ。彼らは期侍していることが裏切られてばっかりいるのに、それでもなお望みをかけている。しかし私が君たちに約束したことで裏切ったことがあるか。いつでも、期待以上の結果になり、失望した人は一人も居ないのだ。私の愛のうちにとどまっている限り、私は約束したことは必ず果たすのだ。私があらゆる良い行いに報いる者であり、敬虔な人たちの敬虔さを認める者なのだ。
私は君たちの心に私の言葉を書き込みます。だからその言葉を真剣に考えなさい。その言葉は君が誘惑されそうになったとき、必ず役に立ちます。
私は二つの道を君たちに示します。一つは魅力的な道、そしてもう一つは平凡な道です。どちらの道を選ぶかは君自身が考えることです。最初の道は君自身の欠点を露わにするだろう。もう一つの道は、君のその欠点を克服するために苦しむ道です。私が今、君たちに話していることを注意深く考えなさい。その結果は必ず終わりの日に審査され、判定されます。(2:15:15~23)

19 松井 理直さん、大野 泰男さん、他17人
コメント

加藤 佑三 有り難い先生からのお言葉に聞こえますが、私には遅すぎました。残念無念です。

文屋 善明 これは私にも手遅れでした、

文屋 善明
4月10日 6:34 ·

ニーチェ・短歌
(41)純粋な子どもはすべてを忘却し、世界すべてをまた見つけ出す
(『ツァラトラストラ 上』第1部(1)「三つの変化について」) P.115
(42)君にとり敬意を払う相手こそ、誇れる敵でありうるものだ
(『ツァラトラストラ 上』第1部(10)「戦争と戦士たちとについて」)p.91

文屋 善明
4月10日 7:38 ·

5年前のローズンゲンだ。深刻な問題に直面している人に対して当たり前すぎることはつまらない。その点聖書の言葉は当たり前ではないところが魅力だ。

文屋 善明
2012年4月10日 · 福岡県 宗像市 ·
losungenj 2012.04.10(tue)
人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか。(Job4:17)
キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。 (Tit2:14)
私の黙想:
この「当たり前すぎる言葉」は一体何を語ろうとしているのか。この言葉はヨブの友人エリファズの言葉だ。彼はヨブが今直面している人生における深刻な問題を少しも理解していない。ヨブは神が神であることに問題を感じているのだ。危機に直面している人に対する「当たり前すぎる言葉」は残酷である。

14 久保和男さん、植村 光郎さん、他12人

文屋 善明
4月10日 10:01 ·

「原本ヨハネ福音書研究より抜粋(第12章)」をブログにアップしました。(聖週の月曜日・火曜日のための資料)
http://blog.goo.ne.jp/jy…/e/e2ed54c02a594e30008b4bc15f93f13b
月曜日 ヨハネ12:1~11
火曜日 ヨハネ12:37~50

BLOG.GOO.NE.JP

12 鎌野 健一さん、久保和男さん、他10人

文屋 善明
4月10日 10:16 ·

「昨日のFB 04/07」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

15 Mizota Michael Satoshiさん、久保和男さん、他13人

文屋 善明
4月10日 10:52 ·

「昨日のFB 04/08」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

12 久保和男さん、川染 三郎さん、他10人

文屋 善明
4月10日 11:25 ·

これは必見!

加計学園疑惑の全体像が見えてくる動画 国民が知れば「安倍政権はひとたまりもない」
 IWJの動画は必見です。加計学園疑惑の全体像がみえてきます。動画の2分10秒〜8分6秒、9分3秒〜10分24秒のところをご覧下さい。特に、5分20秒〜8分6秒は重要です。
SHANTI-PHULA.NET
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=125863

12 石松 周さん、川染 三郎さん、他10人

文屋 善明
4月10日 21:34 ·

桜前線列島のMRIなり 善明

18 岩村 義雄さん、山本 友美さん、他16人

文屋 善明
4月10日 21:49 ·

面白い世界を揺るがす嘘ニュース 仙明

13 霜山 雅也さん、小貫 ツマさん、他11人

文屋 善明
4月10日 21:58 ·

ウソホント見分けるのには高くつく 仙明

12 小貫 ツマさん、霜山 雅也さん、他10人

文屋 善明
4月10日 22:02 ·

ニュースから無限に湧き出る川柳が 仙明

28 辻本 昌弘さん、岩村 義雄さん、他26人

文屋 善明
4月10日 22:05 ·


もうこれでやめておきます、最後屁
トランプや屁をこくようにウソニュース 仙明

26 岩村 義雄さん、加藤 治さん、他24人

昨日のFB 04/11

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お早うございます。主の平和。孫息子が無事到着。朝食後、家内は整骨院へ。私は風邪気味で2時間ほど寝る(OTB)。昼食後、再び寝る。ベッドで読書、『唐牛伝』、ちょうど半分ほど読んだが、部分部分は面白が全体として焦点がぼやけている。読者が唐牛のことを知っているという前提のようだ。テレビから森友学園問題、昭恵夫人問題は消えた。もっぱら海外ニュースばかりだ。夕食後、池上さんのニュース、報ステを見て10時半に就寝。5時半起床。体温:36.3、血圧(144:76、79)、体調・異常なし、チュン、チュン

33 辻本 昌弘さん、石田 聖実さん、他31人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

藤木 冨士子 おはようございます。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
孫息子さんを囲んでの愉しい時間を想像して~♪~♪♪~♪♪♪
今日も、お守りの内に愉しい佳い時間をお過ごしになられますようにm(__)m

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りです。守られますようにお祈りします。

東山 富昭 おはよう😃ございます。今日は、雨です。主なる神と主イエス・キリストにあって、歩みます。

文屋 善明
4月11日 6:17 ·

お目覚めの花。全体として薄曇り、白に近いピンクの桜の中で、小さいながらも存在を主張しています。一寸棘がありますが可愛いもんです。(花の名前はなんだったけな、桜じゃなくて梅でなくて、杏でなくて・・・、釣川堤防にて)
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、木、屋外、自然

40 真塩 ナナ子さん、辻本 昌弘さん、他38人
コメント

村田 多鶴子 ボケの花でしょうか?

文屋 善明 そうだ、そうだ、ボケでした。それがなかなか出てこないで困りました。私もボケてきました。

大脇 友弘 そのオチを狙ってたなあ🤣

文屋 善明 ハハ、ばれたか。

文屋 善明 付き合い長いからね。

大脇 友弘 楽しまなくちゃ!

文屋 善明 でも、事実は「ボケ」の「ボケ」がなかなか出てこなかったので、調べるのが面倒で、「エイッ」とごまかしてしまいました。村田さん、ありがとうございました。

大脇 友弘 木瓜(ボケ)・・・実が瓜みたいですからね・・・。

文屋 善明 実があるんですか。知りませんでした。

大脇 友弘 https://search.yahoo.co.jp/image/search?fr=top_ga1_sa..

文屋 善明
4月11日 6:36 ·

2017 日々の聖句 4月11日(火)
(だが、)わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。(エゼキエル16:60)
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒言行録2:39)
私の黙想:
ノアとの約束か、アブラハムとの約束か、モーセとの約束か、ダビデとの約束かはわからないが、ともかくイスラエルの民は神と契約を結んだ。民の側では常に約束は忘れられ「なかったかのように」なっていたときには「罰」として、約束は反故にされたように見えても、神の側の方では一貫しており破られたことはない。神の側では常に「永遠の契約」であった。これが民と神との基本的な関係であり、イスラエル(ユダヤ人)の歴史観である。
さて、今、この人たちは現状をどう見ているのであろう。この文章において、彼らのことを「この人たち」としか表現できない。今、エルサレムを支配しているイスラエル国は本当に「この人たち」なのか、疑わしいからである。むしろ、そこから追われているパレスチナ難民、あるいはシリア人たちこそが「この人たち」かも知れない。いや、そうに違いない。この契約については、いくら図々しくてもキリスト者が「この人たち」とは言えない。いや、初代教会の人たちは「自分たちこそ、そうだ」と信じていたようであるが。

17 久保和男さん、辻本 昌弘さん、他15人

文屋 善明
4月11日 6:42 ·

今日の名言:@C_G_Jung_jp
知性とは何か。それは人間の魂の機能であり、鏡などではなく、子どもがそれによって太陽を眩しがらせることを期待して、太陽に向ってかざすような鏡の小さな欠片であった。(カール・グスタフ・ユング、『自伝』)
<一言>あまりにも見事な表現なので思わず取り上げてしまいました。ユング大先生がそう仰るのですから、私などは「小さな欠片(かけら)」でさえありません。鏡の裏がはがれて鏡としての機能を失ったガラス片にすぎません。

19 久保和男さん、佐藤 静代さん、他17人

今日の名言:@C_G_Jung_jp
知性とは何か。それは人間の魂の機能であり、鏡などではなく、子どもがそれによって太陽を眩しがらせることを期待して、太陽に向ってかざすような鏡の小さな欠片であった。(カール・グスタフ・ユング、『自伝』)
<一言>あまりにも見事な表現なので思わず取り上げてしまいました。ユング大先生がそう仰るのですから、私などは「小さな欠片(かけら)」でさえありません。鏡の裏がはがれて鏡としての機能を失ったガラス片にすぎません。

文屋 善明
4月11日 6:51 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第16章 私の心を燃やして下さい
修道者:
主なる神よ、私がもっている良いものはすべてあなたから与えられたものです。なのに、私はあなたに、これ以上何を願えばいいのでしょうか。私は貧相な虫けらにすぎません。だから、口を開けば、つまらなさがよりいっそうばれてしまいます。私には誇るべきことは何一つありません。
主よ、そのことだけは覚えておいてください。あなたは絶対に清く、正しく、全てにおいて良いことで満ちておられます。しかし、あなたは厳しい方で、罪人にはお目を止められません。
主なる神よ、私を忘れないでください。あなたのみ業が無駄にならないように。あなたから見離されたら、私はこの世において生きることもできません。だから私から目を離さないでください。あなたのご配慮を速やかに実行してください。あなたのご配慮がなくなると、私の魂は干涸らび、土の塊のようになってしまいます。
主よ、私があなたのみ旨を行なうことができますように。御前を正しく、へりくだって歩くことができますように。全知全能の神よ、あなたは私が生まれる前から、私のことをすべてご存じです。 (2:16:1~10)

18 久保和男さん、大野 泰男さん、他16人

文屋 善明
4月11日 6:54 ·

ニーチェ・短歌
(43)友人は察知が上手く沈黙し秘密を厳守する者がいい
(『ツァラトラストラ 上』(第1部(14)「友人について」) P.119
(44)たくさんの短い愚行が愛であり長い愚行が結婚である
(『ツァラトゥストラ 上』第1部(21)「自由な死について」第22節) p.127

16 松沢 直樹さん、久保和男さん、他14人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月11日 7:58 ·

5年前のローズンゲンです。私の秘密が書いてあります。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月11日 · 福岡県 宗像市 ·
losungenj 2012.04.11(wed)
神は、わたしの労苦と悩みを目に留められた。(Gen31:42)
パウロの言葉:わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 (1Cor15:58)
私の黙想:
神が「目を留められた」ら、もう大丈夫。ここに至るまでが大変だった。神が目を留められたら神の民の歴史の潮の目は変わる。出エジプト記2:25「神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。私はこの言葉が大好きだ。これが祈りの手応え。この変化は世の権力者には見えない。


6 橘 智さん、辻本 昌弘さん、他4人

文屋 善明
4月11日 8:48 ·

「昨日のFB 04/09」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

11 久保和男さん、川染 三郎さん、他9人

文屋 善明
4月11日 11:11 ·

非常に重要な報道なので、1頁と2頁とを合わせて、以下にコピーしました。ぜひ、お読みください。現在の官邸がいかに天皇の意志を無視し、押さえ込んでいるのかが、はっきりします。最終的には官邸側の「伝家の宝刀」宮内庁人事にまで手を突っ込んで天皇のご意向を押さえ込んでいます。
<以下、本文>
(平成と天皇)プロローグ・退位をめぐる攻防:上 
退位、陛下の揺るがぬ信念(2017年4月11日)
記者会見で今井敬座長は、一代限りとした理由として「譲位はもともと非常に問題」「皇統の継続に非常に問題があることを理解して欲しい」と語った。宮内庁関係者によると、この言葉に、納得がいかない表情を浮かべた人物がいた。天皇陛下だった。
陛下の退位の意向は、象徴天皇の理想像を完遂させる思いからだ。即位以降、象徴のありようを模索し、ハンセン病療養施設や被災地の訪問を重ねるなど、国民に寄り添う姿勢を貫いてきた。体力の衰えによりその活動ができなくなるなら、次の世代に譲るべきだという信念があった。
歴代の歩みで、譲位した天皇は58人。「譲位は歴史的にも驚くようなことではない」と周囲に語り、鎌倉幕府と戦った後鳥羽上皇など一時期をのぞけば、譲位があったからこそ平和に代替わりできたとの歴史認識も繰り返し口にしたという。
陛下が有識者会議の検討に口を挟むことはなかったが、この間の宮内庁の対応に、陛下の思いに沿おうとする姿勢がうかがえた。
例えば2016年11月、西村泰彦次長は会見で「公務を大幅に減らすのは難しい」と述べ、陛下が大切にしてきた公務が縮小されないよう有識者会議に釘を刺した。
陛下の強い意思は、16年7月13日夜にNHKが「生前退位」の意向と最初に報じたときにも表れる。放送後、宮内庁の山本信一郎次長(当時)は、報道陣に「報道されたような事実は一切ない。事実無根」と火消しにまわったが、静養先の葉山御用邸(神奈川県葉山町)でそのやり取りの報告を受けた天皇陛下は、こう語ったという。
「事実無根? 無根ではないですよね」(註:これは天皇のお言葉)
歴史上、初めて即位時から憲法で象徴と定められた明仁天皇。高齢となり、全身全霊で務めを果たせなくなったとして退位する見通しとなった。およそ30年の平成という時代に、陛下が追い求めた象徴天皇像はどんなものなのか。政府や国民はどう受け止め、皇室は今後どうなるのか。「平成と天皇」シリーズで随時考えたい。プロローグでは陛下の退位への思いをたどり、首相官邸や宮内庁での攻防を検証する。
2015年秋、宮内庁から陛下の意向伝達「退位」、回避を探った。
天皇陛下の退位をめぐり、宮内庁と首相官邸が初めて正面から向き合ったのは、2015年秋のことだった。
「12月23日の陛下の誕生日会見で、お気持ちを表明していただこうと思っています」。この頃、宮内庁の風岡典之長官(当時)が、首相官邸の杉田和博官房副長官に陛下が退位の意向を持っていることを伝えた。
「何とか、お待ちいただけないか」。寝耳に水だった杉田氏は、とっさにそう反応した。一度でも退位を認めれば、皇位継承のあり方が根底から崩れかねない。難色を示した背景にはそんな思いがあった。
戦後間もない1947年に制定された皇室典範は、天皇の逝去によってのみ皇位が継承されると定める。明治時代に定まった「終身在位」の原則は、退位が時に政争の具ともなった歴史を鑑みた制度で、象徴天皇制となった新憲法下でも受け継がれた。政府内では、皇位継承順位が誰の意思も介在せず自動的に決まることが、皇室安定の基盤だという捉え方が強かった。
天皇誕生日に合わせたお気持ち表明は官邸の慎重姿勢もあって見送られた。だが、退位を望む陛下の意向は強く、官邸も何らかの対策は必要だと考えていた。杉田氏と風岡氏は、公務の負担軽減に向けた検討を水面下で進めることでいったん折り合った。
「摂政の要件を緩和することで、退位の意向を押しとどめられないか」。官邸幹部らはまず、摂政を設けて陛下の負担を減らし、情勢を見極めようとした。
ただ、いまの皇室典範が定める摂政は、天皇が意思表示などをできなくなった場合に限り、国事行為の代行を想定する。いくら要件を緩和しても、象徴天皇としての公的行為が難しくなりつつあるいまの陛下に用いるのは考えにくかった。政府関係者は「摂政の要件緩和は、退位を回避するための案だった」と語る。
官邸には、「退位の意向」が表沙汰になり、政治課題となることを避けたい事情もあった。
16年夏には参院選が控えていた。安倍晋三首相は悲願の憲法改正に向け、衆院に続き参院でも改憲原案の国会発議ができる「3分の2勢力」の獲得を目指していた。この時点では衆参ダブル選挙も選択肢としていた首相に、新たに「退位」を抱える余裕はなかった。「退位の是非が選挙の争点になることは避けたかった」。官邸幹部は、そう振り返る。
2016年夏、NHKの報道が先行、主導権確保へ、一気に動いた。
参院選で自民党が圧勝した3日後の昨年7月13日夜、NHKが「天皇陛下、退位の意向」と報じた。官邸幹部たちはメディアに対し、「退位の意向」を一様に否定。菅義偉官房長官は翌14日の記者会見で、「(意向は)全く承知していない」と言い切った。
「陛下の考えを忖度して情報を流した」(首相周辺)。官邸内では宮内庁に対する不信感が広がった。参院選後に先送りしていた退位をめぐる議論が、報道により表面化したためだ。菅氏や杉田氏らが、8月以降に何らかの形で陛下のお気持ちを公表することを検討していた矢先でもあった。
それでも、首相らは退位を恒久的な制度とすることには慎重だった。退位の意向が報じられた後、周辺に「典範の改正には持っていきたくない」と漏らした。皇室典範を改正し、今後すべての天皇に退位を認めるような抜本改革をすれば、政権の支持基盤である保守層の反発は避けられない。さらに、典範の改正論議が憲法問題に波及すれば、そこに膨大な時間と労力を要するのは確実で、参院選の勝利で前進した憲法改正の道筋は描きにくくなる。
ほどなく、「法の番人」とも言われる内閣法制局が助け舟を出した。「一代限りの特例法ならば、退位は可能」。こんな見解を内々に官邸に伝えてきたのだ。将来にわたり適用できる退位の要件は定めず、いまの陛下の事情を考慮して特例的に退位を認める。官邸の基本方針は、この段階で固まった。
一方、退位に賛成する圧倒的な世論を官邸は警戒していた。当時、報道各社の世論調査では8~9割が退位を支持。「世論が『陛下の意向通りにやらないとおかしい』となりかねない。じっくりと冷静に議論を進める必要がある」。7月末、首相側近は周囲にそう語っていた。
8月8日、陛下のビデオメッセージが公表された。「次第に進む身体の衰えを考慮する時、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなるのではないか」。約11分間のお言葉には、退位の意向が強くにじんでいた。摂政にも言及し、「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」と語り、事実上否定した。
「天皇陛下が『ご発言されたこと』を、重く受け止めております」
首相はお気持ち表明の直後、記者団にそう語った。陛下のお気持ちを受けて退位を検討するのではなく、陛下の現状に対する国民の共感を踏まえ、法整備に動く。首相発言にはすでに、特例法を前提にした理屈が込められていた。
官邸はこれを機に、一気に巻き返しに出た。宮内庁の幹部人事に手を入れ、9月23日の閣議で風岡長官を退任させ、次長の山本信一郎氏を後任に据えた。山本氏の後任次長には官邸中枢から、杉田氏とのパイプが太い内閣危機管理監の西村泰彦氏を送り込んだ。官邸スタッフは「菅氏の肝いり人事」と説明。官邸から宮内庁ににらみを利かせる狙いがあった。
さらに、退位をめぐるもう一つの仕掛けも公表された。政府は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」を設け、10月から有識者に退位をめぐる議論を進めてもらうことにした。「会議を通じ、典範改正がいかに難しいかを示したい」。政府関係者はそう語った。議論の主導権は官邸が握っていた。
<以上>
<以下私見>
新憲法下における「象徴天皇制」について、すべての日本人の中で誰がもっとも、考え抜いた「専門家」は誰か。それは現在の天皇以外にはいない。天皇は昭和天皇が生涯の途中で憲法が変わり、天皇の位置づけが変わったときの経緯をもっとも身近なところで見てきて、昭和天皇の悩みをもよく知った居られる。この点について現在の天皇以上の歴史的証人は存在しない。また、ご自身がその「象徴天皇」に即位して以来、「象徴天皇」とは何か、どうあるべきなのかを考え抜き、さらに天皇制の歴史もご自分自身のこととして考えてこられた「専門家中の専門家」である。この「専門性」から考えたら「有識者」も素人である。なぜ、この専門家の意見を聞かないのか。それこそ、天皇の政治的利用ではないか。私は天皇のあり方等についてはいわゆる「政治問題」ではないと考える。だから、もっと素直に天皇のご意見を伺おうではないか。その意味では、官邸は天皇の「臣下」にすぎないではないか。
画像に含まれている可能性があるもの:1人

31 久保和男さん、川染 三郎さん、他29人

文屋 善明
4月11日 16:09 ·

ローマ教皇の権威への疑問
私がどうしても理解できないことは、使徒ペトロが初代ローマ教皇になったという点である。パウロがローマに行ったということについては使徒言行録にも記録があり、否定できないでしょうが、使徒ペトロが、いつ、どういう形でローマに行ったのかわからない。というより、それはほとんどあり得ないだろうと推測する。
初期の教会の中心はあくまでもエルサレム教会(「母なる教会」)であり、そこの実権はイエスの弟とされるヤコブが握っており、晩年の使徒ペトロはエルサレム教会の形式的代表者であり、そこで殉教したのではないだろうか。
この世の政治権力の中心はローマにあり、その意味ではローマにある教会はキリスト教の宣教活動としては拠点的な意味があったであろうが、それ以上ではない。あくまでも西の端の地方教会にすぎない。
当時のキリスト教世界は、エルサレム教会を中心にしてエフェソ、コリント、コロサイ、フィリピ等のそれぞれ半分独立した形で分散しており、それぞれがいわば「主教(エピスコポ)」によって指導されていたであろう。そういう状況が2〜3世紀ほど続き、ローマ帝国がキリスト教を公認し、ローマ帝国の宗教という地位を確立して以後、一挙にローマ教会が「キリスト教世界の中心的機能」を持ち始めたのであろうが、各地の教会はそれぞれ独立性を保ってたものと思われる。
その意味では、ニケア会議の結果、諸地方の教会がそれぞれ独立したままでローマ教会の指導性を承認したものと思われる。
しかし、その段階でもローマ教皇の「唯一性」が確立されたわけではなく、むしろ神学的な中心はアレキサンドリア辺りの東方教会にあったものと思われる。いわゆる「ギリシャ語のキリスト教」である。
従って、11世紀の東西教会の分裂も東方教会はローマから分離したというようなことではなかったのはないだろうか。
この一連の歴史のスケッチにおいて「ペテロの座」の成立の根拠は非常に薄弱である。

29 望月 克仁さん、佐藤 彰子さん、他27人
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コメント

Mizota Michael Satoshi おっとこれは面白い。私も同じことを考えてましたんで。。。ペトロは二人以上いたら解決します。名前もいくつも変わってるんでそこらへんは自由自在に。。。

文屋 善明 「使徒ペトロ」は、日本における歌舞伎世界のように、一種の芸名で「初代ペトロ」「3代目」「5代目」とかそれはあり得るでしょうが、そうなると、西と東とで「ペトロの座」の争奪戦があって、金の力で西が勝ったとか。

文屋 善明 この問題については、私はあくまでも素人なので、プロの方のご意見に従います。

清水 行雄 信仰抜きに、純粋に世界史の知識の話としても、興味深い話です。ありがとうございます。

Mizota Michael Satoshi え、ペトロってクレネ人では?

文屋 善明 どさくさに紛れて、もう一つわからないこと。カトリック教会っていつからカトリック教会と言い始めたのでしょうね。ご承知にように、これはこれはカトリケー、つまり普遍的、現代的にいうと「グローバル」、これは明らかにギリシャ語系の教会の「オーソドクシー」つまり、伝承ということを大切にしているということで、「オーソドクシー」は時間の流れ、「カトリケー」は広さの概念、どちらが咲きかわかりませんが明らかに相互に意識している、「本店争い」みたいなもの。この辺の歴史的な経過がわかりません。

Mizota Michael Satoshi え、正教もカトリケーだと言ってますし。。。

文屋 善明 「グリーク・オーソドクシー」で、この「正教」の正とは正統なという意味でしょう。

Mizota Michael Satoshi その場合は正統性ですね。日本語の「正統」が当たる。正しい系統という意味で。それなら聖公会は明らかにカトリックなんだけど、同時にオーソドックスともいわなきゃならなかった。。。別にローマからの枝はどうでもよろしくて、ふるくは東方から伸びてきた枝なんだから。

文屋 善明 単純に誤変換でした。直しました。

Mizota Michael Satoshi 「正当」ってむしろカトリックの訳語としていいかも。。。

Mizota Michael Satoshi 「カトリック」かつ「オーソドックス」かつ「エピスコパル」かつ「ヒストリカル」ってところでしょうか。「かつ」を「または」にすると、一気にプロテスタントになります。

Mizota Michael Satoshi 主教按手の要件ってありませんでしたっけ?三人以上でないとなんとかとか、、、、

Mizota Michael Satoshi よく考えると内容がもったいない。私の部屋にシェアさせていただきます。

文屋 善明
4月11日 20:42 ·

あ〜あ、外務省の公式文書(パンフレット)に「政府要人」だって。それでも、私人か。いや、あれは私の知らんところで外務省とかないとがやったこと。と言ったら、夫婦関係が疑われる。困ったなぁ、ねぇ、世耕くん、なんとかならんかね。

田中 隆夫
4月11日 20:04 ·
tomoko isobe(脱被曝に一票)‏ @sobtomk
ほんとだ。すごいなあ。
外務省のHPの資料に、日本政府要人として安倍昭恵夫人が紹介されているよ。★Amorphous‏ @venusparadox
安倍総理終わりました。
これ大切、 …。

18 大脇 友弘さん、越山 香菜子さん、他16人

ローマ教皇の権威への疑問

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ローマ教皇の権威への疑問
私がどうしても理解できないことは、使徒ペトロが初代ローマ教皇になったという点である。パウロがローマに行ったということについては使徒言行録にも記録があり、否定できないでしょうが、使徒ペトロが、いつ、どういう形でローマに行ったのかわからない。というより、それはほとんどあり得ないだろうと推測する。
初期の教会の中心はあくまでもエルサレム教会(「母なる教会」)であり、そこの実権はイエスの弟とされるヤコブが握っており、晩年の使徒ペトロはエルサレム教会の形式的代表者であり、そこで殉教したのではないだろうか。
この世の政治権力の中心はローマにあり、その意味ではローマにある教会はキリスト教の宣教活動としては拠点的な意味があったであろうが、それ以上ではない。あくまでも西の端の地方教会にすぎない。
当時のキリスト教世界は、エルサレム教会を中心にしてエフェソ、コリント、コロサイ、フィリピ等のそれぞれ半分独立した形で分散しており、それぞれがいわば「主教(エピスコポ)」によって指導されていたであろう。そういう状況が2〜3世紀ほど続き、ローマ帝国がキリスト教を公認し、ローマ帝国の宗教という地位を確立して以後、一挙にローマ教会が「キリスト教世界の中心的機能」を持ち始めたのであろうが、各地の教会はそれぞれ独立性を保ってたものと思われる。
その意味では、ニケア会議の結果、諸地方の教会がそれぞれ独立したままでローマ教会の指導性を承認したものと思われる。
しかし、その段階でもローマ教皇の「唯一性」が確立されたわけではなく、むしろ神学的な中心はアレキサンドリア辺りの東方教会にあったものと思われる。いわゆる「ギリシャ語のキリスト教」である。
従って、11世紀の東西教会の分裂も東方教会はローマから分離したというようなことではなかったのはないだろうか。
この一連の歴史のスケッチにおいて「ペテロの座」の成立の根拠は非常に薄弱である。(2017年4月11日)

コメント
文屋 善明 「使徒ペトロ」は、日本における歌舞伎世界のように、一種の芸名で「初代ペトロ」「3代目」「5代目」とかそれはあり得るでしょうが、そうなると、西と東とで「ペトロの座」の争奪戦があって、金の力で西が勝ったとか。

文屋 善明 どさくさに紛れて、もう一つわからないこと。カトリック教会っていつからカトリック教会と言い始めたのでしょうね。ご承知にように、これはこれはカトリケー、つまり普遍的、現代的にいうと「グローバル」、これは明らかにギリシャ語系の教会の「オーソドクシー」つまり、伝承ということを大切にしているということで、「オーソドクシー」は時間の流れ、「カトリケー」は広さの概念、どちらが咲きかわかりませんが明らかに相互に意識している、「本店争い」みたいなもの。この辺の歴史的な経過がわかりません。

原本ヨハネ福音書研究より抜粋(十字架)

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原本ヨハネ福音書研究より抜粋(十字架)

1.逮捕

<テキスト18:1~11>
語り手:イエスは弟子たちをうながしキドロンの谷の向こう側に行かれました。そこには庭園があります。ここはイエスと弟子たちの好きな場所で時々休みに来る、いわば秘密基地のような所でした。当然イエスを売り渡そうとしていたユダもここをよく知っていました。イエスと弟子たちはその庭園に入りました。ちょうどそのとき、ユダがローマ兵の一隊とユダヤ人のお偉方が派遣した下役たちを引き連れてやって来ました。彼らはそれぞれ松明や灯火や武器を手にしています。イエスはここで何が起こるの何もかもご存知で、自分の方から進み出て、声をかけられました。

イエス:あなた方は、誰を捜しているのですか。
ローマ兵:われわれはナザレ人イエスを捜している。
イエス:私だ。

語り手:イエスが「私だ」と言われたとき、その威厳ある言葉と態度に圧倒されて、彼らは思わず後ずさりし、そのうち何人かは押し倒されたほどでした。彼らがあまりにもグズグズしているので、イエスがもう一度声を張り上げました。

イエス:あなた方は、誰を捜しているのだ。
ローマ兵:ナザレ人イエスだ。
イエス:私だ、と言っているではないか。私を捜しているのなら、この人たちには手を出すな。

語り手:そのとき突然シモン・ペトロが隠し持っていた短剣を抜いて、大祭司の僕、マルコスに打ちかかり彼の右耳を切り落としました。それを見てイエスはペトロを叱りつけました。

イエス:剣を鞘におさめなさい。私のために父が準備してくださった杯を私は飲むのだ。

語り手:このようにしてイエスはローマ兵士たちと千卒長、ユダヤ人の下役たちによって逮捕され、縄を掛けられました。

教会的編集者の挿入句:18:9
<以上>

18章冒頭の「イエスは弟子たちをうながしキドロンの谷の向こう側に行かれました」という言葉は14章31節を受けている。キドロンの谷とは、ゲッセマネの別称であろう。ヨハネ福音書がマルコ福音書(共観福音書も同じ)と著しく異なる点は、マルコではユダが引き連れているのは、祭司長、律法学者、長老たちから送られユダヤ人の一団であるが、ヨハネではローマ兵たちである。マルコではローマ兵の姿が見えない。
マルコでは出会いの場面で最初に声をかけたのはユダで、「先生」と言いイエスに接吻している。これがイエスの人物認定であったらしい。ヨハネではユダの役割は案内してきただけで、イエスの方からローマ兵に対して「あなた方は、誰を捜しているのですか」と声をかけ、「ナザレのイエスだ」という答えに対して「私だ」と答えている。この「私だ」は「エゴ エイミ」である。このイエスの「エゴ エイミ」という言葉には異常な力があるらしく、この言葉を聞いてローマの兵隊たちは後ずさりし、ある者はひっくり返ったという。ここで同じ質問が繰り返された時、イエスの重要な発言がある。「私だ、と言っているではないか。私を捜しているのなら、この人たちには手を出すな」。こういう場面でもイエスが弟子たちに対する配慮を忘れない。この言葉が後にイエスが「身代わりになった」という思想へと発展したのではなかろうか。
その時突然ペトロが隠し持っていた剣を抜いて、大祭司の僕、マルコスに打ちかかり、彼の右耳を切り落とした。それを見てイエスはペトロを叱りつけている。「剣を鞘におさめなさい。私のために父が準備してくださった杯を私は飲むのだ」。このエピソードはマルコも述べている。ただイエスの言葉はマルコでは、ペトロに対してではなく、ユダヤ人たちに対して「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか」(Mk.14:48)。マタイ福音書ではペトロとユダヤ人たちとの両方に同じような言葉をかけている。ルカはイエスがその僕の耳に手を触れて「癒す」という小さな奇跡を行っている(Lk.22:51)。

2.ユダヤ人共同体における尋問

<テキスト18:13~27>
語り手:イエスを逮捕した一団は取りあえず近くのアンナスの邸宅に連行いたしました。アンナスは祭司長カイアファの舅で、実は当時実権を握っていた男でした。
イエスを連行している後ろの方からペトロともう一人の弟子がつけていました。その弟子は祭司長の知り合いということで、祭司長邸の中庭に入れてもらえましたが、ペトロは門の外で立っていました。それでそのもう一人の弟子が門番に頼み込んで、やっと中庭に入れてもらいました。ところが門番の側にいた女使用人がペトロの顔を見て首を傾げました。

門番の女:あんたも、あの男の弟子の一人だよね。
ペトロ:<どぎまぎしながら> いや、違う。私じゃない。

語り手:その日はかなり冷え込んでおり、中庭では奴隷や下役たちが炭火をおこして、火の周りにたむろしていました。ペトロも彼らと一緒に火に当たっていました。
一方、邸の中では祭司長がイエスに、その弟子たちの動向やイエスの教えについて質問していました。
 
イエス:私はいつも会堂や神殿で正々堂々と話をしてきた。そこにはいろんなユダヤ人たちが集って、私の話を聞いてくれた。私は決して秘密でこそこそと活動していたわけではありません。それなのに、それ以上の何を私から聞きたいのでしょうか。私の話を聞いた人たちに、私が何を話していたか聞いたらいいじゃないですか。調べてご覧なさい。彼らは私が言ったことを何でも知っているでしょう。

語り手:イエスの言葉を聞いて、そばに立っていた下役の一人がイエスを殴りました。

下役:祭司長様に対してそんな口のきき方があるか。失礼じゃないか。
イエス:私の返事のどこが悪いのか、はっきり言ってみなさい。間違ったことを言っていないのに何故殴るのだ。

語り手:そんなことがあって、アンナスはイエスをもてあましたのか、縛ったまま大祭司カイアファのもとに送りました。ここでもやはり炭火がたかれ、人々がそれに当たっていました。そこでもペトロは彼らの輪の中に入って火に当たっていました。そこにいた人々がペトロの顔をジロジロ見つめ、「お前もあの男の弟子だったよね」と迫りましたが、ここでもペトロは「私じゃない」と否定いたしましたが、運悪く、そこにはペテロが耳を切り落としたマルコスの身内の者がいて、「お前があの庭園であの男と一緒にいるのを見たんだけどな」と言いました。それでもペトロは否定しました。が、ちょうどそのとき鶏の鳴き声が聞こえました。

教会的編集者の挿入句:18:14
<以上>

(a) 逮捕されたイエスが最初に連行されたのが大祭司アンナス邸であった。大祭司アンナスは既に隠退していたが実権を握っていたと思われる。ローマの兵隊たちがイエスを何故ここに連行したのか理由はわからない。ともかく実力者だということは知られていたのか。ここでは、ほとんど実質的な取り調べはほとんどなされていない。ただ、ここでペトロがイエスを否認したという出来事が印象的である。

(b) 退職大祭司アンナスの邸から現役の祭司長カイアファの邸に移送される。ここでも、ほとんど取り調べはなされない。ヨハネ福音書ではイエスの処刑は既に決定されたことである(Jh.11:53)。ここでも大きく取り上げられていることはペトロの否認の件で、ここではイエスが逮捕された時ペトロが剣で耳を切り落としたマルコスの身内の者が登場している。それでもなお否定するペトロの耳に鶏の鳴き声が聞こえる。時刻は夜明け前であること示している。
松村克己は14節から27節、つまりペトロの否認の記事を後代の編集者が挿入したために不自然さが起こっているという。

3.総督邸における裁判

<テキスト18:28~19:16>
語り手:イエスは祭司長カイアファの邸では尋問らしい尋問もされず、そのままローマの総督官邸に送り込まれました。その時は、もう明け方近くで、ユダヤ人たちは官邸に入ろうともしませんでした。その日は過越の食事をする日で外国人の家に入ることは穢れると考えられていからでした。それで総督ピラトの方が外に出て来てイエスを連行してきたユダヤ人たちに尋ねました。

ピラト:この男の罪は何か。
ユダヤ人たち:この男に罪がなければ、我々は貴下のもとに連れてくる筈はありません。
ピラト:成る程、それならあなた方自身でこの男をあなた方の法律に従って裁けばいいじゃないか。
ユダヤ人たち:我々には人を死刑にする権限がありません。

語り手:それを聞いて、ピラトは一旦官邸に戻り、正式にイエスを召喚して言いました。

ピラト:あなたはユダヤ人の王なのか。
イエス:それはあなた自身の質問ですか。それとも誰か他の人から言われたことなんでしょうか。
ピラト:私はユダヤ人でもないのに、そんなことを問題にするはずがないでしょう。あなたと同胞の連中と祭司長たちが、あなたを私のところに訴えて来たのです。いったい、あなたは何の罪を犯したのですか。
イエス:私の王国はこの世のものではありません。もしも私の王国がこの世のものだったなら、私の家来たちが、ユダヤ人に働きかけて私を引き渡さないように闘ったでしょう。私の王国はこの世のものではありません。
ピラト:それではあなたは王ではないのですね。
イエス:私が王だというのは、あなたが仰っていることです。私は真理について証言するために生まれてきたのです。真理を求める人はみな私の声を聞きます。
ピラト:真理とは何ですか。

語り手:そこで審問は打ち切られ、ピラトは再び官邸から出てユダヤ人たちの前に立ち、「私はあの男はいかなる訴因も当てはまらない。過越の時に私が私の権限内で一人を釈放するという慣習があります。それで私はユダヤ人の王と言って訴えているこの男をあなた方のために釈放することにしたいと思う。

ユダヤ人たち:<狂ったように>釈放するのはそいつではない。誰かを釈放するなら、バラバを釈放しろ。

語り手:バラバは強盗でした。ピラトは群衆の声があまりにも大きく、このままでは治まりそうもないので、再び官邸内に退き、官邸内で兵士たちにイエスを鞭打させ、兵士たちが作った荊の冠を被せ、紫色の衣を着せ、兵士たちにイエスに対して「ユダヤ人の王様、ご機嫌いかがですか」などとふざけさせ、さらに殴らせ、痛めつけた。 イエスは見るも無惨な姿になった。
そして再びピラトは官邸から出てきて、群衆の向かって演説した。

ピラト:よく見ろよ、俺はあの男をお前たちの目の前に引き出す。俺自身はあの者にいかなる訴因も見出せない。そのことをお前たちに分からせるためだ。

語り手:イエスは見るも無惨な姿で群衆の前に引き出されました。荊の冠と紫色の衣をつけたままです。

ピラト:よく見ろよ、この男を。
祭司長たちや下役たち:<彼を見て、わめき立てた>十字架につけろ、十字架につけろ。
ピラト:お前たちがこの男を引き受けて、十字架につければいいではないか。もう一度言うぞ。俺はこの男を十字架につける理由を見出せないのだ。
ユダヤ人たち:我々には律法がある。その律法によれば、この男は自分を神の子であるというのだから、殺されねばならないのだ。

語り手:ピラトはユダヤ人たちのこの言葉を聞いて怖くなってきました。それで、また官邸に入り、イエスに言ました。
ピラト:お前はどこから来たのだ。
イエス:………。
ピラト:俺に対しても沈黙か。俺にはお前を釈放する権限もあるし、十字架につける権限もあるのだぞ。それが分からないわけではなかろう。
イエス:上から与えられたのでなければ、あなたは私に対していかなる権限も持っていない。だから、私をあなたに引き渡した者たちの罪は非常に大きいのです。

語り手:そこでピラトはイエスを釈放しようと決意しました。しかしまたユダヤ人たちが叫んびました。

ユダヤ人たち:もしこの男を釈放したら、あなたは皇帝に反逆することになりますよ。自分自身を王という者は誰でも皇帝に反逆する者だからね。

語り手:この言葉を聞くとピラトはさらに怖くなり、イエスを外に引き出し、裁判官席に着座しました。それは過越の準備の日、時刻はおよそ第6時(正午)頃のことです。

ピラト:見よ、彼がお前たちの王だ。
ユダヤ人たち:殺せ、殺せ、十字架につけろ。
ピラト:お前たちの王を十字架につけるのか。
祭司長たち:皇帝以外に我らに王はいない。

語り手:このようにして、ピラトはイエスを十字架刑にすることを承認し、イエスは死刑執行人たちに引き渡されました。

教会的編集者の挿入句:18:32
<以上>

(a) イエスに対する本格的な尋問は総督官邸に送られて、ようやく始められた。現在の日時でいうと14日、木曜日未明のことだと思われる。その日は夕方、過越の食事をする日であったので、イエスを連行してきたユダヤ人たちは非ユダヤ人の邸に入ることは汚れるということで官邸前に集まっていたようで、裁判は門前で行われたようである。尋問はピラトがユダヤ人たちにイエスの罪状認定から始まる。彼らは犯罪を犯していない者を連れてくる筈がないではないかと答える。始めから結論を決めてかかっているようである。これにはピラトも気を悪くして、ユダヤ人共同体の中での犯罪なら、ユダヤ人共同体内部で裁判すればいいではないか、と突っぱねる。それに対してこの男の犯罪は死刑に相当するものなので、ユダヤ人共同体内の法律ではその権限がないという。どうやら結論ありきの裁判のようである。ピラトはその返事にますます機嫌を悪くして官邸内に入ってしまう。そして、おそらくイエスを官邸内に留めて、そこで単独でイエスを尋問する。「あなたはユダヤ人の王ですか」(Jh.18:33)。イエスはユダヤ人の王であると称し民衆を扇動してローマ帝国に反抗しようとしているというのがユダヤ人たちが訴えている罪状らしい。
それに対してイエスは逆に「それはあなた自身の質問ですか。それとも誰か他の人から言われたことなんでしょうか」(Jh.18:34)と問い返す。イエスが「ユダヤ人の王」か否かという質問は誰が問うのかということによって意味がかなり違ってくる。ユダヤ人が問う場合には「キリストであるか、どうか」という宗教的な意味になるし、ローマ人の口から出る場合には政治的な意味となり「反逆者」と見なされる恐れが十分にあった。共観福音書ではイエスはあっさり「そうだ」と答えている(Mk.15:2)。しかしヨハネ福音書ではイエスの反問に対してピラトは機嫌を害し、「私はユダヤ人でもないのに、そんなことを問題にするはずがないでしょう。あなたと同胞の連中と祭司長たちが、あなたを私のところに訴えて来たのです。いったい、あなたは何の罪を犯したのですか」と問い返す。ピラトは非常に冷静である。イエスが問題にしているような微妙な点には興味はないようだ。そこでイエスはこの質問に対して直接に答えないで、「私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものであれば、私に従っている者たちは、私をユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、私の国はこの世のものではない」と言う。つまり、イエスはユダヤ人のいう意味での王ではあるが、ローマ人の言う王ではない、という答えである。その答えを聞いて、「それではあなたは王ではないのですね」とピラトは駄目押しする。それに対してイエスは、「私が王だというのは、あなたが仰っていることです。私は真理について証言するために生まれてきたのです。真理を求める人はみな私の声を聞きます」(Jh.18:37)と答える。岩波訳(小林稔)でも「あなたの方が、私を王だと言っている」と訳している。つまりピラトの質問に対してイエスはイエスともノーとも言っていない。マルコ福音書でもこの部分は同じ文章になっている。ピラトの「あなたはユダヤ人の王ですか」という質問に対して「それはあなたが仰っていることです」(Mk.15:2)と答えている。それを口語訳では否定ではないから肯定であるという理屈で「そのとおりである」と訳している。
ヨハネにとってはこの問いに対する肯定にも否定にも興味はなく、むしろもっと重要なことをイエスに答えさせている。「私は真理について証言するために生まれてきたのです。真理を求める人はみな私の声を聞きます」。ただ、ピラトの関心はイエスがローマ的な意味での「ユダヤ人の王」なのか、どうかということだけが重要で、イエスとの問答においてイエスの無罪を確信し、「真理とは何か」という言葉だけを残してその場を離れた。

(b) 「真理とは何か」
ピラトは自ら「真理とは何か」という重要な問いを発しつつ、それには関心がないのか、すぐにその場を離れた。後にはその問いだけが残った。イエスが生まれ、生き、死ぬということにおいてこのイエスの発言は非常に重要である。「私は真理について証言するために生まれてきたのです。真理を求める人はみな私の声を聞きます」。これは大変な言葉である。「真理について証言する」、「これが真理だ」、「ここに真理がある」。ピラトでなくても、「真理とは何か」と聞きたくなる。
ヨハネ福音書では「真理(アレーテイア)」という言葉は25回も使われている。マタイが1回、マルコとルカがそれぞれ3回と比べると断然多い。その25回のうち教会的編集者の文章において8回で、原著者は17回も使用している(4:23,24,5:31,32,33.8:32,40,44,45,46,10:41,14:6,18:37,38)。それらを全部ここで取り上げて論じるわけにはいかない。ある個所では、「霊と真理」(4:23~24)をもって神を礼拝する、という意味で用いられている。ある個所では言っていることが「本当だ」(5:31,32,33,10:41)という意味でも用いられている。8:32では「真理があなた達を自由にしてくれる」と言う。ヨハネ福音書で注目すべき言い方は、「その真理は私が神から聞いたもの」(Jh.8:40)である。ここから、さらに展開して、「私が真理を語るが故に私を殺そうとしている」(Jh.8:40~46)と言う。その極めつけが、「真理を求める人はみな私の声を聞きます」であろう。ヨハネ福音書の著者は激しい。「あなた方は悪魔という父親から出て来ている。そしてあなた方の父親の欲望を実行しようと望んでいる。悪魔は最初から人殺しなのだ。そして真理の中にいるわけではない。真理が彼の中にはないからだ。彼が虚偽を語る時は、自分自身のものの中から語っている。 彼の父親もまた嘘つきであるからだ」(8:44)。ここで述べられている「真理」とは科学的、哲学的に定義づけられるような客観的な概念ではない。
「私は真理について証言するために生まれてきたのです」という言葉を聞くと、「〜〜のために生まれてきた」という言葉が意味を持ってくる。考えて、探求して、得られるような「真理」ではなく、真理自体がこちら側に向かって迫ってくる。著者はそれがあの言葉だと言っているように思う。ヨハネ福音書の中心的なメッセージ、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(Jh.3:16~17、口語訳)である。これが「真理とは何か」という問いに対するヨハネ福音書の答えである。

(c) ピラトは官邸前に集まっているユダヤ人たちにイエスの無罪を宣言する。しかし彼らはそれを受け入れない。むしろ騒ぎが大きくなるだけであった。こうなると権力者は弱い。裁判の結果よりはこの騒動をどう治めるべきかということを考える。そこでピラトは一つの提案をする。過越祭には犯罪者を一人釈放する権限が総督に与えられているので、それをイエスに適用しようという。ここでピラトは大きな誤算をしている。イエスの支持者がかなり多くいるとピラトは考えていた。だからイエスを釈放することは歓迎されると考えていたのである。このことが返って問題をこじらせてしまって、人々はそれならバラバを釈放せよと騒ぎ出す。それでピラトは再び官邸内に戻り、どうしたらこの荒れ狂った群衆を鎮めることが出来るか作戦を考えたのであろう。もう、イエスが有罪か、無罪かは関係なく群衆を鎮めるためにはパーフォーマンスしかない。官邸内でイエスをむち打ち、殴ったり、蹴ったりで傷だらけにした上、茨の冠を被せ、紫色のマントを着せ、いかにも無惨な格好にして群衆の目に引き出し、兵隊たちに「王様ご機嫌いかがですか」などとふざけた芝居をさせた。そしてピラトは群衆に「よく見ろよ。この男を」と言い、俺はこれ程酷い拷問をしたが、やはり彼は無罪であると言った。もうこれだけ痛めつけたのであるから、もういいだろう、というのがピラトの作戦であったようだ。
しかし、そこまでしても群衆は鎮まらず、祭司長や下役共も群衆と一緒になって「十字架につけろ、十字架につけろ」を騒ぎ続けた。今度はピラトも怒り、「お前たちがこの男を引き受けて、十字架につければいいではないか。もう一度言うぞ。俺はこの男を十字架につける理由を見出せないのだ」と演説したが、彼らは「我々には律法がある。その律法によれば、この男は自分を神の子であるというのだから、殺されねばならないのだ」という。

(d) さすがのピラトもこの言葉を聞いて問題の深刻さを理解し、イエスに対して1対1で尋問した。最早、尋問ではなく相談である。これ程同胞から憎まれている男、「お前はどこから来たのだ」、というのがピラトの尋問であった。イエスはピラトの問いかけに答えようとしない。ピラトはいらだち、お前を生かすも殺すも俺の胸一つだぞ」と自分の権力を誇示する。しかしイエスは冷静である。「上から与えられたのでなければ、あなたは私に対していかなる権限も持っていない。だから、私をあなたに引き渡した者たちの罪は非常に大きいのです」(Jh.19:11)。前半の言葉はわかりやすいが、後半の言葉には説明が必要であろう。結局、ピラトは不本意ながら民衆の圧力に負けてイエスの処刑を許すことになるのだが、ピラトとユダヤ人たちとの罪の大きさを比べたならば、ユダヤ人の罪の方がはるかに大きいということを意味している。著者ヨハネはイエスを十字架上で殺した責任はローマではなくユダヤであると考えている「そこでピラトはイエスを釈放しようと決意しました。しかしまたユダヤ人たちが叫んびました」。それでもなおピラトはイエスを許そうとしたが、今度は逆にユダヤ人たちから脅迫されている。

4.処刑・埋葬

<テキスト19:17~42>
語り手:十字架刑の執行場所は、「しゃれこうべ」、ヘブライ語ではゴルゴタと呼ばれる所で、そこまで受刑者が自分自身の十字架を背負って行くことになっていました。そこでイエスは他の2人の受刑者と一緒に十字架につけられました。イエスの十字架を挟んで3本の十字架が立てられました。ピラトは罪状書きを書かせ十字架につけさせました。刑場は町から近かったので誰でも読めるように、ヘブライ語、ローマ語、ギリシャ語で「ナザレ人イエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。この罪状書きを見て、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに 「ユダヤ人の王などと書かないでください。事実に反します。この男は自分がユダヤ人の王だと言っていた、と書き改めてください」と申し入れしましたが、ピラトががんとして受け入れず「俺が書いたことは、俺が書いたことだ」と言い放ちました。
イエスを十字架につけた兵士たちは、イエスの衣をはぎ取り、4つの布片にして、それぞれの兵士が一片ずつとって分け合っていました。
イエスの十字架の足元にはイエスの母と、彼の母の姉妹のクローパーのマリアと、マグダラのマリアが立っていました。それでイエスは母と自分が愛した弟子が立っているのを見て、母に「女よ、見なさい、あなたの息子です」と言い、また、その弟子には「見なさい、あなたの母です」と言いました。そしてその時からその弟子はイエスの母マリアを自分のところに引き取りました。
これでなすべきことはすべて成し遂げられたと確認してイエスは「私は渇いた」と言われました。それを聞いて兵士の一人が酢をつけた海綿をヒソプにの枝につけて、彼の口にさし出しました。それでイエスは唇を酢で湿らせて、「成し遂げた」と言い、頭を垂れて霊を引き渡しました。
その日が過越の食事の備えの日であったので、とくにその安息日は大いなる日に当たっておりましたので、ユダヤ人たちは安息日に十字架に屍体が残らないようにとピラトに頼みました。それでピラトは兵士たちに十字架上の罪人の死を確認したうえで死体を取り去るように命じました。それで兵士たちが十字架につけられた最初の者の脚を折り、またもう一人の脚も折りましたが、イエスはその時既に死んでおりましたので脚を折りませんでした。
その後、イエスの弟子でありながらユダヤ人を怖れてそのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフがピラトにイエスの御遺体を十字架から降ろして引き取ることを願い出ていました。ピラトはそれを許しましたので、彼はイエスの御遺体を十字架から降ろし、刑場から遠くない庭園の中の墓地に運びました。またニコデモも没薬とアロエを混ぜたものを100リトラほど持ってやって来ました。彼はかつて夜にイエスを訪れた人です。それで彼らはイエスの御遺体をユダヤ人の埋葬の慣習に従って香料をかけ、亜麻布で包み、まだ誰も納めたことのない新しい墓に丁重に葬りました。これらの埋葬の儀はユダヤ人の備えの日のために大急ぎで執り行われました。

教会的編集者の挿入句:19:23b~24、34~37
<以上>

(a) 先ず、十字架に貼り付けられる罪状書きの文章が問題になった。ピラトはユダヤ人たちがイエスを「ユダヤ人の王」として訴えたことについては、そうではないという確証を持っている。しかし、ここでイエスが処刑されるということは不本意なことではあるが、ユダヤ人たちの圧力に押されてイエスを「ユダヤ人の王」として処刑することになったのである。つまり「ユダヤ人の王」ということが罪である。しかしユダヤ人たちはイエスが「ユダヤ人の王と詐称したことが涜神の罪」なので、罪状書きを書き直すことを要求したが、このことについては、ピラトは妥協しなかった。ピラトはあの時のイエスの言葉を理解していた。やはりイエスはユダヤ人の王なのだ。

(b) イエスの十字架の足元には「イエスの母と、彼の母の姉妹のクローパーのマリアと、マグダラのマリア」と「自分が愛した弟子」とが立っていた。このことは共観福音書には見られない。そしてイエスはその弟子に母を託した。この弟子が誰であるか最後まで明らかにされない。伝統的にはそれはヨハネであり、本書の著者であるとされるが何の確証がない。
松村克己は「彼が使徒ヨハネであるという伝説に従えば少なくともヨハネはそこに居合わせたことになるが、これが既に述べたように『理想的な弟子』を類型的に描いている」という。
田川建三は「この人物はヨハネの著者が創作した人物である可能性が極めて高い」とし、「多分母親に対するイエスの愛情を示すためにこういう話を創作したのだろうが、もしかするとイエスの弟子のうちの誰か一人がイエスの母を引き取ったという点は事実かも知れない。しかし、その場合は、ペテロたちがエルサレムでキリスト教をはじめてしばらくたイエスの弟ヤコブがその一員となり、やがてその権力的指導者となったのだから、どうしてそのヤコブが母親を引き取らなかったのか、疑問が残るが」という。
小林稔はいろいろな説を紹介し、その可能性を検討し、「著者のキリスト者についての理想像が描かれている、ということは言ってよいであろう」と結論している(139頁)。

(c) ヨハネ福音書ではイエスがこの世に来た目的は「私を遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」だということは2回も繰り返されている(Jh.4:35,5:36)。十字架上のイエスはそれが「成し遂げられた」と確認した。そのホッとした気持ちが「私は渇いた」という言葉に表されている。そして最後に「成し遂げた」と言い、頭を垂れて霊を引き渡しました。日本語的感覚では最後は「息を引き取る」、つまり吸い込んで終わるが、イエスの国では息を吐き出して終わる。その感覚が「霊を引き渡す」という言葉である。人間は神から神の霊(息)を「吹き入れられて」(Gen.2:7)生きる者になる。
ヨハネ福音書においては十字架上のイエスは、穏やかな時間を過ごし、使命を達成したという満足感に満たされ、安らかに息を引き取っている。ヨハネが描く十字架上のイエスは、共観福音書に見られるような、十字架上で「エロイ、エロイ、ラマ、サバタクニ」(Mk.15:34)と叫んだような壮絶な死ではない。いわば「勝利の死」(Jh.16:33)、栄光の死である。

(d) イエスの死体は急いで埋葬されたようである。引き取り人は「アリマタヤ出身のヨセフ」という人で、この人は金持ちで(Mt.27:57)、サンヘドリンの議員で「善良で正しい人」であったという。彼はイエスを死刑に処すという決議や行動には加わらず、神の国を待ち望んで(Lk.23:50~51)いたという。「ひそかにイエスの弟子となった」、ただ「ユダヤ人をはばかって」このことを公にしなかった人である。またかつて夜、イエスのもとを訪ねたニコデモも「没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持って」、アリマタヤのヨセフに協力した。彼らはイエスの死体を「香料を入れて亜麻布で巻き」「まだだれも葬られたことのない新しい墓」に葬った。著者はこのことを「ユダヤ人の埋葬の習慣」と説明している。それは本書の読者がヘレニズム世界の人々で、火葬の習慣とは違うからである。ユダヤ地方の墓は岩壁に横に掘られた洞穴であり、ここに香料と亜麻布で巻い死体を次々と並べて納める。勿論これは丁寧な埋葬の場合である。イエスはこのような墓として準備されて未だ用いられてはいなかったヨセフの新しい墓に納められた。それは十字架につけられた処の近くにあったからである。その埋葬はまさに栄光の死に相応しい埋葬であった。イエスは決して犯罪者として死に、犯罪者として埋葬されたのではない。

断想:復活日の旧約聖書

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断想:復活日の旧約聖書(2017.4.16)

復活体験 出エジプト14:10~14,21~25,15:20~21

<テキスト>
10 ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、
11 また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。
12 我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」
13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。
14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
〜〜〜〜〜〜〜
15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
19 イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、
20 エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。
〜〜〜〜〜〜〜
21 モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。
22 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。
23 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。
24 朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。
25 戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
〜〜〜〜〜〜〜
15章
20 アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。
21 ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた。

<以上>

1. イースター
教会にとって、また全てのキリスト者にとってイースターという日がどんなに大切か、また喜ばしい日であるか今更説明することもない。それはまさに、私たちの全存在を成り立たせているる出来事であり、イエスのご復活なしには私たちの信仰もなく、また教会も存在しない。
牧師にとって、復活日の説教には毎年苦労する。復活日という特別な日であるから、復活以外のことを語るわけにはいかない。ところが、復活ということについては、くどくどと説明したり、解説することを否定する雰囲気がある。分かりやすい説明は復活という神秘を矮小化してしまう。では復活日には何を語るべきなのか。一つだけ分かったことがある。復活ということについて語るのが難しい理由は、復活という出来事が理性によって理解できない奇跡であるということにあるのではなく、私たちは、否、私は復活という出来事について明確なイメージをもっていない、ということにある。伝統的には、卵がふ化するイメージとか、サナギが蝶に変身するイメージなどが取り上げられるが、子どもに対してならともかく、まともな大人の議論として復活という出来事をそんなことで納得できない。

2. 紅海徒渉
本日の旧約聖書で紅海渡渉の出来事が読まれた。なぜ復活日に紅海徒渉なのだろうか。先ず、出エジプト記が語るイスラエルの紅海徒渉の出来事を確認しておきたい。
出エジプトしたイスラエルの民を最初に襲った生きるか死ぬかという大事件が紅海徒渉である。後からは重装備をしたエジプトの軍隊が無防備なイスラエルの群集を殲滅すべく砂ぼこりを立てて迫ってきている。その行進の足音が不気味に響いてくる。もう一刻の余裕もない。彼らの前には広く、深く、逆巻く紅海が横たわっている。前に進むことも、後退することもできない。彼らには逃げ道はない。まさに、風前のともし火である。結果はハッキリしている。ここに至って、彼らはモーセに訴える。「われわれを連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか」(出エジプト14:11)。この訴えはあまりにも無責任で、ひどすぎるが、また当然でもある。彼らはエジプトの地で奴隷として、もうこれ以上我慢ができないような状況の中で、「うめき」「助けてくれ」と神に「叫び」訴えたのである。その叫びはどうなったのか。彼らはその訴えを忘れてしまったかのように、「われわれは『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」(同12)とまで言う。ひどいことを言うと私は思う。しかし状況はまさにそう叫ばざるを得ないような状況である。進退きわまる、とはこういう状況であろう。
この状況はイエスが十字架刑によって死なれたとき、弟子たちはこれと同じような状況に置かれていた。彼らに残された道は故郷に戻って昔の生活に戻るという事だけであった。イエスなどに出会わなければ、平穏な人生を過ごすことができたのに。
本日のテキストの中で、こう切羽詰った状況の中で、神がモーセを通して語られた言葉が響く。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(同13)。そして、あの奇跡が起こったのである。紅海が真っ二つに割れ、その間に道が開け、両側に水が逆巻く間をイスラエルの民は歩いて渡ったのである。彼らを追ってきたエジプトの軍隊が同じように水の間を渡ろうとしたとき、両側の水は軍隊の上に雪崩のように崩れ、全滅した。イスラエルの民にとっての紅海徒渉の出来事は神の勝利の出来事であった。
だから紅海徒渉の出来事はまさにキリストの十字架の出来事に対応する。
3.紅海徒渉と洗礼
だからパウロは、この紅海徒渉の出来事をキリスト者の洗礼と重ねている(1コリント10:1~4)。「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」。
パウロはこの出来事をキリスト者の洗礼と重ねたが、復活経験とは重ねていない。

4.復活体験
そこで、最初の問題、なぜこの出来事を復活日に読み、復活物語と対比させているのであろう。その答えは、今日のテキストにヒントがある。今日のテキストで特に注目すべき点は、わざわざ15章から付加されている部分である。
「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた。ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた」(出エジプト15:20~21)。
ここではモーセの姉のミリアムの指導によって勝利の賛美を歌っている。このミリアムはこれ以前にも面白い部分で登場している。モーセがパピルスで編んだ籠に乗せられてナイル川にながされた。その籠は、ちょうどその時水辺で水浴びをしていたエジプトの王女のところに流れ生き、王女はその子を取り上げ、自分で育てようと思う。ちょうどその場を見届けていたモーセの姉が登場し、その子を育てるのに相応しい乳母を知っていると進言し、結局その女性が乳母に採用される。その乳母こそまさにモーセを産んだ実母であった(出エジプト2:3~10)。その時活躍したモーセの姉がミリアムである。
そしてそのミリアムが再び登場したのが、この場面である。この場面は、救われたことを讃美する場面である。救われたことを実感し、心の中からわき上がる喜びを歌う。キリストの十字架は神の側での出来事であり、そこには人間が入る余地はない。そこでは人間は恐れおののき、ただ右往左往するだけである。しかしその十字架が現実的に私の経験として引き寄せられたときに復活が経験される。
十字架の場面で、恐ろしくて、郷里へ逃げ帰った弟子たち、ローマからもユダヤ当局からも追及を恐れて隠れていた弟子たち、イエスとの生活など忘れてしまいたいと思っていた弟子たち、昔の平穏な人生に戻るつもりでいた弟子たち、しかし彼らは忘れることができなかった。イエスと過ごしたあの時の充実した時間、それは忘れられないイエス体験であった。いつしか、一人ひとり、集まり、思い出話をしているとき、突然彼らは復活したイエスの姿を見た。そのイエスはあの時と同じように彼らに「我に従え」と声をかけられた。それはまさにあの時の経験の再現であった。その時不思議に彼らの内部に力が沸き上がり、恐れが吹き飛んでしまった。彼らの口から讃美の声が出てきた。ミリアムの場面である。復活日にこのミリアムの場面を読む。そして、歌う。

原本ヨハネ福音書研究からの抜粋(20章)

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原本ヨハネ福音書言及より抜粋(復活)

シーン1 復活日の朝

<テキスト20:1~10>
語り手:安息日が終わった翌日の朝、つまり日曜日の朝、まだ夜も明けきらない暗いうちに、マグダラのマリアはイエスが葬られている墓に来ました。見ると、心配していた墓石は取り除かれ、墓穴がぽっかり開いています。それを見て驚いたマリアは直ぐにシモン・ペトロとイエスが愛していたもう一人の弟子の所に行き、報告しました。

マリア:イエス様の御遺体がなくなっています。どこに持って行かれたのか、分かりません。

語り手:それを聞いたペトロともう一人の弟子はすぐに墓を見に行きました。2人は一緒に走りましたが、もう一人の弟子の方がペトロよりも速く、墓場に着きました。彼は墓穴をのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見ましたが、中には入りませんでした。やっとたどり着いたシモン・ペトロが先に墓の中に入り、そこに亜麻布が置いてあるのを確認いたしました。また、御遺体の頭に被せていた手ぬぐいは亜麻布とは別の所にキッチンとたたまれて置いてあるのも確認しています。そこで、最初に墓に到着したもう一人の弟子も中に入って来ました。彼もその現場を見て信じました。それで2人の弟子たちは家に戻りました。

教会的編集者の挿入句:20:9
<以上>

ここにも「イエスが愛していたもう一人の弟子」が登場し重要な役割を担っている。彼の方がペトロより若く、墓場にはペトロよりも早く到着した。中を覗いたらしいが、墓には入らずペトロの到着を待った。墓に最初に入る特権をペトロに譲ったのであろう。墓の中に入ったペトロは現場を詳しく見てイエスの遺体がないことを確認する。ペトロに続いて入った弟子も同様に墓の内部を確認する。彼は確認しただけではなく「信じた」という。彼は何を「信じた」のだろうか。遺体がないことを信じるのもおかしい話で、これを読む読者には彼がイエスの復活を信じたのだということは理解出来る。ペトロは現場を見て、それをそのまま確認しただけであるがもう一人の弟子はペトロと同じものを見て、イエスの復活を信じたのだという。

シーン2 マグダラのマリアへの顕現

<テキスト20:11~18>
語り手:一人残されたマグダラのマリアは、どうしたらいいのか分からずぼんやりと墓穴の入口で立ち、泣いていました。泣きながら、ふと墓の中を覗きました。すると、そこに、彼女は見たのです。白衣を着た2人の天使が座っているのを、一人はイエスの遺体が置かれていた頭の所に、もう一人は足の所に見たのです。

天使:ご婦人よ、あなたは何故泣いているのですか。
マリア:私の大切な先生のご遺体がありません。どこに持ち去れたのか私には分からないのです。

語り手:こう言って、後ろに何か気配を感じ、ふり向きますと、そこにイエスが立っていました。しかしマリアはそれがイエスだと気がつかなかったようです。
 
イエス:女よ、 何故泣いているのですか。誰を探しているのですか。

語り手:それでもマリアはそれが園丁だと思って、その人に言います。

マリア:ご主人、もしもあなたが彼のご遺体をどこかに持って行かれたのでしたら、どこに置かれたのか仰ってください。私が引き取りますので。
イエス:マリア。

語り手:その声を聞き、マリアはハッとして振り返り、へブライ語で叫びました。

マリア:ラボニ!(編集者註:これは「先生」という意味です)。

語り手:こういう経験をしたマリアは直ちに弟子たちの所に帰り、弟子たちに「私は主を見ました」と語り、その時、主が話されたことを報告いたしました。

教会的編集者の挿入句:20:17
<以上>

この場面、復活したイエスがマグダラのマリアに単独で顕現した物語である。四福音書を通じて墓場で顕現した物語はこれだけである。しかも一人の女性に単独で。マタイ福音書では天使からイエスが復活したことを告げられた3人の女性たち(マグダラのマリアと他のマリア)が「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」。その途中でイエスが現れ「平安あれ」と語ったという記事がある。その時、彼女たちはイエスに近寄り「イエスのみ足を抱いて拝した」(Mt.28:9)。よく似た出来事であるが、ヨハネの方が叙述がかなりリアルである。もし、この記事が本当だとしたら、復活したイエスが最初に顕現したのはマグダラのマリアということになる。

シーン3 11弟子たちへのイエスの顕現

ここでは原本に教会的編集者の手がかなり加えられており、物語が錯綜している。

<テキスト20:24~29>
語り手:11人の弟子たちはマリアの報告を受けましたが、双子と呼ばれているトマスは、その人の手に釘の痕を見なければ、私は信じない、と言いました。その8日後、トマスを含む11人の弟子たちが集まっているところに、イエスが現れて弟子たちの真ん中に立って語られました。

イエス:平安、汝らにあれ。

語り手:それからトマスの方を向き、手を差し出して言われました。

イエス:私の手を見なさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
トマス:先生、信じます。
イエス:あなたは私の身体に残った徴を見て信じました。見ないで信じる者が幸いなのです。

教会的編集者の挿入句:20:19~23、20:24~27の大部分、20:30~31
<以上>

田川建三によると、シーン3が原本ヨハネ福音書と教会的編集者の編集の手が入った現行のヨハネ福音書との違いが最も明瞭に出てくる部分である。現行では19節からこのシーンは始まり29節で終わる。30~31節はこの福音書全体の締め括りである。19節から29節の11節の内の19節から23節、24節から27節の大部分が教会的編集者の挿入だと見なされている。ここまでの厳密な分析、ほとんど高度な解剖のような作業がなされる。12頁に及ぶ専門的な分析を、ここに再録することは、私には荷が重すぎる。(参照:田川建三『新約聖書〜〜訳と註〜〜』の718頁から730頁まで)。
それらをすべて除くと、上のような物語となる。
物語は11人の弟子全部が揃っているところに、マリアが「私は主を見ました」という報告(経験)を聞いたところから始まる。その時、他の10人の弟子たちはマリアの言葉を信じるが、トマスだけは信じない。そしてトマスは言う。「その人の手に釘の痕を見なければ、私は信じない」。それから8日後、復活したイエスが11人の弟子たちの前に姿を現し、「平安、汝らにあれ」と声をかけ、特にトマスに対しては手を差し出して「私の手を見なさい」と声をかける。そして声も出ないトマスに対して、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言う。トマスは恐縮し「先生、信じます」と答える。そのトマスに対してイエスは「あなたは私の身体に残った徴を見て信じました。見ないで信じる者が幸いなのです」(Jh.20:29)と言う。
これが復活したイエスが11人の弟子たちに顕現した時の出来事であろうと思われる。田川建三は「見ないで信じる者が幸いなのです」という言葉こそが原本ヨハネ福音書の結びの言葉であり、結論であるという。

昨日のFB 04/12

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お早うございます。主の平和。孫息子とは丁度昼夜逆転しているようで、朝食後、寝室で寝ている。家内と私は雨の中、整骨院へ。帰路はタクシー。昼食までダラダラ。昼食後、私は1時間、昼寝(OTB)。読書、『唐牛伝』、安保闘争敗北後の生活が理解不能。テレビは終日ほとんど、浅田真央のことばかり。雨のため散歩は休み。夕食後、サンマの番組、「CRISIS」、報ステを見て10時半に就寝。5時半起床。体温:36.1、血圧(134:78、80)、体調・異常なし、チュン、チュン

28 北村 良輔さん、川染 三郎さん、他26人
コメント
久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
寒かった昨日とはうって変わって暖かい朝です。
午前中は聖書研究・祈祷会へ、午後は検査と定期受診のために病院へと少し慌ただしい一日になりそうです。...もっと見る

東山 富昭 おはよう😃ございます。今日は、まだ、曇っています。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。よろしく、お願いします。

藤木 冨士子 おはようございます。

文屋 善明
4月12日 6:13 ·

お目覚めの花。町を歩いている姿がどうしても前屈みになり、地上の小さな花に目が行きます。今朝の花は紫色の小さな花です。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然、屋外

43 宮脇 温子さん、川染 三郎さん、他41人
コメント

櫻井啓子 野生化した…ムスカリですかね…?

村田 多鶴子 教会への途中の所にもムスカリが今を盛りと咲いています~♪(^^♪

文屋 善明
4月12日 6:35 ·

2017 日々の聖句 4月12日(水)
主にあってわたしの心は喜びます。(サムエル上2:1)
イエスの言葉:もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:15)
私の黙想:
今日の聖句は、長い間の苦しい祈りの結果として男の子与えられたハンナの祈りの冒頭の部分である。この場面を想像したら、このときのハンナの気持ちは良くわかり、それと合わせて、この言葉もよく理解であり。恐らく長い苦しみの期間にはハンナの口からこんな祈りは出てこなかったであろう。と言って、苦しみ中にあったハンナも、今喜んでいるハンナも同じハンナであり、同じ信仰を持っている。
信仰者の祈りといえども、いつもいつも同じ祈りを捧げるわけではない。いつもいつも「主にあってわたしの心は喜びます」と祈れるわけではない。時には、恨み言を並べる祈りだってあるだろうし、祈りを口にすることもできない時もある。その意味で祈りは素直でなければならない。神を誤魔化したってしょうがない。「私は今、主にあって、嘆きます」だっていいのだ。恐らく、ハンナだって長い間、「恨みみます」「嘆きます」と祈ってきたのであろう。そしてその結果、祈りが叶えられた。だから、今は大きな声で、高らかに「主にあってわたしの心は喜びます」という祈りが口から出てきたのであろう。祈りにとって「常套句」ほどつまらないものはない。だから、この祈りも、キリスト者の常套句にしてはならない。

25 久保和男さん、川染 三郎さん、他23人
コメント

門叶 国泰 困ったな!

文屋 善明
4月12日 6:42 ·

今日の名言:@haiku_senryuu
百年後 ほとんど死んでる 今の人(加藤信子、詳細不明)
<一言>上手い川柳だ。当たり前のこと、誰が考えたって、その通りだと思うことを、今更のように言葉にする。そしてその言葉を詠んで、ハッとする。こんなこと、普通の言葉で口にしたって、なんにもならないが、これを川柳にすると面白い。

23 金井 由嗣さん、久保和男さん、他21人
コメント

櫻井啓子 「生徒諸君」という少女マンガで、高校生たちが海を見ながら「100年後には私たちはみんないない」って…どんな青春だ…。でも真理。

文屋 善明
4月12日 6:45 ·

現代文イミタチオ-クリスチ
第17章 神の御前で謙遜であるように(A)(第4章)
キリスト:
愛する者よ、素直な心で真面目に生き、常に私を求めなさい。真面目さが悪い者たちの悪だくみを見破り、真面目であることがあなたを自由にし、他人の嘘を見破り、君を守ります。
自分の罪を大したことがないなどと考えず、想像以上に大きいのだと思いなさい。だからといって、罪の大きさを誇るなんていうバカなことを考えてはいけませんよ。おかしなことに罪人は自慢することが他にないとき、罪の大きさを誇るようになるのです。結局、罪人というのは我利我利亡者に過ぎないのです。その人たちは常に空しいものを求め、うまくいかないと落ち込みます。だから、罪人が自分の罪を自慢すればするほど、実は自分の弱さを宣伝しているようなものだ。だから君には何一つ自慢することがなくていいのです。そんなバカなことを考えず、永遠の真理だけを大切にしなさい。ただ、本当の値打ち、大切なものは永遠に残るものなのです。だから君自身を取るに足らない者、誇るべきものは何一つないものと見なしなさい。(2:17:1~10)

19 久保和男さん、川染 三郎さん、他17人

文屋 善明
4月12日 6:47 ·

ニーチェ・短歌
(45)深淵を覗き込んでるとき君は、深淵からも覗かれている
(『善悪の彼岸』第4章「箴言と間奏曲」第146節) p.34
(46)この世ではうまく生きえぬ者たちが「あの世」のことを考え出した
(『道徳の系譜』第1論文「(善と悪)(良いと悪い)第10節) p.22

13 小貫 ツマさん、川染 三郎さん、他11人

文屋 善明
4月12日 8:22 ·

「原本ヨハネ福音書研究より抜粋(第13章)」(聖週の水曜日、木曜日の黙想のために)をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jy…/e/86c7932f52ebb1057358dc15328e96ed
水曜日 ヨハネ13:21~35
木曜日 ヨハネ13:1~15

BLOG.GOO.NE.JP

8 川染 三郎さん、植村 光郎さん、他6人

文屋 善明
4月12日 8:27 ·

<聖週水曜日の旧約聖書イザヤ50:4~9aの8節「わたしの正しさを認める方は近くいます」によりて>
神のみが我が味方なり我が支え、苦難の下僕、主の下僕なり 善明
※この日の旧約聖書も、月、火に続いて、イザヤ書の第3の主の下僕の詩です。

19 辻本 昌弘さん、久保和男さん、他17人
コメント

村田 多鶴子 文屋先生の五・七・五・七・七…、楽しみにしております~♪(^^♪

文屋 善明
4月12日 8:53 ·

今日の「折々のことば」。正直に言って、違和感を感じていませんでした。もちろん、この場合は違和感を感じろといわれる方が無理があると思うが、それならば少なくとも、それに違和感を感じている障害者の率直な感想や意見を聞かなければならないであろう。成る程、「違和感」とは個人差が大きいし、それをすべて聞くというわけにはいかない場合もある。しかし、ここで取り上げられている「違和感」には普遍性がある。これに類することがまだまだあるだろうし、ぜひそれらを聞かせて欲しい。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1317373958340062&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

30 西川 芳昭さん、久保和男さん、他28人

文屋 善明
4月12日 9:02 ·

桜ばっかりなので、こんなんもありますよ!わがやのリビングにて
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花
28 辻本 昌弘さん、久保和男さん、他26人
コメント

村田 多鶴子 幼い頃よく通った畦道にヒメオドリコソウがいっぱい咲いていたのを想い出します⇒この花は郷愁を誘います~♪(^^♪

文屋 善明
4月12日 11:17 ·

宗教、教派超えてお祈りください。

眞野 玄範
4月12日 10:54 · Yamanashi Prefecture山梨県 甲府市 ·
Sabeel Wave of Prayer 2017/4/13

# エルサレムでは主イエス・キリストの受難を記念する14の留に従う祈りと黙想をもって聖週が守られています。今年は東方教会、西方教会の双方の教会暦でイースターが同じ日に祝われます。

どうか聖地の諸教会が友好的に協力し合えますように。エルサレムおよび世界中で、イースターがクリスチャンの一致の時となりますように。わたしたちが皆、復活されたキリストのメッセージによって平和のために働く意欲を起こされますように。

主よ、御憐れみにより/わたしたちの祈りを聞き入れてください

# 棕櫚の日曜日に、エジプト北部の二つの町のコプト正教会で、礼拝に来ていた人たちを狙って爆弾が爆発させられました。ISISが犯行声明を出したこのテロ攻撃で、少なくとも47人が殺害され、約100人が負傷しました。

主よ、悪と闇がわたしたちの教会に忍び込み、子どもたち、女たち、男たち、聖職者の命を奪っています。どうか、教会およびあらゆる礼拝所が、テロ攻撃の対象とならない安全な場所になる日が来ますように。中東に生きるクリスチャンは、あなたがかつてあげられた叫びを叫んでいます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」主よ、祈ります。どうかわたしたちに、あなたがアナニアにお与えになった力を与え、迫害する隣人たちの目を開かせてください。

主よ、御憐れみにより/わたしたちの祈りを聞き入れてください

# 4月9日、パレスチナ人は1948年にデイル・ヤシン村で起きた虐殺を覚えます。この日、女性や子どもを含む少なくとも107人のパレスチナ人が無残に殺害されました。4月の下旬には、ホロコースト、アルメニア人の虐殺、アッシリア人の虐殺を覚える日を迎えます。

神よ、切に祈ります。どうかこうした恐ろしい出来事が繰り返されませんように。これらの出来事を生き延びたすべての人々を慰め、わたしたちを暴力の連鎖の外へと導き出し、平和と隣人愛に生きることができるようにしてください。

主よ、御憐れみにより/わたしたちの祈りを聞き入れてください

# レバノンにあるパレスチナ難民キャンプ、アル=ヒルウェで、武力衝突が続いています。先週金曜日以後、5人が死に、何十人もが負傷しました。アル=カイーダと関わりを持つテロリストから難民キャンプを守ろうとしてパレスチナ諸党派の間で争いになっています。

主よ、69年間故郷を追われたままのパレスチナ人難民の安全をお守りください。どうかわたしたちを強め、過酷な条件のもとで暮らしている兄弟姉妹が自分の故郷に帰還できるようにするための働きを続けられるようにしてください。

主よ、御憐れみにより/わたしたちの祈りを聞き入れてください

# イスラエルの飛行機が、イスラエルとガザの緩衝地帯のパレスチナ側の畑に薬剤散布を始めたのが目撃されました。農民は、過去にもあったように、作物が被害を受けることを恐れています。

主よ、どうか占領の狂気を終わらせてください。どうかパレスチナの農民とその作物をお守りください。どうかパレスチナの人々の日用の糧をあらゆる危険からお守りください。

主よ、御憐れみにより/わたしたちの祈りを聞き入れてください


9 望月 克仁さん、山本 友美さん、他7人

文屋 善明
4月12日 17:32 ·

怒鳴った男の無知、その無知は許されるのか。断じて許されない。状況を見ればわかるだろう。
自動代替テキストはありません。
大脇 友弘
4月12日 17:01 ·
■「うるさい!」と怒鳴られた盲目の女性。白杖で音を出す理由を知ってほしい。
http://brandnew-s.com/2017/04/07/hakuzyo2/

「視覚に障害を持つ人は周りに自分の存在を知ってもらうため、白杖で点字ブロックをたたいて音を出すようにしている」

以下記事より。
~~~~~~~~~~~~

日本盲人会連合のホームページによりますと、

白杖を携帯する目的は以下の3点があげられるそうです。

 1.安全性の確保

 2.情報の入手

 3.視覚障害者としてのシンボル

「白杖を使って音を出すことで、

周りに自分の存在を知ってもらうという使い方は実際にされているのでしょうか?」

という問いに対し、

自身も全盲で、日本盲人会連合組織部長の藤井貢さんは、

「訓練で学ぶ主要な使い方ではありませんが、

人混みの中など周りに気づかれにくい状況では、多くの人がそのように使っています」

と語っています。

音を出すという行為には、自分の存在を一般の方に知らせるためだけではなく、

その反響音で周囲の状況を確認するという目的もあるそうです。

また、最近では”歩きスマホ”などで前方を十分に確認せずに歩いている人が急増しているため、

あえて白杖を使って音を出すというケースも増えていると話しています。

「音をたてるな!と言われると、歩いている視覚障害者はとても恐怖を感じます。

必要があってやっていることなので、理解していただきたいと思います」

と藤井さんは切実に訴えました。

34 望月 克仁さん、小貫 ツマさん、他32人
コメント

櫻井啓子 てかさー、あの音聞いたら、その方がどこにいるか目視して、道をあけたり、危険なら(ホームや段差)なら助ける、あたりまえじゃん!!!

Mizota Michael Satoshi 健常者のほうがそもそも邪魔ものなのだ、と私はいつも思っています。

糸原 由美子 かなり障がい者が自由に動けるようになっていると思いますが、まだまだの部分もありますね。子どもの施設、保育園も嫌われますし、困った世の中になっています。

矢野 寛子 どうして障碍者を思いやれないのでしょうか?悲しいね。

文屋 善明さんが写真10件を追加しました。
4月12日 17:41 ·

これが私の散歩道。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、木、花、空、屋外、自然、水

55 木下 海龍さん、植村 光郎さん、他53人

今週のローズンゲン 2017/03/26~04/15

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今週のローズンゲン 2017/03/26~04/15

2017 日々の聖句 3月26日(日)
あなたの未来には希望がある、と主は言われる。(エレミヤ31:17)

近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。(ヨハネ9:8)

私の黙想:
「未来」(新共同訳)と「将来」(口語訳)とは同じか。違う。波多野精一先生は、「将来の未来性の否定として」「将来と現在との完全なる一致」「将来の完全なる現在性」を論じ、将来とはまさに今起ころうとしている未来であるといわれる。今、将にそこに盲人として座していた男が立ち上がって歩き出す。これが「将来」であり、未来とはただの時間概念としての、まだ起こっていないことを示すに過ぎない。さて、旧約聖書においてこのような厳密な使い分けがなされているかどうか知らないが、神が私たちに語る「未来」とはただ単なる「これから」のことではなく、「今、将に、ここで」起ころうとしていることである。今日のエレミヤのメッセージは、あなたの目の前で、あなたたちの息子たちがすでに経験していることであるという。
「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。16節、17節を続けて読むとこうなる。
弟子たちはイエスの十字架において、イエスの復活を「すでに」に見ていた。

2017 日々の聖句 3月27日(月)
どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。(詩121:3)

イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。(マタイ14:31)

私の黙想:
「足がよろめく」、そう、足はよろめくのだ。老人になったら誰でも足はよろめくのであろう。これを一般的にはいくらでも口に出せるが、実際によろめいたときには、とっさに、それを隠そうとするのが面白い。隠そうとして余計によろめく場合もある。それを端で見ているものは、見ないようにするのがエチケットというものだ。
「よろめき」とは弱さである。よろめきがひどくなったら、杖を使うしかない。しかし実は杖はそれ程役に立たない。やはり、腕を組んで歩くしかなくなるであろう。
そういう状況をじっと見守っている者がいるということは心強い。旧約聖書で「まどろむ」という言葉は5回しか使われていない(新共同訳、新約聖書ではゼロ)。そのうち2回が、この詩で使われている。詩132と箴言6:4では「まどろむことを許さない」という使い方で、イザヤ書では詩121と同じ使い方である。案外少ないのに驚く。ついでに「よろめく」方を調べると、酒に酔ってよろめくことも含め、かなりある。

2017 日々の聖句 3月28日(火)
しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。(サムエル上10:7)

何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)

私の黙想:
「しようと思うことは何でもしなさい」、何という言葉だろう。何でもOK。ただし、ただ一つだけ条件がある。先ず「私がしようと思う」こと。これを言われると困る。本当のところ、何をしたら良いのか分からない。と困っていると、口語訳が助けてくれた。「あなたは手当りしだいになんでもしなさい」。「手当たり次第」なのだから、「しようと思わなくてもいい」。目の前にあることを何でもして言い。これは何という言葉であろう。しかも、「神さま付きで」ある。そんなことってあるのだろうか。文語訳と新改訳とは口語訳派、フランシスコ会訳は新共同訳派である。岩波訳は口語訳派。さて、どちらが正しいのか。これはヘブライ語の先生に聞かなくちゃ分からない。あまりの大きな特権の前に有頂天になりすぎたが、この部分をよく読むと、「これらのしるしがあなたに降ったら」という条件というか、状況が設定されている。この状況が面白いが、今日は取り上げない。ただ、大きな権力を与えられると、こういう気持ちになるのだろうな、と思う。「しようと思うか」「手当たり次第か」、とにかく「したい放題」だ。「(自分が)したい」と思わなくても、周りが私の気持ちをおもんぱかって、どんどん状況が変わっていく。どこかのお姫様が、庭に出て、触る物がなんでも「金」に変わってしまう、という童話があるが、まるで童話のような話である。しかし、それでお姫様は幸せになったのだろうか。大好きな花までも金に変わってしまったら、何と寂しいことだろう。

2017 日々の聖句 3月29日(水)
「主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。(哀歌3:24)

キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(ロマ5:2)

私の黙想:
今日の聖句、「主こそわたしの受ける分」を現代風に言い直すと、私の職業は主に仕えること、つまり聖職(司祭)であることであろう。そしてこれを言う話者は、それに満足している。しかし、その満足には複雑なひねりがある。「待ち望む」という言葉がその「ひねり」を言い表している。良いところを未だ手にしていない。現状は惨めで、単純にそれを「職業」として誇りにしているというのでも、自慢できるような生き方ではない。ここで想定されている人物は預言者エレミヤであろう。

2017 日々の聖句 3月30日(木)
モーセの言葉:あなたたちは、わたしが命じることをすべて忠実に守りなさい。これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない。(申命記13:1)

イエスの言葉:もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。(マタイ19:17)

私の黙想:
何はどもあれ、今朝のローズンゲンでは、モーセの言葉とイエスの言葉が並べられている。これは注意を引く。何しろこの二人は旧約聖書と新約聖書のヒーローある。というより、「旧約」と「新約」の代表者である。しかも、この二人が同じような言葉を述べている。もちろん、ローズンゲンの編集者はそれを意識しているのであろう。これだけで、多方面に亘り、あるいは一点に集中して、黙想できる。
しかし、今朝は申命記の言葉の方に注目したい。とくに後半、「これに何一つ加えたり、減らすことがあってはならない」。この言葉が、ユダヤ教における頑固な律法主義の根拠であり、またキリスト教においてはこれがいわゆる逐語霊感説の一つの根拠になる言葉である。歴史的には、この言葉が黙示録22:18~19に受け継がれ、聖書正典論における、閉鎖性の根拠になる。その意味では非常に重要は役割を担っている。と同時に、すべての新しい思想や解釈を拒否する頑迷さの原因でもある。
しかし、これはそういう意味であろうか。今日のイエスの言葉は、この言葉を受け継ぐものであったのだろうか。そうではないであろう。

2017 日々の聖句 3月31日(金)
あなたは誇り高い海を支配し、波が高く起これば、それを静められます。(詩89:10)

弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。(ルカ8:24)

私の黙想:
「誇り高い海」というイメージは面白い。海がどんな状態の時「誇り高い」と感じるのだろう。この部分口語訳では「海の荒れるのを治め」と訳している。非常にリアルな表現である。気になってフランシスコ会訳を覗くと「高ぶる海を治め」、序でで申し訳ないが新改訳では「海の高まりを治めておられます」。比較の本命岩波訳では「海の高まりを治める方」とあり、ここでの「海」とは神話的な怪獣「ラハブ」と並ぶ「原始の怪獣」を意味すると解説している。つまり、原始の混沌を制圧する方としてのヤハウェに重点がかかっている、とする。
私たち、3.11を経験した日本人としては、人間の傲慢さを示す原発と自然の猛威である津波とが結びついたときの怖ろしさ抜きには読めない。それを「誇り高い」と感じるか「荒ぶる海」と感じるか。むしろ荒ぶる神とそれを支配し治める「平和の神」とのドラマというべきか。そこでの人間は何と小さな存在だろう。

2017 日々の聖句 4月1日(土)
あなたたちはわたしの戒めを忠実に守りなさい。わたしは主である。(レビ22:31)

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。(1ヨハネ5:3)

私の黙想:
神の戒めとは、命令なのか、当然の義務なのか、あるいは行動指針なのか。きっちりと区別することは難しいが、翻訳ではそれが問われる。新共同訳、新改訳、岩波訳では明らかに「命令」である。口語訳、フランシスコ会訳では「(当然の)義務」であり、ヨハネでは「愛の実践」として行動指針のような感じがする。これは法源の問題にもなるが、むしろ解釈者の態度でもある。その意味では、イエスは明らかに愛の実践としての行動指針であるように思う。

2017 日々の聖句 4月2日(日)
わたしは苦しみの炉でお前を試みる。(イザヤ48:10)

パウロの手紙:わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。(2コリント4:11)

私の黙想:
宗教の故に、つまり人間が生きていく上でなくてはならない「心の規定」の故に、苦しむのが当然だという考えは、どうしても受け入れられない。特殊の事情の元で、特殊な人がそのような「使命」を受けるのは、まぁ、仕方がないが、普通の人間が、普通に生きていくのに、そしてその人格を鍛えるために「苦しむ」のには限界がある。宗教のために自分の人生を犠牲にして良いのだろうか。
私が何か悪いことをした場合に、それを矯正するために罰を受けるのは仕方がないが、そのために「死の苦しみ」をするのは限界を超えている。死んでも信念を変えなかった、ということが賞賛されるのは必ずしも宗教に限らないであろう。社会変革という大目的のために自己を犠牲にするのは立派ではあるが、それもやはり「生きていて」意味がある。歯を食いしばってでも「生き抜いてやる」という姿勢こそが賞賛されるべきではないだろうか。

2017 日々の聖句 4月3日(月)
主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。(列王記上17:16)

わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。(ルカ11:3)

私の黙想:
今日の聖句、その背景にある物語は省略する。ワクワクするような面白い話である。今日の聖句、私の母が好きな「御言葉」でいろいろな場面で繰り返し口にし、その背景にある物語を私たちに聞かせてくれた。ある時は貧乏な牧師が我が家を訪れたとき、最高の(その当時は)を準備しながら、話してくれたし、中国人は小麦粉と油があればどんな料理でも作り出せるのだと話していたこともある。私は子どもながら、壺の中の粉、「へ〜イエスさまの国では、粉を壺に入れるんだ」とか、「粉が減らないということはどういう現象なのだろう」と想像したり、したものである。
ということで、親が子どもに「聖書の話」をして聞かせることの大切さをつくづく思う。我が家では引き上げ後、極度の貧乏であったが、食べ物がなくて泣くというようなことはなかった。

2017 日々の聖句 4月4日(火)
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち闇も、光も、変わるところがない。(詩139:11~12)

わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。(1ヨハネ1:5)

私の黙想:
詩139のこの文脈は、神の目からは見えないものはない、私がどこに居てもみておられるということである。そうだとすると、この文章は焦点がずれている。神にとって暗いところも明るいところもない、ということである。口語訳では11節の部分をこう訳している。 「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」、要するに詩人は神の目から隠れたいのである。ところが隠れられない。だから暗くなったら見えなくなるだろうと思うが、神の目には暗さが暗さではないと嘆いている。逆説的に神を称えていると言えなくもないが、神の目から隠れたいという詩人の気持ち、私には分かる。神の目から隠れることができないという神観、いや、神意識には耐えられない。こちらからは神を見ているが、神からはこちらが見えないということも必要である。たまには、たった一人になるという時間、あるいは隠れ家が必要である。たまには神さまも「見て見ぬふり」をして貰いたい。その時に人間は真に人間になる。

2017 日々の聖句 4月5日(水)
エリヤへの主の言葉:(しかし、)わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。(列王記上19:18)

弟子たちへのイエスの言葉:あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。(ルカ22:28)

私の黙想:
旧約聖書における「残りの者」の思想の原点がここにある。大半が失われ残りの者が民族を繋ぐ。この「残りの者」の思想は希望であるが、現実的には非常に寂しい現実である。まぁ、ゼロよりはまし、という感じ。
この思想は、イザヤに受け継がれ、エレミヤを経て、エゼキエルにおいて現実となる。これは一種の「選民思想」でもある。
考えて見ると、実は復活信仰はこの思想に乗っているのではないか。復活したイエスに出会った弟子は「残りの者」で大半はイエスを捨てて去って行った。この考え、ここでストップしておく。

2017 日々の聖句 4月6日(木)
われわれのために刈入れの時を定められたわれわれの神、主を畏れ敬おう。(エレミヤ5:24、口語訳)

神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。(使徒言行録14:17)

私の黙想:
今日の聖句、編集者がかなり手を入れている。先ず口語訳であること、その上で「恐れよう」を新共同訳に従って「恐れ敬おう」に書き直している。また、切り出し方にも工夫が加えられている。新約の聖句と比べて、ローズンゲンの編集者は要するに、神の恵みの具体的実例を「天候気候、季節」の移り変わりの中に挙げようとしているのである。この点については素直に「アーメン」と唱えよう。しかし、エレミヤ書における文脈はそれ程単純ではない、と一言だけ言い添えておく。

2017 日々の聖句 4月7日(金)
主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び命に溢れ、いきいきとします。(詩92:14~15)

どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように。(1テサロニケ3:12)

私の黙想:
今日の聖句は、何とありがたいことか。ということで、私の黙想は終わる。フランシスコ会訳ではこの詩のタイトルに「神に感謝することは素晴らし」と書いている。ちなみに、米田豊先生の講解によると「深き恩の御業、義者の生涯」とある。まぁ、そういう詩である。この詩に付けられている本来のタイトルは「「安息日のために」(新共同訳、「安息日の歌」(口語訳)、「安息の日のための歌」(岩波訳)で、こういうタイトルが付けられているヘブライ語詩編ではこれだけらしい。この種のタイトルが付けられているのは珍しいので、後代のだれかが付けたメモ書きかも知れない。
ということは、逆に当時の人たちにとって安息日とは、こういう日だったと言うことを示しているのだと思う。安息日に神殿に集まってみんなでこの詩を歌う風景を思い起こす。神殿の外では部族間の抗争がいくら激しなされようと、安息の日には神殿に集まって、この詩を唱える。

2017 日々の聖句 4月8日(土)
大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。(アモス6:6)

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(ガラテヤ6:2)

私の黙想:
一人の田舎者が預言者に選ばれたそれがアモスである。今日の聖句は地方の貧しい者が都会に住み豪奢な生活をしている連中に対する呪いの言葉である。今で言うなら、新自由主義により経済格差が増大して貧しくなった者が、国政を握り偉そうにしている者たちに対する批判というべきだろう。今日の聖句を現代風に読み替えるならば、「お前らは我々が貧しい中から苦労して出した税金で、高級な寿司屋で最高級の寿司を食い、贅沢な中華料理屋で豪勢な料理を食べながら、今、国がどういうことになっているのか、滅びつつある国のことを全然考えていない」という意味となる。

2017 日々の聖句 4月9日(日)
わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。(イザヤ44:3)

祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て(憤慨し)、(イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」)イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」(マタイ21:15~16)

私の黙想:
乾いた土地に水が流れ、全体を潤す、というイメージが「聖霊の注ぎ」である、という。聖霊を火にたとえるのか、水にたとえるのか。私は「水のイメージ」が好きだ。土地が吸い込みきれない水は、土地の表面をなぞって流れていってしまう。重要なのは、流れてしまわないでゆっくりと土地に吸い込まれていく水だ。そこには何の騒ぎもない。音もない。ただじっくりと時間をかけて土地は水を吸い込む。しかも地中深く。これが、私の聖霊イメージだ。聖霊はカリスマではない。溢れる水は聖霊に関係ない。流れていってしまえば、それでいい。必要なのは時間をかけてゆっくりと地中深く吸い込まれていく水だ。それが命である。万物の命の源泉である。聖霊とはそういうものだ。一言で言うと、日常性の中で働く神の霊、それが聖霊だ。

2017 日々の聖句 4月10日(月)
主は死を永久に滅ぼしてくださる。(イザヤ25:8)

わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(1コリント15:57)

私の黙想:
「死を永久に滅ぼす」とは、一体どういうことだろう。恐らく、時代により、民族により、文化により、おそらく個人により違う理解、観念を抱くのではなかろうか。じゃぁ、お前はどう考えている、と問われると困る。頭の中だけで、「死が永久に滅びる」ということを考えたら、「死なない」ということしか考えられないし、それは「考えられないこと」である。むしろ普通に考えたら、死が「永遠の滅び」ではないか。私は私の死によってこの世から完全に消えること。死によって私がなくなることか、死が死ぬこと(滅びる)ことによって、私が生きる(死ななくなる)ことか。言わば、生とは私と死との勝負ということになる。ということで、パウロは「死なない自分」を求めた、言い換えるとしにたいする「勝利」を願った。それが今日の新約聖書の聖句の「勝利」という意味であろう。私は「死」をそのようには考えない。死は生の終わりにすぎない。もし、ただ、何となく生きるとしたら、それは人々の記憶の中だけである。

2017 日々の聖句 4月11日(火)
(だが、)わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる。(エゼキエル16:60)

この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。(使徒言行録2:39)

私の黙想:
ノアとの約束か、アブラハムとの約束か、モーセとの約束か、ダビデとの約束かはわからないが、ともかくイスラエルの民は神と契約を結んだ。民の側では常に約束は忘れられ「なかったかのように」なっていたときには「罰」として、約束は反故にされたように見えても、神の側の方では一貫しており破られたことはない。神の側では常に「永遠の契約」であった。これが民と神との基本的な関係であり、イスラエル(ユダヤ人)の歴史観である。
さて、今、この人たちは現状をどう見ているのであろう。この文章において、彼らのことを「この人たち」としか表現できない。今、エルサレムを支配しているイスラエル国は本当に「この人たち」なのか、疑わしいからである。むしろ、そこから追われているパレスチナ難民、あるいはシリア人たちこそが「この人たち」かも知れない。いや、そうに違いない。この契約については、いくら図々しくてもキリスト者が「この人たち」とは言えない。いや、初代教会の人たちは「自分たちこそ、そうだ」と信じていたようであるが。

2017 日々の聖句 4月12日(水)
主にあってわたしの心は喜びます。(サムエル上2:1)

イエスの言葉:もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:15)

私の黙想:
今日の聖句は、長い間の苦しい祈りの結果として男の子与えられたハンナの祈りの冒頭の部分である。この場面を想像したら、このときのハンナの気持ちは良くわかり、それと合わせて、この言葉もよく理解であり。恐らく長い苦しみの期間にはハンナの口からこんな祈りは出てこなかったであろう。と言って、苦しみ中にあったハンナも、今喜んでいるハンナも同じハンナであり、同じ信仰を持っている。
信仰者の祈りといえども、いつもいつも同じ祈りを捧げるわけではない。いつもいつも「主にあってわたしの心は喜びます」と祈れるわけではない。時には、恨み言並べる祈りだってあるだろうし、祈りを口にすることもできない時もある。その意味で祈りは素直でなければならない。神を誤魔化したってしょうがない。「私は今、主にあって、嘆きます」だっていいのだ。恐らく、ハンナだって長い間、「恨み見ます」「嘆きます」と祈ってきたのであろう。そしてその結果、祈りが叶えられた。だから、今は大きな声で、高らかに「主にあってわたしの心は喜びます」という祈りが口から出てきたのであろう。祈りにとって「常套句」ほどつまらないものはない。だから、この祈りも、キリスト者の常套句にしてはならない。

2017 日々の聖句 4月13日(木)
あなたの嗣業である民を恥に落とさ(ず国々の嘲りの種とし)ないでください。(ヨエル2:17)

見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)

私の黙想:
今日の聖句、ローズンゲンでは括弧の中を省いている。神の民が罵られ、辱められている。罵りの言葉がこれに続いて記録されている。「彼らの神はどこにいるのか」。民の恥は神の恥。いろいろ考えさせられる。いわゆる「キリスト教国」が何か悪いことをしたら、キリスト教の神が罵られる。しかし、ここではむしろその逆で「神の恥は民の恥」である。神が神としての働きをしていなければ、その民が辱められる。じゃ、国内で神が神として働くとはどういうことか。日本でバカな指導者たちは古びた「教育勅語」を倉から引っ張り出して、これを実践したら「日本的な神の国」になると思っているらしい。そうではないだろう。あの神が間違っていたために日本は大恥をかいたのじゃないか。誇りを掲げようとして埃(ダスト)をまき散らしている。すべての国民をダスト性の花粉症にしようとしている。

2017 日々の聖句 4月14日(金)
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。(コヘレト12:1)

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。(ルカ23:42)

私の黙想:
今日の教訓的聖句。父の愛唱聖句。今、実際の高貴高齢者になってみて、いいみ言葉だと思うと共に、「違う」という気もする。違うと思うところは、「年を重ねることに喜びはない」という部分である。実際は、「歳を重ねることに喜びがある」である。文句を言い出したら切りがない。しかし、人生とはこんなものだと思えば、これはこれで満足である。若き日と今と何が違うか。野心がなくなった。欲求が減った。無ければないで済ませる。まぁ、これも、小額ではあるが、「年金」のお陰だろう。また、次代に何か残さなければならないという気もなくなったからであろう。

2017 日々の聖句 4月15日(土)
主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられるからである。(申命記8:18)

イエスは、(母とそのそばにいる愛する)弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネ19:26~27)

私の黙想:
今日の聖句、ローズンゲンでは「主を思い起こしなさい」という部分を「あなたは主を覚えなければならない」と訳している。これは口語訳を参照している。触れ出すと、ややこしくなるので、その部分はさっと飛ばして、今日の聖句の肝心のポイントは「富を築く力」である。直前の17節では「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない」と述べられており、これらが対比されている。非常にわかりやすい。財産を築くなどと考えたらややこしくなるが、要するに生活に必要な経済力の源泉は神にある、という教えである。今日は4月15日、つまり14日と16日の間である。熊本大地震の間の日である。余震は続いていたが、14日をすぎてホッと一息ついた16日、14日以上の大地震に人々は怯えた。気象庁は14日の大地震は16日の前余震にすぎないと報告した。16日の被害は甚大であった。これによって人々の復興への意欲はそがれ、「さらに大きな地震」を恐れた。それは今も続いている。
このような災害を経験すると人間の能力の小ささを感じる。もはや、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと言えなくなる。人間はお互いに助け合わねば生きていくこともできないということを感じさせる災害であった。東北大災害で人間の傲慢さが打ち砕かれた(鈍感で傲慢な人は今もいるが)。熊本大地震では人間の小ささを感じさせられた。

昨日のFB 04/13

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お早うございます。主の平和。ポロのタイヤ交換に付き合う。昼食後、1時間程昼寝(OTB)。読書、『唐牛伝』。テレビは終日ほとんど、浅田真央の引退会見のことばかり。夕食後、「警視庁捜査1課9係、主人公(渡瀬恒彦)亡き後未だ続いている。報ステを見て10時半に就寝。6時起床。体温:36.4、血圧(120:61、80)、体調・異常なし、チュン、チュン

24 北村 良輔さん、川染 三郎さん、他22人
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久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪少し肌寒いよく晴れた朝です。
先生たちの今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

東山 富昭 おはよう😃ございます。今日は晴れています。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

萩野 秀子 おはようございます。寒いです。教会にイースタの卵の買い物、内科、チラシ配りです。守られますようにお祈りします。

文屋 善明
4月13日 6:20 ·

お目覚めの花。「今日は聖木曜日、洗足日で聖餐式制定日。祭色は赤か白」「さて、あなたの教会はどちらかな」。(今朝の花木の名前はわかりません。散歩道で見かけたお宅の庭に咲いている。濃いピンク色の花)
画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、花、空、屋外、自然

33 佐藤 静代さん、植村 光郎さん、他31人
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大脇 友弘 ハナズオウ

さて、オチは?

文屋 善明 上がりっぱなし。

大脇 友弘 あはは🤣

牛島 幹夫 今朝は赤色で聖餐式でした。
直方では洗足はしてないですね。

文屋 善明 私も洗足式をしたことはありません。ヨハネ福音書では聖餐式にひっていきするような出来事とされていますが、洗足式は宗教的な儀式としての「完成度」がひくく、どうしてもしらじらさが残ります。そのため、どうしても「倫理的な模範行為」として一種の儀礼化のように思われます。これをうれしそうに行っている宗教家の宗教的感性(霊性)を疑います。京都教区でもある主教の時、これを行っていましたが、蹴っ飛ばしたくなります。

Mizota Michael Satoshi 正教会ではやってますね。。。

Mizota Michael Satoshi あれは足を接吻するまでしないと完成されませんからね。水虫菌が顔に移る、それでもやる、という突破力を求めるのもありそうですが。

文屋 善明
4月13日 6:41 ·

2017 日々の聖句 4月13日(木)
あなたの嗣業である民を恥に落とさ(ず国々の嘲りの種とし)ないでください。(ヨエル2:17)
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)
私の黙想:
今日の聖句、ローズンゲンでは括弧の中を省いている。神の民が罵られ、辱められている。罵りの言葉がこれに続いて記録されている。「彼らの神はどこにいるのか」。民の恥は神の恥。いろいろ考えさせられる。いわゆる「キリスト教国」が何か悪いことをしたら、キリスト教の神が罵られる。しかし、ここではむしろその逆で「神の恥は民の恥」である。神が神としての働きをしていなければ、その民が辱められる。じゃ、国内で神が神として働くとはどういうことか。日本でバカな指導者たちは古びた「教育勅語」を倉から引っ張り出して、これを実践したら「日本的な神の国」になると思っているらしい。そうではないだろう。あの神が間違っていたために日本は大恥をかいたのじゃないか。誇りを掲げようとして埃(ダスト)をまき散らしている。すべての国民をダスト性の花粉症にしようとしている。

27 藤木 冨士子さん、橘 智さん、他25人
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平野 宏 Amen!シェアさせていただきます。

文屋 善明
4月13日 6:52 ·

今日の名言:@odamakoto_bot
「人間の国」は誰がつくるのか。答えは今や、はっきりしています。政府も市役所も政党も頼りにならないとすれば、市民が自分でつくり出して行くほかはない。このことが事実として明らかに示されたのが、今度の大地震、大災害でした。(小田実、『「殺すな」と「共生」』1995)
<一言>これは阪神淡路大震災の時に残した小田実の言葉。東北地方の大災害では、それがさらに明白に現れ、それは未だに未解決のままだ。そのあおりが熊本地震への無策に繰り返されている。政府も行政もますます頼りなくなっている。

21 川染 三郎さん、小貫 ツマさん、他19人

文屋 善明
4月13日 6:55 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第17章 神の御前で謙遜であるように(B)
キリスト:
愛する者よ、君がもっとも嫌悪し、責め、憎むべきものは君の罪以外にはありません。ある人々は私のことを無視し、真理をわきまえようともせず、自分自身の救いをなおざりにして、気ままに、好奇心を追い求めて生きている。そういう人たちはやがて自分自身の好奇心と欲望によって滅びるでしょう。
しかし君はただ私の父である神の怒りと裁きとを怖れなさい。ある人たちは神を素直に求めず、生意気にも神について、ああだのこうだのと議論したり、神の御業の欠陥を探し出したりして、正しく生きることを怠けています。ある人たちは書物を読んだり、ある人たちは絵を描いたり、ある人たちは目に見える印や形によって修行しようとしています。ある人たちは口先だけで私の名を唱えますが、心を整えようといたしません。
しかし、君は私の光で内面を照らし、全ての感情を清め、すベての思いと願いとを永遠なるもの、聖なるものに向けて、地上の事がらには耳を貸さないように。この世の財宝やこの世の知識を求めるよりも、ただ私を愛することに専念しなさい。(2:17:11~18)

16 小貫 ツマさん、川染 三郎さん、他14人

文屋 善明
4月13日 6:56 ·

ニーチェ・短歌
(47)宗教は傷の痛みを鎮めつつ同時に傷に毒を擦り込む
(『道徳の系譜』第3論文『禁欲主義的理想は何を意味するか」第15節) p.36
(48)夢想するばかりで無為にぼんやり衰えてゆく人のおろかさ
(『権力への意志・上』第2書「これまでの最高価値の批判」第335節) p.57

13 北村 良輔さん、久保和男さん、他11人

文屋 善明
4月13日 7:00 ·

<聖木曜日の旧約聖書、出エジプト記12:1~14の14節「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる」> 
小羊が流した血にて国が立つ、これ神の民の建国史なり 善明

26 植村 光郎さん、藤木 冨士子さん、他24人
コメント

Mizota Michael Satoshi うーむ。日本の暑苦しい愛国もキリスト教の真似なんでしょうね。。。

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月13日 7:03 ·

5年前の「今日の名言」でこんなことを書いていたのだ。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月13日 · 福岡県 宗像市 ·
今日の名言: RT @wisesaw:
翻訳は女性のようなものである。 美しければ忠実じゃないし、忠実であれば、きっと美しくない。 (ポーランドの諺) 
<一言>思わずポーランドの歴史を思い起こす。彼らにとって「翻訳」という作業は必然なのだ。その点では東洋の弱小国、日本も同じ。日本において昔の翻訳は、詩にしても、音楽にしても、小説にしても、美しく日本文化そのものに溶け込み骨肉となった。しかし現在の翻訳は、まぁ何と言うか、要するに日本文化を駄目にしてしまっている。

8 福澤浩子さん、辻本 昌弘さん、他6人
コメント

文屋 善明 FBは何を基準に5年前の投稿から、これを選んだのだろう。

文屋 善明
4月13日 11:44 ·

「昨日のFB 04/10」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

9 植村 光郎さん、久保和男さん、他7人

文屋 善明
4月13日 14:19 ·

「昨日のFB 04/11」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

8 久保和男さん、川染 三郎さん、他6人

文屋 善明さんが写真3件を追加しました。
4月13日 16:23 ·

今日の散歩で見かけた、今年初見の「あざみ」かな。それに美しい色の蝶。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然、屋外

36 植村 光郎さん、早乙女 実さん、他34人
コメント

加藤 佑三 こちらでも時々見かける蝶ですが、今年はまだです。名前も知りませんが。

文屋 善明
4月13日 17:43 ·

気を付けよ美しくない散る桜 善明

16 増野 真美さん、東山 富昭さん、他14人

文屋 善明
4月13日 17:45 ·

無残なり散ったら終わり桜かな 善明

17 佐藤 静代さん、金井 由嗣さん、他15人
コメント

Mizota Michael Satoshi 葉桜を楽しむ派です。

糸原 由美子 いやいや、いさぎよく散り際もなお美しき

糸原 由美子 下の句をつけて、かくありなんと思う我なり

文屋 善明 これが私の下の句です。「誰が讃えた散りゆく桜」

藤木 冨士子 風に散ってる桜はステキですが、地面で踏まれると確かに無惨です。

文屋 善明 花見時桜吹雪は好きだけど、地に落ちたならただのゴミなり。

糸原 由美子 あのう、決して武士道の世界や兵隊さんの世界のことを言ったつもりではないのですよ。人間引き際が肝心だと思うこの頃なので。

文屋 善明 それは桜のイメージには合わないね。むしろ、椿でしょうね。

文屋 善明
4月13日 20:05 ·

これはかなりの労作。ぜひ手元に置いて、繰り返しお読みください。ウソとはこうして吐くものといういいテキストになるかも。というのは私のウソかも、ははは。

安倍首相のこれまでの嘘一覧はこちらですwwww
【けしてブレない♥嘘つかない♥】◉私が保証いたします。状況はコントロールされています◉汚染水は完全にブロック◉再び消費増税を延期することはないと断言します◉リーマンショックのような事態が発生しない限り増税は延期しない◉これから日本人…
LIBERALSOKU.COM

http://liberalsoku.com/archives/48881/

23 奥野 卓司さん、西川 芳昭さん、他21人
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コメント

絹田 敬子 · 共通の友達: 大脇 友弘さん
自分への利益誘導のためなら嘘はつく、というこの一点において彼は微塵もブレない。そういうところはヒトラー級だ。が、残念なことにちっさい。すぐわめき、すぐ逃げる。母ちゃんの背後に。

文屋 善明
4月13日 21:25 ·

世の中には「仕事」というものがどういうものなのかわかっていない人がいる。

イラスト料を値切る顧客に「ご自分でどうぞ」→ 返ってきた答えがヤバすぎる(笑) | BUZZmag
クライアントから返ってきたのは、ビックリするような言葉でした…
BUZZMAG.JP
http://buzzmag.jp/archives/88211

32 入口 紀男さん、石松 周さん、他30人

読書記録:中島祐介『もしニーチェが短歌を詠んだら』

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短歌で綴るニーチェの思想

中島祐介『もしニーチェが短歌を詠んだら』(角川学芸出版)から選び出された50句プラス1。

(1)善悪を問うのに口を噤(つぐ)むなよ 君の親でも間違うだろう?
(『曙光』序文第3部)p.11
(2)狂信や虚栄心でも道徳に人間が従う理由になる
(『曙光』第2書第97節)p.21
(3)何事もうまくいかないからからといって世界に嫉妬するべきでない
(『曙光』第4書第304節)p.26
(4)平等を望む気持ちが他の人を自分の位置へ引きずり下ろす
(5)平等を望む気持ちが他の人を褒めて自分を良く見せたがる
(『曙光』第4章第304節)p.27
(6)ウソこそが親切の乳母 自らを偽装したって成長できる
(『曙光』第4書第248節)p.104
(7)親切や愛を他人にあげるには先ずは自分を知らねばならぬ
(『曙光』第4書第335節)p.72
(8)繊細な味も分からぬバンカーは胡椒を好みこの世を嫌う
(『曙光』第2書第203節)p.65
(9)学ばない、知ろうとしない、おしえない。孤独に耐えることを誰しも
(『曙光』第5書第443節)p.53
(10)忘れるな!なにかを照らす光すらどこかを暗くしてしまうこと 
(『曙光』第5書第543)p.32
(11)友人と自分自身に誠実を、敵には勇気をもってあたれよ 
(12)敗者には寛容であれ誰にでも、いつでも礼儀正しく生きよ
(『曙光』第5書第556節)p.69
(13)誤りが人に生ませた想像は、いずれやあやめの花を咲かせる
(『人間的、あまりに人間的Ⅰ』第1章「最初の事物と最後の事物について」第29節)p.39
(14)好意こそ全てを包み成長させる心地よい光なり 
(『人間的、あまりに人間的Ⅰ』第2章「道徳的感覚の歴史のために」第49節)p.74
(15)永遠の愛を誓えば永遠の愛だと見られるように生きよ
(16)感情は約束できないものだからせめて行為を約束しよう
(『人間的、あまりに人間的Ⅰ』第2章「道徳的感覚の歴史のために」第58節)p.128
(17)おろかでも不公平でもあるのだがそれゆえ心地よいのだ愛は
(『人間的、あまりに人間的Ⅰ』第3章「道徳的感覚の歴史のために」第69)p.126
(18)本当に独創的な人間は、面白い記憶でみたされている 
(19)本当に独創的な人間は、のんびりしてても何かを作る
(20)本当に独創的な人なのに、自信をなくし虚ろな目をする
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅰ』第4章「芸術家や著作家の魂から」第165節)p.48
(21)人々は力を得ようとするものに習慣として屈してしまう
(『人間的、あまりにも人間的Ⅰ』第5章「高級文化と低級文化の徴候」第260節)p.28
(22)学校の授業を聞いているだけで実は学びが始まっている 
(『人間的、あまりに人間的Ⅰ』第5章「高級文化と低級文科の徴候」第266節)p.108
(22)迷惑をかけないための気配りは公正であり臆病でもある
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅰ』第6章「交わりの中の人間」第314節)p.73
(23)恋愛による結婚は誤りを父、必要を母としている
(『人間的、あまりに人間的Ⅰ』第7章「女と子ども」第389節)p.130
(24)結婚の前に必ず考えよ「年老いてなお語り合えるか?」
(『人間的、あまりに人間的Ⅰ』第7章「女と子ども」第406)p.135
(25)約束を守るためには記憶力、共感するには想像力が要る
(『人間的、あまりに人間的Ⅰ』第2章「道徳的感覚の歴史のために」第59節)p.139
(26)もしかして友はわたしの秘めごとを知らないからこそ友かもしれず
(『人間的、あまりに人間的Ⅰ』第6章「交わりの中の人間」第352) p.352
(27)焦らずに松は聞き入り樅は待つ、小さな人のことなど忘れ
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅱ』第2部「漂泊者とその影」第176節) p.46
(28)行動は理由をもとに起こされる そのときそこに良心はない
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅱ』第2部「漂泊者とその影」第52節)p.20
(29)標的を外れてもなお何かには当たったんだと自称プロが言う
(『人間的、あまりに人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第198節)p.31
(30)身につけた全てのものを発揮して生を生ききる旅人であれ
(『人間的、あまりに人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第228節)P.59
(31)計画を立てることなら簡単で、実行するのはつらくなるもの
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第70節、同第85節)p.68
(32)格言は時間の歯には固すぎる、食い尽くされることがない
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第168節)p.171
(33)簡単なことばは長く思索され熟成されたものでありうる
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第127節)p.172
(34)褒められて褒められすぎて研鑽をやめててしまうことだってある
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第370節)p.84
(35)若者は憧れている先輩と自分の比較ばかり気にする
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第277節)p.113
(36)付き合いの浅い人にはわたしのヒミツが秘密に見えては居ない
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第254)p.121
(37)上昇も下降もせずにいつだって澄んだ空気のように生きろよ
(『人間的、あまりにも人間的・Ⅱ』第1部「さまざまな意見と箴言」第397節)p.147
(38)働いて結局からだを壊しても会社が一度褒めてくれるだけ
(『悦ばしき知識』第1書第21節)p.161
(39)「賢明な人がおらねば神は居得ず」賢明でない人間もまた
(『悦ばしき知識』第3書第129節)p.25
(40)道徳が導いてくる誠実が、潔癖だけが神を殺せる
(『悦ばしき知識』第5書「われら怖れを知らぬ者」第357筋)p.17
(41)純粋な子どもはすべてを忘却し、世界すべてをまた見つけ出す
(『ツァラトラストラ 上』第1部(1)「三つの変化について」) P.115
(42)君にとり敬意を払う相手こそ、誇れる敵でありうるものだ
(『ツァラトラストラ 上』第1部(10)「戦争と戦士たちとについて」)p.91
(43)友人は察知が上手く沈黙し秘密を厳守する者がいい
(『ツァラトラストラ 上』(第1部(14)「友人について」)P.119
(44)たくさんの短い愚行が愛であり長い愚行が結婚である
(『ツァラトゥストラ 上』第1部(21)「自由な死について」第22節) p.127
(45)深淵を覗き込んでるとき君は、深淵からも覗かれている
(『善悪の彼岸』第4章「箴言と間奏曲」第146節)p.34
(46)この世ではうまく生きえぬ者たちが「あの世」のことを考え出した
(『道徳の系譜』第1論文「(善と悪)(良いと悪い)第10節)p.22

(47)宗教は傷の痛みを鎮めつつ同時に傷に毒を擦り込む
(『道徳の系譜』第3論文『禁欲主義的理想は何を意味するか」第15節)p.36

(48)夢想するばかりで無為にぼんやり衰えてゆく人のおろかさ
(『権力への意志・上』第2書「これまでの最高価値の批判」第335節)p.57

(49)大衆が欲するものは幻惑で、自身を照らす光を憎む
(『反時代的考察』第4編「バイロイトにおけるリヒャルト・ヴァーグナー」第6節) p.37

(50)行く先の分からぬ道がきみだけに開かれている ひたすら歩め
(『反時代的考察』第3編「教育としてのショーペンハウアー」第1節)p.180

ああ、イエスさん死んじゃった。イエスさんが始めた神の国運動も、これで終わりやな。俺たちゃ、これからどうしたらいいんや。人間、死んだら終わりやな。

そこで天から声がする。イエスは死んだ。それであんたたちも死ぬのかい。あんたたちの今までの人生って、それでいいんかい。あんたたちの今までの人生ってそんなもんかい。
ところで、どうだいもう一度、初めっから全く同じ人生をやり直す気があるかい。

つまり、それがあんた自身の人生に対する、あんた自身による人生評価だ。イエスかノーか。
結局のところ、救いだとか、最後の審判だとか言っても、こういうことだろう。

これがあのニーチェが問うた「永劫回帰」の思想なのだ。

『もしニーチェが短歌を詠んだら』からの短歌を一つ。
(51)人生を、この人生をもう一度と、言い得るように悔いなく生きよ
(『悦ばしき知識』第4書「聖なる1月」第341節)p.62

これがあのニーチェが問うた「永劫回帰」の思想なのだ。

註:本書には約200編ほどの短歌が掲載されている。私自身は短歌という者がどういうものか、今まで読んだこともないし、もちろん作ったこともない。それで短歌とはどういうものなのか、この本を読んで学んだ。約200編の中から、成る程と思うものを50編ほど選んだのが「ニーチェ・短歌」シリーズである。最後の一句は番外として、ニーチェの思想の中で私が好きな思想を短歌にしたものである。

昨日のFB 04/14

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お早うございます。主の平和。松村克己の論文『三位一体の神』をテキスト化。昼食前30分仮眠。午後、釣川堤防散策。夕食後、内藤剛志主演「警視庁捜査1課」、報ステを見て10時半に就寝。5時半起床。体温:36.1、血圧(123:73、77)、体調・異常なし、チュン、チュン

23 播 稔さん、小貫 ツマさん、他21人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

藤木 冨士子 おはようございます。

村田 多鶴子 おはようございます~♪先生ご夫妻に今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

東山 富昭 おはよう😃ございます。今日、富田林の耳鼻咽喉科に行って、同じ薬を処方してもらいました。ある程度は、寝れています。主なる神と主イエスにあって、聖日の備えをします。

文屋 善明
4月14日 5:57 ·

お目覚めの花。今日は聖金曜日、受苦日だ。今日の正午から午後3時までイエスは十字架上で苦しまれた。(今朝の黄色い花、花か実か不明、ご近所の庭木)
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、自然、屋外

34 藤木 冨士子さん、小貫 ツマさん、他32人
コメント

若月 新一 おはようございます。

川田信子 お早うございます。今日のな日を覚えて、Amen.

杉浦 紀明 文屋 善明 (Yoshiaki Bunya)先生、花の名前のコメントは鬼門ですが(笑)、これ、ゲッケイジュ(月桂樹)の花だと思います。うちにもあります。蕾が大きくなりもうすぐ咲きます。そちらは開花が早いのでしょう。近づくと良い香りがするはずです。

文屋 善明 ありがとう。これが月桂樹ですか。今日は改めてじっくり見てきます。

文屋 善明
4月14日 5:59 ·

聖金曜日の旧約聖書はイザヤ書の最後の苦難の下僕の詩52:13~53:12<見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる(52:13)。>
あなどられ見捨てられたり主の下僕、苦しみこそが我が栄光なり

28 北村 良輔さん、播 稔さん、他26人
コメント

Mizota Michael Satoshi イエスは誰かの「罪」のために死んだんですかね。堂もそこら辺がいまいち理解できません。

文屋 善明 ヨハネ(どのヨハネかは別として)かなり悩んだ形跡が、福音書は18:8であろう。少なくとも11人の弟子たちに不幸がかからないように配慮している。身代わりと言えないが、弟子たちとしては「自分たちの『身代わり』になった」という気分があったのではないだろうか。

Mizota Michael Satoshi まあ、何と言うか、身代わり感情を否定してるとしか理解できないんですがね。。。

Mizota Michael Satoshi イエスが身代わりになったとウジウジと考えるな、復活したんだから、という文脈。

文屋 善明
4月14日 6:13 ·

2017 日々の聖句 4月14日(金)
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。(コヘレト12:1)
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。(ルカ23:42)
私の黙想:
今日の教訓的聖句。父の愛唱聖句。今、実際の高貴高齢者になってみて、いいみ言葉だと思うと共に、「違う」という気もする。違うと思うところは、「年を重ねることに喜びはない」という部分である。実際は、「歳を重ねることに喜びがある」である。文句を言い出したら切りがない。しかし、人生とはこんなものだと思えば、これはこれで満足である。若き日と今と何が違うか。野心がなくなった。欲求が減った。無ければないで済ませる。まぁ、これも、小額ではあるが、「年金」のお陰だろう。また、次代に何か残さなければならないという気もなくなったからであろう。

30 北村 良輔さん、播 稔さん、他28人
コメント

増野 真美 年をとることは 喜びだと 実感しています。今 この年になったからこそわかることがたくさんありますもの。でも
教会では60代はひよっこだと言われます❗

小貫 ツマ 私は後期高齢者(85)ですが坐骨神経症とひざ痛で、昨日はやっと受苦日礼拝に東京聖アンデレ教会に行きましたが、急な坂道だったので今日はダウンです。健康であればどんなに年齢を重ねても喜びが一杯でしょうね。

文屋 善明
4月14日 6:21 ·

今日の名言:@B_Pascal_jp
私は次のような挨拶を聞くと、嫌な気がする。「大変ご苦労様でした」「ご迷惑をおかけしはしないかと心配です」「あまりに長くなりはしないかと心配です」。こんなことをいう人は、まさにその通りだと思わせるか、私たちを苛立たせるか、どっちかである。(パスカル、『パンセ』§57)
<一言>パスカルはいったい何に苛立っているのだろうか。形通りの挨拶、内容のない美辞麗句、本心を隠した建前。何よりも、それらすべてでしかない、牧師の説教。

19 濱 和弘さん、小貫 ツマさん、他17人

文屋 善明
4月14日 6:23 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第18章 神の恵みを思うこと(A)
修道者:
主なる神よ、私の心をあなたの掟に向かわせ、私をあなたの戒めを歩ませてください。あなたの日常的な恵みも、特別な恵みも、感謝いたします。そのためにあなたの御心を私にお示しください。
私はあなたが与えてくださった全ての恵みを受けるに値いしない者です。むしろ、あなたの寛容さに私は呆然としてしまいます。私が持っているものは全て、霊的なものも、肉的なものも、内的なものも、外的なものも、自然のものも、超自然のものも、すべてあなたから与えられたものです。 たとえ他の人と比べて、与えられたものに多い、少ないがあったとしても、それは全てあなたからのプレゼントでることには違いがありません。だから多いからとして自慢することでもないし、少ないからといって不平を言うこともありません。ただ、頂いたことを神に感謝するだけです。自分自身を最も小さい者、最も足らない者であると考える人が、本来最も大きな賜物を受けるにふさわしいのです。だから与えられたものが少ないということで悲しむこともないし、多く与えられている人を羨ましく思うこともありません。(2:18:1~9)

10 小貫 ツマさん、東山 富昭さん、他8人

文屋 善明
4月14日 6:32 ·

「原本ヨハネ福音書研究より抜粋(十字架)」をブログにアップしました。(受苦日の黙想のために)

BLOG.GOO.NE.JP

文屋 善明
4月14日 6:34 ·

ニーチェ・短歌
(49)大衆が欲するものは幻惑で、自身を照らす光を憎む
(『反時代的考察』第4編「バイロイトにおけるリヒャルト・ヴァーグナー」第6節) p.37
(50)行く先の分からぬ道がきみだけに開かれている ひたすら歩め
(『反時代的考察』第3編「教育としてのショーペンハウアー」第1節)p.180

12 小貫 ツマさん、東山 富昭さん、他10人

12 Luke Etsuzou Nomahさん、川田信子さん、他10人

文屋 善明
4月14日 6:46 ·

「断想:復活日の旧約聖書」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

16 Luke Etsuzou Nomahさん、福永 澄さん、他14人

文屋 善明
4月14日 8:21 ·

花見時桜吹雪は好きだけど、地に落ちたならただの花くず 善明

43 Luke Etsuzou Nomahさん、井形裕子さん、他41人
コメント

杉浦 紀明 先生、俳句では「花屑」と云って季語になります。
ただのゴミなれど季語なり花の屑

松木田 博 青草の上に散った桜の花びらは、とても風情があると私は感じています。ものは捉えようでしょうね^^

文屋 善明 桜の花の短命を美化する勢力に対してあえて抵抗しています。

松木田 博 なるほど!今はそれが必要ですね。

杉浦 紀明 善明先生、納得です。

杉浦 紀明 もとい、花屑や所詮すべては可燃ごみ

門叶 国泰 神田川の「花くず」は放置しておくと川の汚染の元凶になるようです。よって、この季節は大変な労力・費用をかけて舟で回収しているとのこと(TV情報)、「散る」にもいろいろ周りに迷惑がかかります。

Mizota Michael Satoshi 刺青に掘るというのもありでしょう。

大垣 收ピーター 散る桜残る桜も散る桜
結局はみんな散ってしまいます。パッと咲いてパッと散る潔さで、花クズの件ゆるしてあげましょう(笑)

文屋 善明
4月14日 8:30 ·

受苦日にも復活の日の説教思い、苦悩する牧師哀れなりけり 善明

54 北村 良輔さん、播 稔さん、他52人
コメント

水草 修治 言えてます。

中尾香鶴子 確かに❗

文屋 善明 これが逆だったらもっと苦しむでしょうね。イースターに十字架の説教は無理です。

中尾香鶴子 そうですね‼牧師先生の毎週の苦労が少しわかります。

Mizota Michael Satoshi この際だから復活だけで良い気がします。十字架がキリスト教を陰気にした側面はある。

文屋 善明
4月14日 11:20 ·

今日の「折々のことば」、何か清々しい気分になります。これが子どもための絵本ですか? さて、子どもたち分かるかな。全然ピント外れの一言、教会に集まっているのが山羊だというのが笑っちゃいました。普通は「羊」だと思いますが、著者には「角の生えた山羊」に見えた。この人、実は教会のことよくご存じなんでしょうね。教会っていつも角を突き合わせて喧嘩ばかりしてますものね。ある人はキリスト教史はヤクザの「仁義なき喧嘩史」だと言ってますが、リアルですね。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1319760174768107&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

33 佐藤 彰子さん、小貫 ツマさん、他31人
コメント

Mizota Michael Satoshi 私も、やっぱりおおかみだから、そうして生きるしかないな、と思いました。

福山 貴之 · 共通の友達6人
私もオオカミだ。羊さんではないなあ

Mizota Michael Satoshi 草食が流行るんですよ。。。

福山 貴之 · 共通の友達6人
オオカミだけどどこかが受け入れて下さり羊に変わるかもしれません

Mizota Michael Satoshi それはあるね。私もそうありたい。

松木田 博 オオカミ、いいじゃないですか。いつでもどこでも「おお神よ!」って。

Mizota Michael Satoshi 存在自体が迷惑なんだろうなあ。パウロではないが、死ぬことも益な気がします。。。

Mizota Michael Satoshi 手負いの熊は殺処分。聖金曜日にふさわしい。。。

Mizota Michael Satoshi 福音書のキリストの手負いの熊っぽさは普通じゃないから、殺されるのも無理ないなあ、とか。。。

橘 智 存在自体が迷惑、生きていることが迷惑。確かにそう思えることが自分にもあります。なんで生を受けているのだろう、なんで生きているのだろうと。
神に向かって「おおかみよ!」と叫び、生き続けているからこそ、また他を襲ってしか生きられない自分。
そう考えると死にたくなりますよね、実際。
死んだほうが他のために「生きること」なんじゃないかって。

今、病のとこにあって、人の世話になって生きなきゃならない方もそう思っていらっしゃるかもしれません。
今、家族や他人の介護を受けて生きなきゃならない方も、そう思っておられるかもしれません。

人の世話をしてきた人だからこそ、人が世話をしてくださることの大変さを知っていますから。

さて、これをなんといたしましょう。(^^

Mizota Michael Satoshi 山羊の教会が喧嘩してたらエサに見えますね。。。

橘 智 確かにそれは思いました。

Mizota Michael Satoshi 聖金曜日の「血の祭」ってことでしょう。お互いに「おまえはオレのために死ぬ」とか言いあうっていう趣向の死の儀式。

Mizota Michael Satoshi よく考えると人間がいないんだから食物連鎖の頂点なんだと思いますね。食えるものは食って行く、ってのも、この際だからいいんではないかと。。。

文屋 善明
4月14日 11:27 ·

今朝の「ひよっこ」の感想、全く同感です。

Yoshinori Fujii
4月14日 11:17 ·
「十把一からげ」
 今朝の「ひとりっこ」を見つつ、熱いものがつきあげてきた。主人公の父親が「出稼ぎ」の処から「いなくなって」しまった。心配して、夫人は朝早く東京へと「夫探し」に出かけた。また、警察にも「捜索」を頼みにいった。その時、対応した「警察官」は「失踪」するものはたくさんいる。探すけど、「見つけることは難しいかもしれない」との対応、素振りであった。それに対し、夫人は夫の生まれ育った処、姓名をハッキリと告げた。そこには、「相手」がいかに「失踪者」を見なそうと、そのいなくなった彼にも名前はあり、生活はあり、それまでの日々の歩みはあり、そこからあふれ出る「匂い」や「個性」はあるのだという確信をこめて、夫人は向き合った。
 「匿名性」。これはズート以前からあったようだ。その人の歴史も「個性」も無視し、なんにもない「のっぺらぼう」のものであるかのようにいのちを取り扱う。いつでも、それに代わって「代替」できる。変わりはいくらでもある。そんな「不遜さ」をもって「他」を「見つめる」。本当はそうする「自分」だって「軽くあしらわれる渦」の中にあることに気づかないかのように、小生も含めて日々を過ごそうとする。しかも、この地球上で、発展・成長・巨大化という名のもとに、それを一層露わにさせている。
 そう、周りを見つめ、近現代の歴史を見ると、葉書一枚で、「兵隊」にさせられ、戦場へ送り出された。そしてその数が「減ると」、また、誰かが「駆り出される」。それはなにもあのいまわしい戦前だけの話ではない。現在もそう。優秀だ、素晴らしいと一時「賞賛」される人でも、その存在が「不要」と思われれば、いつでも誰かが変わる。そして代った人がなにもなかったかのように「無難」に仕事をこなす。「十把一からげ」。これはあらゆるところで見られる。部長だって、社長だって、高級官僚と呼ばれる人だって、さらに、大臣だって同じように扱われる。そして未来ある若い人たちも同じ。「偏差値」などという「測り」でその存在の希望、特性などを無視し、「君の成績」なら、この学校、この学科に「ふさわしい」よ。希望は無視され、「客観性」という名のもとにある「外部の測り」で若い人の明日が用意される。
 こうしたことがまかり通っているのだから、「空し」くなるのは当たり前。「自信」がもてなくてもおかしくない。「生きる意味」が見つからず、悶々としてしまう。こうした事態がこの小さな地球のあっちこっちにあふれかえっている。
 人間は決して、決して、相手を傷つけ、殺し、敵とみなし、たたきつぶすことに「生きがい」をもつ存在でないはずだ。助け合い、支え合い、相手の事を自分の事のように心配し、「ともに生き」「力を合わせて」生きようとする者たちだ。
 敬愛する長野県安曇野の教師、井口喜源治さんの言葉が浮かんでくる。
彼は教え子にこう言いつづけた。「エライ人にならなくても良いですよ。イイ人になってください。」
 人間が人々と一緒に生きる上での「本来の姿」を先生は教え続けてくださった。
 本日朝早く、パートナーは奈良へ出かけた。高校卒業後50年ぶりの同窓会です。本日の「ひよっこ」たちと同じ時代を生きた者たちの再会の時です。一人ひとりに色々な歩みがあったことでしょう。種々のことを語り合い、50年前にもどって、楽しんでおいで。

明さんが写真5件を追加しました。
4月14日 14:30 ·

私のマンションの桜、今がちょうど散りどき、最後の1枚が私が一番好きな桜の見頃。ここはほとんど人が通らないので、散った桜の美しさが表れています。次に、雨が降ったら大変です。(全部先ほど撮った風景です)
画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外、自然

54 北村 良輔さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他52人

文屋 善明さんが写真2件を追加しました。
4月14日 16:57 ·

今日の散歩道。
花筏二匹の鯉が泳いでる 善明
画像に含まれている可能性があるもの:屋外、水、自然
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然、屋外

28 豊田滋さん、中尾香鶴子さん、他26人

文屋 善明さんが大脇 友弘さんの投稿をシェアしました。
4月14日 17:01 ·

素晴らしい! 今、日本で最も必要なこと

大脇 友弘
4月14日 16:41 ·
★ぜひお聞きください。
11分41秒の動画です。

■「生きることは自由を懸けた戦い」ホセ・ムヒカ氏、N高入学式で魂の祝辞(全文)

2017年4月5日に行われたN高等学校入学式における、ウルグアイ第40代前大統領 ホセ・ムヒカ氏のスピーチです。

以下にムヒカ氏の祝辞全文(和訳)を紹介する。

(http://www.huffingtonpost.jp/…/n-highschool-mujica_n_158266…)

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若者の皆さん、地球の裏側にある、はるか南の片隅から、お礼を言わせてください。
日本を訪れ、その歴史を垣間見られたことは喜ばしい経験でした。

皆さんは今、人生の門出を迎えています。
覚えていてほしいのは、人間は集団で暮らす社会的動物だということです。
1人では生きられません。
だからこそ人類は文明を築いてきました。
文明は先人の残してくれた最大の遺産です。
教育は私達にヒントを与えてくれます。
先人たちが築いた文明や、まいてくれた種を受け取るためのヒントです。
今度は私たちが教育を通じて成熟し、何らかの種を残す番です。
地球の未来と未来の世代のために……。

人生には自らのエゴとの闘いがつきまといます。
自分や大切な人を守るためにエゴは必要ですが、忘れないでください。
人間は社会を必要とし、他者なしでは生きられないということを。
そして覚えていてください。
生きている奇跡こそが最大の幸福だということを。
命は大切に扱い、守らねばなりません。
そして、毎日を精一杯生きてください。
痛みや試練を伴ってもなお人生の美しさは褪せません。
生きるということは、転んでは立ち上がり、前に進むことの積み重ねなのです。
生きることは、自由を懸けた闘いでもあります。
フランス革命のような大げさな意味ではありません。
もっと本能的でささやかな自由です。
すなわち人生の一定の時間を好きなことに使う自由です。
この世はビジネスや経済ばかりではありません。
愛情を育むためのゆとりを持つべきです。
愛する人や友人のために。
急いで生きる必要はありません。
焦る必要はないのです。
日々、人生の喜びを少しずつ味わってください。
欲に溺れてはいけません。
人は裸で生まれ、裸で死んでいくのですから。
友人や子供たち、大切な仲間のために。
なぜなら、愛のない人生など無意味だからです。
一方で、私たちは市場に圧迫されています。
市場は次々と物を買うよう私たちを駆り立てます。
そして時間を奪います。
皆さんが払うのはお金ではありません。
あなたの人生の貴重な時間です。
その代金を稼ぐために費やした時間なのです。
ですから、分別と節度を持ち、無駄遣いをしないでください。
そうすれば人生の自由な時間を失わずに済みます。
古代ギリシャの格言にもあります。
紀元前6世紀頃の言葉です。
“過剰の中の無“(多くを求めるな)

歴史は多くのヒントを与えてくれます。
日本の歴史にも、振り返り立ち戻るべき教訓があるはずです。
古来より続く皆さんの国には、たくさんの知恵と独自の歴史があるからです。
厄介なことに、人間というのは口で言われてもなかなか学びません。
実際に経験して、ようやく学ぶものなのです。
日本はとても現代的で技術の発達した国です。
でもロボットには、人間のような感情はありません。
だからこそ、学校生活や今の時間を有意義に過ごしてください。
大切なのは学び方を学ぶことです。
年齢を重ねるにつれ、多くのことを学びます。
でも、その度に悟るのです。
どんなに学んでも学び足りないと。
一生のうちに学べることは限られています。
あいにく、人間の命には限りがありますが、愛に限界はありません。

ですから、世の中に広めていきたいのです。
人間の能力は巨大なビルを建てたり、月に行ったり、深い海の底に潜ったり、遺伝子を操作することだけはないのだと。
自覚を持ち、助け合えば、世界は変えられます。
たとえどんな困難があろうとも、よりよい世界を築けるのです。
憎しみや戦争のない世界を。
そのためには、世界から過酷な貧困を取り除くこと。
そして、浪費をやめることです。
これらの問題は、人間が足ることを知らず、無駄遣いを繰り返した結果です。
世界では1分当たり200万ドルもの大金が軍事費につぎ込まれています。
それなのに、資金がないと言ってアフリカの飢餓は放置している。
人類発祥の地であるアフリカを見捨てるなど、恥ずべき振る舞いです。
皆さん、勉学に励み、その知識を人類のために役立ててください。
自分だけでなく、みんなのために。

南の大地より、感謝とハグを。


世界一貧しい大統領ホセ・ムヒカ氏。日本の入学式で子どもたちに送ったスピーチが考えさせられる…
ホセ・ムヒカ氏 ウルグアイの前大統領であり、就任当時は”世界一貧しい大統領”の呼び名で世界から知られています。…
SNJPN.NET

http://snjpn.net/archives/18776

18 濱 和弘さん、望月 克仁さん、他16人
コメント

中尾香鶴子 ムヒカさん、ありがとうございます‼

村田 多鶴子 素晴らしいです!シェアさせて頂きます。

文屋 善明
4月14日 17:30 ·

谷さん、ご栄転おめでとうございます。帰国は安倍さんが退陣したときでしょうかね。その時はまた、全国民でお祝いいたしましょう。それまで「書類」は廃棄しないように、あなたの名誉のために。

昭恵夫人付の谷査恵子氏 異例“海外栄転”に安倍政権の思惑 | 日刊ゲンダイDIGITAL
 財務省への“口利き”ファクスを「総理夫人付」という立場で籠池泰典前理事長サイドに送り、一躍「森友学園問題」のキー...
NIKKAN-GENDAI.COM
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/203543

18 Luke Etsuzou Nomahさん、小貫 ツマさん、他16人

原本ヨハネ福音書研究付録3「復活物語」

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原本ヨハネ福音書研究付録3「復活物語」

復活物語
(ヨハネ福音書21章)

1.ヨハネ21章について
ヨハネ福音書は20:30~31に「本書の目的」が次のように記されている。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。この言葉に21章の結びの言葉(24~25節)「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」をつなぐとより完璧な結びの言葉となる。従って、21:1~23は一旦完成したヨハネ福音書に付加されたものであろう。その意味ではこの部分はかなり独立性が高い。

2.これを付加した人物が誰か
問題はヨハネ福音書本体を編集したいわゆる教会的編集者と同一人物かどうかということが問われる。その問いに対する直接的な確証は得られない。ただ、言葉遣いや内容から著者は別であろうと想像される。著者が別人物だとするもっとも確実な証拠は文体、使用単語であろうが、前者についてはかなり専門的な知識が要求されるが使用単語については丁寧に見ていくと明らかになる。
20章まででは使われなくて、21章でだけで使われている単語の主なものは以下の通りである。「漁をする」(3)、「網」(6,8)、「裸」(7)、「朝食を取る」(12)、「帯する」(18)、「年を取る」(18)で、これらについてはたまたまその単語を使用する必要がなかったからであるという説明も付く。
次の8単語については、かなり執筆者の特徴を示している。
(a)「ゼベダイの子ら」(2)
松村克己はヨハネ福音書本体と21章の著者が異なることの証拠として、この表現を取り上げている。これはただ単にこの表現が20章までには出てこないというだけではなく、「ゼベダイの子」つまり「ヤコブとヨハネ」を示すと思われるが、彼らについてはほとんど無視されている。ただ、ヨハネに関しては「イエスの愛されている弟子」という曖昧な表現で登場するだけである。
(b)「岸辺」(4)
マタイ福音書や使徒言行録では用いられているが、ヨハネ1~20章では、湖についての記述はあるのに「岸辺」はいちども用いられていない。
(c)「子らよ」(5)
弟子たちに向かってイエスが「子らよ」と呼びかけるのは、ヨハネの手紙では多用されているが、ヨハネ福音書本体にはない。
(d)「おかず(プロスファギオン)」(5)
これは主食にそえる「ちょっとしたもの」を意味する。通常は「魚」を意味する。しかし著者があえて「魚」という言葉を用いずこの言葉を用いているので「おかずになるような魚」と訳した。新共同訳や口語訳では「何か食べ物はあるか」と訳しているがそれは明らかに誤訳。そうするとそこに既にパンがあることが無視されてしまう。この語は新約聖書全体でもここだけで用いられている単語である。
(e)「上着」(7)
新約聖書全体でもここだけで用いられている。「着る」という動詞に「上に(エピ)」という前頭詞を付けた言葉。それが具体的にはどういうものを意味するのかは不明。
(f)「小羊(アルニオン)」(15)
21章の著者が20章までの著者と異なる決定的な根拠。20章まででは小羊は「アムノス」(1:29,36)で21章では「アルニオン」。アルニオンは黙示録で多用されている。
(g)「飼う(ボスコー)」(15)
羊を飼うという場合、この単語使っているのはここだけ。
(h)「牧する(ポイナイオー)」(16)
これもボスコーと同様、ここだけ。

3.何のために書かれたか。
松村克己は21章の執筆目的について次のように述べている。
「ヨハネ福音書の成立は小アジヤの中心地エペソ辺りだと考えられているが、2世紀を通じてローマ教会の指導権が徐々に強化されて行った。ヨハネの指導下にあった教会で読まれていたこの福音書がローマの教会の人々にも読まれ親しまれるようになった時、この福音書の叙述がペテロの権威、使徒団の筆頭としての地位に対して否定的であることを訂正しようとする意図が感じられる。この福音書が、ペテロを重んじるローマの教会の流れに従う人々の群れに対する配慮としてこの部分が付加されたのではないだろうか」。
確かに福音書本体では、ペトロについてほとんど無視されている。イエスが逮捕される場面では、剣を振り回してイエスを守ろうとしているが、それもイエスからはたしなめられている(18:10~11)。また18:15~27ではイエスを否認したペトロの姿がクローズアップされている。
ところが21章では明らかにペトロの立場が強調されている。

4.講釈:大漁物語 (1~14) について

ルカ福音書の5:1~12にもこの物語とよく似た大漁物語がある。シモン・ペトロの弟子入りの切っ掛けとなった物語である。これらを比較すると類似点が実に多い。場所は「ゲネサレト湖畔」と「ティベリアス湖畔」で共にガリラヤ湖の別名である(jh.6:1)。ガリラヤ湖が「ティベリアス湖」と呼ばれるようになったのは、ヘロデ・アンティパス王がローマ皇帝ティベリゥス(Tiberius、在位14~37)のご機嫌を取るためにガリラヤ湖西岸の風光明媚な場所にヘレニズム風の豪壮な別荘都市を建造し、その町を皇帝の名前をとって「ティベリアス」と呼んだことによる(紀元26~27)とされる。建てられた頃はユダヤ教正統派の人々はこの町を不浄の町として近づかなかったが、後にヘレニズム文化の中心都市となった。2世紀以後はユダヤ教における主要なセクトがここに形成されるようになった。この名称が見られるのはヨハネ福音書だけで6:1、6:23にも見られる。おそらくこの大漁物語はガリラヤ地方に流布していたイエスのエピソードの一つであり、ルカはそれをペトロの弟子入りの切っ掛けの物語に仕上げ、ヨハネは復活のイエスの顕現物語に仕上げたのであろう。どちらが本来のものであったのかということについてはもはや知ることはできない。いずれにせよ、この物語がペトロの生き方の大転換を示すエピソードであることは興味深い。ルカが福音書を書いたのが紀元80年代頃で、ヨハネ福音書の原本(仮説)は60年代、現在の形のヨハネ福音書は90年代から2世紀の初め頃の成立だとすると21章はそれ以後だと思われる。その間にガリラヤ湖についての名称を含めその他この物語の細部に口伝特有の変化が見られる。
たとえば、ペトロが「主だ」という叫び声に反応して「上着をまとって湖に飛び込んだ」という叙述もユーモラスであるがどうでもいいことである。どこかの話し上手の脚色かもしれない。あるいは、取った魚の数についても「153」という数字はいかにも何か(神学的な解説)がありそうな感じがする。松村克己先生は「4世紀のヒエロニムスによると、ギリシャの博物学者は魚の種類を153と数えたという。また、それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」という注釈について「カトリック教会では、福音の網はあらゆる人々(民族)を集め、しかも網は裂けず、一つとなっていることを象徴的に示すものだと解釈している」と説明している。
この問題について立教大学の聖書学の秋吉教授が面白い解釈を紹介している。「これはアグスチヌスの解釈であるが」とことわった上、「153」という数字は1から17までを足した数字であり、「17」という数字は十戒の「10」にイエスの福音を完全なものとする完全数「7」という数字をあてはめているという。つまり、ユダヤ教の律法に打ち勝つイエスの福音がここに実現したのだという隠喩である(池澤夏樹『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』118頁)。こういうことを考える伝統がユダヤにはあり、それを数秘術(numerology)という。また、「舟の右側に」という細かいことも、なぜ「左」ではいけないのか、伝承の過程において語り手に何らなの意味づけがあったのであろうが、現在ではその理由は分からなくなっている。ともかく、この物語は多くの人々の口を通して、語り継がれていくうちにいろいろな要素が吸収されたのであろう。

<以下テキスト>(1~14)
語り手:その後、イエスはティベリァスの湖畔で弟子たちの前に姿を現されました。その次第は次のようなことでした。(1)
エルサレムでの出来事の後、弟子たちは郷里ガリラヤに逃げ帰っておりましたが、彼らの内、シモン・ペテロと、双子と呼ばれるトマスと、ガリラヤのカナ出身のナタナエルと、ゼべダイの息子たちの他に2人の弟子たちも加わって、7人が意気消沈して一緒に過ごしていました。(2)
そんなある日のこと、年長のシモン・ペトロはこのままでは、みんな駄目になると思い、他の弟子たちに声をかけました。 (3)

ペトロ:漁にでも行こうか。
6人の弟子たち:そうですね、このままではどうにもならいし、俺たちも一緒に行こうかな。(3)

語り手:彼らはティベリアス湖に出かけ、舟に乗って漁を始めました。彼らにとってはよく知った湖でしたが、どうしたことかその夜には何の収穫もありませんでした。空が白み初め、辺りがだんだんと明るくなってきました。(3)
その時、イエスの姿が岸辺に見えましたが、もちろん弟子たちはイエスだとは気が付きませんでした。その時、その人物が彼らに声をかけました。 (4)

イエス:どうだい、何かおかずになるような魚は獲れたかい。
弟子たち:(ぶっきらぼうに)いいや。(5)
イエス:それじゃ、舟の右側に網を打ってごらん。きっと、何か獲れるよ。 (6)

語り手:舟の上の弟子たちは、一晩かかっても獲れなかった魚が今さら獲れるはずがないと思いながらも、ともかく、網を打ちました。ところが、驚くべきことに沢山の魚が獲れたのです。あまりにも大漁で網を引き揚げることもできない程でした。その時、イエスが愛したと言われているあの弟子がペトロに呟きました。(7)

あの弟子:主だ。(7)

語り手:それでシモン・ペトロは、主であると聞き、裸だったので、上着をまとい、海に身を投げた。他の弟子たちは、陸から遠くはなく、10メートル(20キュペス)ほどしか離れていなかったので、小舟で魚の網を引っ張って来ました。(8)
それで彼らが陸にあがってみると、炭火がおこしてあり、おかず(の魚)がその上にあって、またパンもありました。イエスは弟子たちに語りかけました。(9)

イエス:あなた方が今取ったおかず(の魚)を少し持っていらっしゃい。(10)

語り手:それで陸に上がっていたペトロも手伝って、魚でいっぱいになった網を陸に引き揚げました。数えてみると153尾もありました。しかも、これ程の大漁にもかかわらず網は裂け手いませんでした。(11)

イエス:さあ、朝飯にしよう。(12)

語り手:弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」などと訊ねる者はいませんでした。彼が 主であるということを疑うものはいませんでした。(12)
イエスはパンを取り上げ、弟子たちに与えました。そしておかず(の魚)も同じ様にしました。(13)
これは、イエスが死人のうちから甦って弟子たちに顕れた三度目のことでした。(14)
<以上>

(1) イエスの十字架刑当時、弟子たちは逃げてガリラヤの地に戻った(と、思われる)(jh.16:32、mt.26:31~32)。そして興奮も冷めてガリラヤ湖において以前の漁師に戻ったのであろう。
(2) 2節にはその時一緒に漁に出かけた弟子たちのリストがある。「シモン・ペテロと、双子と呼ばれるトマスと、ガリラヤのカナ出身のナタナエルと、ゼべダイの息子たちの他に2人の弟子たち」で7人である。共観福音書は「ゼベダイの息子たちがヤコブとヨハネ」であると述べている。このリストの中にペトロの弟アンデレの名前が見当たらないのが不思議である。また彼らと同郷のピリポの名前がないのも不思議である。おそらく、匿名の弟子2人は彼らではないかと推測される。この出来事が何時のことかにもよるが、殉死したとも考えられる。
それにしてもヨハネ福音書もまた21章でも「ゼベダイの息子たち」の名前を徹底的に明らかにしないのは興味深い。なお、共観福音書では2人の名前を挙げるとき常に「ヤコブとその兄弟ヨハネ」(mk.3:17)というようにヤコブの名前を挙げているところを見ると、ヤコブの方が年長だったのではないだろうか。
(3) その日は一晩中網を打ったがまったく不漁であった。疲れた切っていたとき、岸から見知らぬ人物から「船の右側に網を打ってご覧」と声をかけられ、その通りにすると沈みそうになる程の大漁であった。その人物をヨハネは「主だ」という。その声を聞くやペトロは慌てて湖に飛び込んだ。その場面で笑ってしまうのは「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」という。ペトロが湖に飛び込んだ理由が分からない。少しでも早くイエスの所に行きたかったというわけでもなさそうだ。そのことについて著者は何も語らない。だから読者としては勝手に想像するしかない。おそらくペトロはまともにイエスの顔を見ることが出来なかったのかも知れない。思い返せばペトロがイエスの弟子かと問われたとき、「知らない」といってイエスを見捨てた。だから、今さらすました顔で、何事もなかったように、「お元気ですか」などと挨拶するわけにもいかない。おそらく穴があったらそこに潜り込みたい心境だと思われる。それが上着を着て湖に飛び込むという異様な行動になったのかも知れない。陸に上がってもすぐにはイエスの所に行っていないようだ。むしろイエスから「今取ったおかず(の魚)を少し持っていらっしゃい」(10)という他の弟子たちに対する声を聞いてから、ペトロは船に乗り込んで、網を引き上げるのを手伝っている。端から見ていて実におかしい。他の弟子たちもイエスに向かって「あなたはどなたですか」と訊ねる者もいない。むしろ、その気まずい沈黙を破るように、イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と声をかける。気まずい思いで一緒に食事をする風景は以前にもあった(jh.4:27~33)。ともあれ、ここではイエスが準備した食べ物に弟子たちが獲ってきた魚を交えて、それを囲んで食事をした。

5.気まずい食事の後で

<以下、テキスト>(15~19)
語り手:食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに声をおかけになりました。(15)

イエス:ヨハネの子シモン、あなたは私をこの者たちよりも愛するか。
ペトロ:はい、主よ、私があなたを愛しているということは、御存じのことです。
イエス:私の小羊を飼え。(15)

イエス:ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか。
ペトロ:はい、主よ、私があなたを愛しているということは、御存じのことです。
イエス:私の羊を牧せ。(16)

イエス:ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか。
ペトロ:(彼は自分に三度も「私を愛するか」と言われたので、困惑した。) 主よ、あなたはすべてを御存じです。私があなたを愛しているということは、あなたはわかっておいでです。
イエス:私の羊を飼え。(17)

イエス:アメーン、アメーン、汝に告ぐ、あなたが若かった頃は自分で自分に帯をして、自分の欲するところを歩いていた。しかし年を取ると、自分の手を伸ばして、他の者があなたに帯をし、自分が行きたくないところに連れて行くだろう。 (18)

語り手:イエスはペトロがいかなる死をして神に栄光を帰するかを示したのである。そしてこう言ってから、ペトロに言った。

イエス:私について来なさい。(19)
<以上>

<この段落を通常の会話体にしてしまうと、微妙な表現が壊れてしまうので、セリフはほとんど田川訳のままにしておいた。>
イエスも、弟子たちも、ほとんど言葉を交わさずに、気まずい食事も終わった。この沈黙を破ったのはイエスであった。食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに声をかけた。ここで著者はわざわざペトロをフルネームでいう。イエスもペトロにフルネームで呼びかける、「ヨハネの子シモン」(jh.1:42)。この言葉を聞いたときペトロはどんな気持ちだったであろう。さぁ、いよいよ来た。名前を呼ばれるだけでペトロは縮み上がったかも知れない。胸はたかなり、心臓ががくがくしたかも知れない。おそらくイエスの声は静かに、ペトロの心に問いかけるように、「ヨハネの子シモン、あなたは私をこの者たちよりも愛するか」。この言葉の意味は、ペトロが仲間を愛するか、私を愛するかという問いである。
イエスは彼らがこうして同じ船に乗って漁をしているというだけで、ペトロがどれ程彼らを愛しているのか、一目瞭然であった。というよりも、それは共にイエスに従ったという仲間への愛と責任であったであろう。落ち込んでいる彼らをほっておけない。従って、イエスに「彼ら以上にわたしを愛しているか」という言葉は意味慎重である。この場面で、ある意味で、彼らを棄ててでも私を愛しているのか、という問いでもある。あの時、あなたは私を棄てて、彼らと共に逃げ出した。ある意味で、ペトロはイエスを棄てて彼らを愛したのである。この問いの前に、ますます身を縮めて、声にもならない声で「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ハッキリ自分の言葉で「あなたを愛している」と言えない。この言葉は、自分の気持ちを完全に「あなた」に任せている。その時、それに応えるように「私の小羊を飼え」とイエスは言われた。これはあなたがあの時、彼らと一緒に逃げたことを承認する言葉である。いわば「事後承認」である。言葉を換えていうと、「それで良かったのだよ」。この言葉によってペトロの気持ちがどれ程解放されたことであろう。
イエスの言葉はそれだけで終わらなかった。
再び、前と同じ言葉で「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか」。この問いには「この者たちよりも」という比較の言葉がない。いわばストレートである。イエスとペトロとの間に、責任感とか今までの行きがかりとか、損得とかいうものを一切挟まないで、「私を愛するか」。この問いに対してもペトロは前と同じ言葉で答えている。ペトロには「私は愛する」という「私」に対する自信がない。人間の決意とか愛というものの儚さを誰よりも知っているのがペトロである。あの時には、実に勇ましく、「私は自分の生命をあなたのために捧げる覚悟です」(jh.13:37)と言い切ったのである。その時のイエスの言葉をペトロは生涯忘れない。「あなたはあなたの生命を私のために棒げると言われるのですか。それはありがたいことですが、本当のことを言うと、あなたは鶏が鳴く前に私を知らないと三度も言うことになるでしょう」。そして、それはその通りになったのだった。この時ペトロはその一連の出来事を思い起こしていたに違いない。これに対してイエスは「私の羊を牧せ」と応えられた。同じような返事ではあるが微妙なところで違う。最初の言葉は「小羊(アルニオン)」であったが、ここでは「羊(プロバトン)」である。「小羊」と「羊」、どう違うのか、ハッキリその違いを解説することは出来ない。むしろ、「飼へ」と「牧せ」との違いの方が重要であろう。カトリックの小林稔は前者を「世話をしなさい」、後者を「牧しなさい」と訳し分けている。まぁ、それぞれが自由に想像したらいいのであろう。
さらにイエスは問いかける。「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか」。三度とも同じ質問に思えるが、三度目は少し違う。ここで用いられている「愛」は「フィレオー」で前の2回は「アガペー」で、ペトロの方の答えは、3回とも「フィレオー」である。田川建三はここではこの2つの単語はまったく同義語として用いられているという。しかし、小林稔は「アガペー」を「愛している」、フィレオーを「ほれこんでいる」と訳し分けている。しかし、結局訳し分けてもあまり意味はなさそうである。むしろペトロの方が三度も同じ質問をされたことで「悲しくなった」という。この言葉を口語訳、新改訳では「心をいためて」、文語訳では「憂うと訳している。田川建三は「困惑した」、小林訳では「悲しくなった」という。つまり、師であるイエスから二度も同じ質問をされて、それに誠実に応えているのに、さらに三度も質問され、どう答えたらいいのか、私の答えが不十分なのか、もうそれ以上答えようがない。さすがのペトロも「うんざり」してしまったのであろう。それでも、ペトロはなおも誠実に「 主よ、あなたはすべてを御存じです。私があなたを愛しているということは、あなたはわかっておいでです」と答えている。言葉は悪いがペトロは「自棄のやん八」という心理状況であったのであろう。私も考える。どういう意味であろう。多くの注解者はこれはペトロが3回イエスを「知らない」と言ったことに対応していると解釈しているが、私はそんなことではないと思う。もしそうだとすると、イエスはペトロに対して一種の「仕返し」をしていることになるではないか。イエスとペトロの間で、問い、答える関係は無用である、とペトロは言う。「あなたはすべてをご存じです」という言葉がそれを示す。もう、問い、答える関係は必要ない。ペトロは「すべてをご存じ」の方の前に完全降伏をしている。
ここからは私の独断的解釈である。初めの「私の小羊を飼え」と最後の「私の羊を飼え」とは同じ「飼え」という言葉が用いられている。しかし「飼え」の深みが違うのではないか。「飼う」という言葉は同時に「世話をする」という意味でもある。初めの方の「世話をする」をおそらくペトロは「私が」この人たちの世話をするという風に受け止めたのだと思う。私の責任として、イエスの小羊たちの世話をする。しかし最後の「世話する」においては「私」がなくなっている。私は完全に主に克服されている「私」であり、それは「無私の私」である。ただ主に対する無としての私、主の下僕、道具としての私である。イエスはペトロをそこ迄追い込んだ上で「私の羊を飼え」と言われている。
18~19節では、ペトロの死に方についての意味深長な言葉が語られる。そこに見られるペトロの姿は完全に無力化されたペトロの姿である。しかし、完全に無力化されたペトロが神の栄光を現す。そこまで話した上で、ペトロに対して「私について来なさい」(mk.1:17、mt.4:19)と若き日のペトロに呼びかけられた、あの言葉が繰り返される。これはただ単なる繰り返しではない。極限を究めた「付いて来なさい」である。「付いていくしかない」私への「付いてきなさい」である。
あの時、最後の晩餐の席でユダが部屋から出て行ったとき、イエスは「今や人の子は栄光を受け、神も人の子も崇められるときが来ました」と宣言された。その時、ペトロは「先生、あなたはどこに行かれるのですか」と言い、イエスから「私が行く所に、今はあなたは付いて来ることができません。いずれにしても、何時の日か、あなたは付いて来ることになるでしょうが」(13:33)と言われた。その時、ペトロは死ぬ覚悟だとまで言い切りましたが、事実、ペトロはイエスを否認し、「付いていかなかった」。ここで「私に付いて来なさい」が実現した。完全に無になったペトロが初めてイエスに付いていくことができる。

6.最後のエピソード

<以下テキスト>
語り手:ペトロは後ろをふり返り、そこに立っていたイエスが愛していたあの弟子を見ました。彼は晩餐の時にイエスの胸に寄りかかって、「主よ、あなたを引き渡す者とは誰ですか」と言った者です。(20)
それでペトロは彼を見つめながらイエスに尋ねました。(21)

ペトロ:主よ、彼はどうなるのでしょうか。(21)
イエス:もしも私が再び来るまで彼が生きていて欲しいとしても、それがあなたにどういう関係があるのですか。あなたは私について来ればよい。(22)

語り手:それで、この弟子は死ぬことがないといううわさが兄弟たちの間で広まりましたが、イエスがペトロに言われたことは、彼は死なないということではありませんでした。ただ、もしも私が再び来るまで彼が生きていて欲しいとしても、それがあなたにどういう関係があるのですか、と言わたのです。(23)
実は、彼こそがこれらのことについて証言し、それを書いた弟子です。そして私たちは彼の証言が真実であると知っています。(24)
イエスがなしたことは他にも沢山ありますが、もしもそれが一つずつ書かれるとしたら、世界さえもそれが書かれる(多数の)本を中に入れることができないだろうと思われます。(25)
<以上>

(1) イエスが愛していたあの弟子
この最後のエピソードの主人公はこの弟子である。にもかかわらず、著者はここでもまだ、この弟子の正体を語ろうとしない。
(2) 「彼はどうなるのでしょうか」
ペトロは「彼」のことを気にしている。これはただ心配しているのではない。今、ペトロはイエスから「イエスの羊を飼う」という大変な使命を託された。ペトロはこれまでの経過からみて、「彼」がイエスの信頼をもっとも受けており、この使命を受けるに最も相応しいのは「彼」であると思っていたに違いない。だから、ペトロは「彼」のことが気になった。
(3) 「もしも私が再び来るまで彼が生きていて欲しいとしても、それがあなたにどういう関係があるのですか。あなたは私について来ればよい」。要するに「あなたはあなた」、「彼は彼」であるが、それもイエス自身の意志というよりも、父なる神の意志である、という。
(4) 「この弟子は死ぬことがないといううわさ」
「彼」は決して無名ではない。うわさにされるほどの有名人である。おそらく、このエピソードは、ペトロの死後に広まったものと思われる。その時、少なくとも「彼」は生きている。ただ、これがうわさになるということは、一種の行方不明状態ではなかっただろうか。
何の根拠もない妄想に近い推測であるが、著者は「彼」にパトモス島に幽閉され、そこで幻を見たとされるヨハネ黙示録の「僕ヨハネ」(rev.1:1,9)を想定していたのかも知れない。
(5) 「実は、彼こそがこれらのことについて証言し、それを書いた弟子です」。
彼が書いたとされる「証言集」がヨハネ福音書全体であろう。ヨハネ福音書の背景となった教会がが小アジアの中心地エフェソの教会を中心にしているとしたら、エルサレムからローマへと展開し、ギリシャ半島を飛び越したいわゆる「正統派」キリスト教に対して、こちらこそ正統派であるという自負を持ち、独自の神学形成をしたのであろう。それが原本ヨハネ福音書を継承した、いわゆる「ヨハネ教団」であろう。この集団の流れが後の東方教会の源流になったと想像することには無理があるであろうか。

昨日のFB 04/15

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お早うございます。主の平和。二人で整骨院へ。帰宅後ダラダラ。昼食前30分仮眠。午後、読書を始めるが気が入らない。あれこれ手を出すが、実らず。まぁ聖金曜日だからね。釣川堤防散策。夕食後、見るべきものもないまま、だらだらして報ステを見て10時半に就寝。5時半起床。体温:36.3、血圧(130:71、71)、体調・異常なし、チュン、チュン

31 大野 泰男さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他29人
コメント
久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

藤木 冨士子 おはようございます。

東山 富昭 こんにちは😃。今日と明日の聖日も、よろしく、お願いします。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

文屋 善明
4月15日 6:08 ·

お目覚めの花。「さぁ、今日は何の日、一応おつきあいで聖土曜日とはいうもののテーマはなし。イエスさまは死んじゃったし、埋葬されてしまったし、ということで聖堂正面の十字架には黒い布で覆われている。そうだ、今日はイエス不在の日なのだ。この不在がいつまで続くか、イエスが再臨されるまで、この世界にはイエスは不在なのだ。じっくり、イエス不在の意味を考えよう」。(今朝の花は何の特徴もないただ美しいだけの白い花)
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物

42 佐藤 静代さん、芳賀 道子さん、他40人

文屋 善明
4月15日 6:31 ·

2017 日々の聖句 4月15日(土)
主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられるからである。(申命記8:18)
イエスは、(母とそのそばにいる愛する)弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネ19:26~27)
私の黙想:
今日の聖句、ローズンゲンでは「主を思い起こしなさい」という部分を「あなたは主を覚えなければならない」と訳している。これは口語訳を参照している。触れ出すと、ややこしくなるので、その部分はさっと飛ばして、今日の聖句の肝心のポイントは「富を築く力」である。直前の17節では「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない」と述べられており、これらが対比されている。非常にわかりやすい。財産を築くなどと考えたらややこしくなるが、要するに生活に必要な経済力の源泉は神にある、という教えである。今日は4月15日、つまり14日と16日の間である。熊本大地震の間の日である。余震は続いていたが、14日をすぎてホッと一息ついた16日、14日以上の大地震に人々は怯えた。気象庁は14日の大地震は16日の前余震にすぎないと報告した。16日の被害は甚大であった。これによって人々の復興への意欲はそがれ、「さらに大きな地震」を恐れた。それは今も続いている。
このような災害を経験すると人間の能力の小ささを感じる。もはや、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと言えなくなる。人間はお互いに助け合わねば生きていくこともできないということを感じさせる災害であった。東北大災害で人間の傲慢さが打ち砕かれた(鈍感で傲慢な人は今もいるが)。熊本大地震では人間の小ささを感じさせられた。

20 小貫 ツマさん、岩村 義雄さん、他18人

文屋 善明
4月15日 6:46 ·

今日の名言:@gandhi_tamashii
簡素に暮らし、豊かに思考する。そんな理想の追求を、人はひとたび日々の暮らしの中で欲を膨らませたとたん、捨て去ってしまう。(『ガンディー 魂の言葉』)
<一言>問題は「日々の暮らし」である。「貧すれば鈍する」という言葉がある。この「鈍」は「愚鈍」の「鈍」で愚かさを意味する。日々の生活に追われるとバカになるという意味らしい。むしろ私はこの言葉は「貧すればドンする」の「ドン」を貪欲の「貪」と解したい。貧しさを感じ始めたら「貪欲になる」。

17 久保和男さん、藤木 冨士子さん、他15人
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増野 真美 シェアします。明日はイースターですね❤

文屋 善明
4月15日 6:48 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第18章 神の恵みを思うこと(B)
修行者:
主なる神よ、すベての良いものはあなたから与えられます。だから私たちは何でもあなたを賛美いたします。あなたは誰に何が適当かをよくご存じです。だから沢山与えられ者も、少ししか与えられていない者でも、それが最適なのです。ただそれが私たちには分からないのです。
主よ、私には他の人に誇るべきものが何もなくても、考えてみると大きな恵みなんですよね。自分の貧しさや足りなさを自覚している人は、そのことを嘆くことも落胆することもありません。なぜなら、あなたはこの世で軽蔑されている者、へりくだっている者を選び、あなたの友と呼び、家族としてくださいました。その代表が使徒たちです。彼らはつぶやかず、悪意を抱かず、疑問を持たず、謙遜で、純粋で、あなたのみ名のために迫害される者とされたことを喜び、この世で軽蔑されている人たちを喜んで仲間といたしました。(2:18:10~15)

15 久保和男さん、山本 友美さん、他13人

文屋 善明
4月15日 6:52 ·

ニーチェ・短歌
ああ、イエスさん死んじゃった。イエスさんが始めた神の国運動も、これで終わりやな。俺たちゃ、これからどうしたらいいんや。人間、死んだら終わりやな。
そこで天から声がする。イエスは死んだ。それであんたたちも死ぬのかい。あんたたちの今までの人生って、それでいいんかい。あんたたちの今までの人生ってそんなもんかい。
ところで、どうだいもう一度、初めっから全く同じ人生をやり直す気があるかい。
つまり、それがあんた自身の人生に対する、あんた自身による人生評価だ。イエスか、ノーか。
結局のところ、救いだとか、最後の審判だとか言っても、こういうことだろう。
最後に、おまけで、ニーチェの短歌を一句。
『もしニーチェが短歌を詠んだら』からの短歌を一つ。
(51)人生を、この人生をもう一度と、言い得るように悔いなく生きよ
(『悦ばしき知識』第4書「聖なる1月」第341節)p.62
これがあのニーチェが問うた「永劫回帰」の思想なのだ。
註:本書には約200編ほどの短歌が掲載されている。私自身は短歌という者がどういうものか、今まで読んだこともないし、もちろん作ったこともない。それで短歌とはどういうものなのか、この本を読んで学んだ。約200編の中から、成る程と思うものを50編ほど選んだのが「ニーチェ・短歌」シリーズである。最後の一句は番外として、ニーチェの思想の中で私が好きな思想を短歌にしたものである。
このシリーズはこれで終わりとします。長い間お読みいただき感謝します。

28 佐藤 静代さん、久保和男さん、他26人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月15日 7:38 ·

5年前のローズンゲンです。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月15日 · 福岡県 宗像市 ·
losungenj 2012.04.15(sun)
わたしがあなたに与える命令は平和、あなたを支配するものは恵みの業。(Isa60:17)
パウロの手紙:すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 (2Cor4:15)
私の黙想:
今日の聖句は終末において実現する栄光に輝くイスラエル王国の情景(いわゆる千年王国以後)。イスラエルは神の僕として全世界を支配、統治するという希望。その時イスラエルが掲げるマニフェストは「平和」、統治するものの有り様は「正義」であるという。

10 Mizota Michael Satoshiさん、藤井 衞さん、他8人

文屋 善明
4月15日 8:19 ·

<聖土曜日の旧約聖書はヨブ記14:1~14である。なぜ、ヨブ記なのかその理由ははっきりしない。14節に次の言葉がある「人は死んでしまえばもう生きなくてもよいのです」(ヨブ14:14)。恐らくこれがテーマであろう。ということで、次の2句を、お好きな方をどちらでも>
人生は死んだら終わりその後は、何があるのか神次第なり 善明
人生は死んだら終わりその後は、嬉しくもあり寂しくもある 善明

14 竹本 耕造さん、久保和男さん、他12人

文屋 善明
4月15日 8:22 ·

人生は始まりあるが終わりなし、生きるも死ぬも我に関せず 善明

16 小貫 ツマさん、竹本 耕造さん、他14人

文屋 善明
4月15日 8:24 ·

イエスだけ陰府に下りし人なれど、何を見たのか語るひまなし 善明
(聖土曜日を覚えて、参照:1ペトロ3:20)

27 久保和男さん、北村 良輔さん、他25人
コメント

三浦 三千春 ひまなし、というより、用なし、なのではないかと愚考します。

文屋 善明 この「ヒマ」は「隙間」という意味です。

三浦 三千春 なるほどです。

Mizota Michael Satoshi いやあ聖書「以外」にどんどんと妄想を重ね伝説を生み続けるのがキリスト教なんで、「耶蘇さまの黄泉下り」についてもたくさん伝説を作ってほしいところなんですが。

文屋 善明
4月15日 8:52 ·

「原本ヨハネ福音書研究からの抜粋(20章)」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP
いいね!他のリアクションを見るコメントするシェアする10 竹本 耕造さん、川染 三郎さん、他8人

文屋 善明
4月15日 9:14 ·

「昨日のFB 04/12」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

9 竹本 耕造さん、北村 良輔さん、他7人

文屋 善明
4月15日 9:28 ·

「今週のローズンゲン 2017/03/26~04/15」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

13 竹本 耕造さん、久保和男さん、他11人

文屋 善明
4月15日 9:46 ·

「昨日のFB 04/13」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

15 竹本 耕造さん、久保和男さん、他13人

文屋 善明
4月15日 11:09 ·

イエスなきこの世は闇に覆われり、十字架覆う黒い布ぎれ 善明

31 竹本 耕造さん、久保和男さん、他29人

文屋 善明
4月15日 11:34 ·

ただ一人陰府に降って大丈夫、護衛の天使どこに行ったか 善明

15 竹本 耕造さん、藤木 冨士子さん、他13人

文屋 善明さんが写真5件を追加しました。
4月15日 16:31 ·

悠々釣川。釣川や鳥たち遊ぶ春の午後 善明
画像に含まれている可能性があるもの:鳥、屋外、水、自然
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39 佐藤 静代さん、北村 良輔さん、他37人

文屋 善明
4月15日 22:31 · 福岡県 宗像市 ·

チラホラ、イースターのお祝いの言葉が見られますが、おそらくユダヤの日付変更の習慣にもとずくものだと思いますが、イースターに関しては、日曜日の朝、夜明け前でなければなりません。

41 佐藤 静代さん、松沢 直樹さん、他39人
コメント

杉浦 紀明 そういえば、午前0時に「キリスト復活、実に復活」と云い合う方々が、あれは正教会だったでしょうか、投稿を読んで思い出しました。確かに「週の初めの明け方」でなければ聖書的でないですね。

Mizota Michael Satoshi 明確に言うと「イエスが復活をした時点は時間的にかなり前」だが、人間の発見が「朝方」と。。。(私は寝坊しがちなので「日が昇ってから」でもいけるとか)。。。

文屋 善明 ここにユダヤ教とは異なるキリスト教の主張がある。何だかんだ言っても、ここがポイント。

Mizota Michael Satoshi プロテスタントはキリスト教で、古い教派はユダヤ教ではないかと。。。

吉田 櫻井 啓子 この辺は教派的に解釈微妙かと。
クリスマスイブは25日は24日日没から始まったという解釈や、宿屋の馬小屋で夜生まれたことによるとかですが、復活はたしかに発見は日曜早朝ながら、てことはそれより前にイエス様は墓をずらかっていた理屈にはなりますね。
正教会は今頃もう始まってますね。(せっかくだからニコライ堂)
画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外

Mizota Michael Satoshi 本当は復活『徹夜祭』でしょうが、早く切り上げるということであって、ヨハネ福音書の「まだ暗いうち」の記事もあるからまあいいかと、結局、8時半ころミサが終わり、「おめでとうございます」になるという。。。

文屋 善明 いえ、問題はいつイエスが復活なさったかと言うことではなく、それをいつ(弟子たちは)知ったかということです。知ったということが「復活」です。知らなかったら、それはなかったことだ。

吉田 櫻井 啓子 なるほど。では正教会のあの夜中騒ぎは?(笑)

Hajime Kawamukai ギリシアだと、これくらいだから、許してあげて・・・

https://www.youtube.com/watch?v=7SefoOTyK9s

Rocketwar "Rouketopolemos" marks…
YOUTUBE.COM

Mizota Michael Satoshi パウロはかなりあとだからなあ。女性たちは弟子じゃないし。昼くらいか。。。

昨日のFB 04/16 復活日

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お早うございます。主の平和。「ニーチェ・短歌」シリーズの締めくくり。読書『唐牛伝』。午後、約1時間昼寝(OTB)。復活節の断想の全体構想を考える。旧約聖書で復活論を考えるのは難しい。釣川堤防散策。夕食後、山崎豊子の「女の勲章」(前編)見て11時半に就寝。6時起床。体温:36.2、血圧(142:75、85)、体調・異常なし、チュン、チュン

24 辻本 昌弘さん、北村 良輔さん、他22人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪イースターの礼拝が豊かに祝されますようにと祈ります。
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m
パソコンの調子が悪くて……(;O;)の朝ですが…。

東山 富昭 こんばんは🌇。今日は、イースター礼拝で、召天者の記念式がありました。今週も、よろしく、お願いします。

文屋 善明
4月16日 6:03 ·

お目覚めの花。「今日はイースターだ。今年も無事にイースターを迎えることができて、感謝。今日は孫息子との自動車で教会の礼拝に出かける。久しぶりの陪餐だ」「今朝は霧に包まれているので、朝日の写真が撮れない」。(花は黄色とピンクの取り合わせ。華やかだ)。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然、食べ物

34 佐藤 静代さん、真塩 ナナ子さん、他32人
コメント

若月 新一 おはようございます。

文屋 善明 お早うございます。

植村 光郎 イースターおめでとうございます。

文屋 善明 Happy Easter!

文屋 善明
4月16日 6:37 ·

2017 日々の聖句 4月16日(日)
人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。(詩90:10)
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(1コリント15:54~55)
私の黙想:
今日は復活日。今日の聖句は新約の方は確かに復活日を意識しているが、旧約の方はどうだろう。それはともかく、私個人にとっては80才の復活日を迎えることができたことが先ず感謝である。そして、その80年を振り返って労苦と災いは多かったと思うが、決して「瞬く間」ではなかった。その一瞬一瞬は有意義であったし、まぁ一部まずいところや失敗も結構あるが、誇りにできる。それは私の個人的な幸運というよりも、両親から始まって多くの人たちの支えによることも事実である。
アッ、ここか。復活日に関係するのは「わたしたちは飛び去ります」。要するに死ぬということなんだけど、それを「飛び去る」とはどういうことなんだろう。新改訳の詩78:39によれば「吹き去る」。要するに神の目から見たら、「吹けば飛ぶような人生」だったということであろう。こんなところで「神の目」は不要である。私の人生は決して「吹けば飛ぶような人生」ではなかった。イエスの人生は30年、もう少し厳密に考えてもせいぜい33年。私の人生はその2倍はある。内容の重さを比べることはできないが、まぁまぁ、というところでしょうか。私自身は復活するかどうか、それは分からないし、知ろうとも思わない。これで十分だ。

35 Kouko Egasiraさん、金井 由嗣さん、他33人
コメント

門叶 国泰 復活日、おめでとうございます。

文屋 善明 ハッピィ・イースター

橘 智 イースターおめでとうございます!

文屋 善明 Happy Easter!

小貫 ツマ 御復活日おめでとうございます。いつも明快な聖書の解き明かし、ありがとうございます。

増野 真美 イースター おめでとうございます🎵

小林 由紀子 イースターおめでとうございます。シナイ契約にとって変えられて動物の血ではない、御自身を生贄として捧げられた主の御血にとって変えられて永遠の贖いとなって下さった、死にも打ち勝つ十字架と御復活に与る私達の希望、主の愛と憐れみに感謝します。

小栗 龍男 イースター 神の祝福にあふれますように。

文屋 善明
4月16日 6:49 ·

今日の名言:@Nietzschebotjp
少しの悔いもない生き方を今のこの人生を、もう一度そっくりそのままくり返してもかまわないという生き方をしてみよ。(『超訳 ニーチェの言葉』041 )
<一言>そんなこと無理でしょう。環境も違うし、私一人だけの人生ではないのですから、いろいろの名人との関係の中で私は生きてきたのですから。そうせよというなら、それはもう「神の世界」だ。

13 小貫 ツマさん、川染 三郎さん、他11人

文屋 善明
4月16日 6:52 ·

春の朝遺体なき墓女泣く 善明

21 Nozomi Moriwakeさん、小貫 ツマさん、他19人

文屋 善明
4月16日 6:53 ·

復活日姿を見せし我なりと 善明

25 佐藤 静代さん、小貫 ツマさん、他23人

文屋 善明
4月16日 6:56 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第18章 神の恵みを思うこと(C)
修行者:
主なる神よ、あなたを愛する者たちにとっては、あなたの御心が自分のうちに成しとげられること以上に、大きな喜びはありません。その人は、他の人が人生で成功者となることを願い、自分自身が落ちぶれても気にしません。また、人生において最低の地位であっても、最高の地位にあるかのように生きます。人々から軽蔑され、拒否され、名もなく誉れもなく、忘れ去られても、なお人生における最高の成功者のように喜び、そうなることがその人の願いでさえもあるのです。その人にとっては、あなたのみ旨と栄光を愛することとが全てのことの上位にあります。またあなたを愛する者にとって、あなたがお与えくださったこと、また将来お与えになる一切の恵みが、最高の慰めであり、楽しみなのです。(2:18:16~18)

15 北村 良輔さん、小貫 ツマさん、他13人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月16日 7:02 ·

5年前の「今日の名言」です。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月16日 · 福岡県 宗像市 ·
今日の名言: 
難の無い人生は、無難な人生。難の有る人生は、有難い人生。(河津成紀さんのFBより) 
<一言>最近、FBを読んでいて、ハッと思わされる名言が多い。この言葉など、誰が言ったというより、言葉そのもの、特に日本語の美しさが見事な表現となっている。

6 竹本 耕造さん、望月 克仁さん、他4人

文屋 善明
4月16日 7:54 ·

我なりと語りかけしは春の朝 善明

24 佐藤 静代さん、小貫 ツマさん、他22人

文屋 善明
4月16日 7:56 ·

復活日パンとワインで祝うなり 善明

23 北村 良輔さん、小貫 ツマさん、他21人

文屋 善明
4月16日 8:01 ·

「読書記録:中島祐介『もしニーチェが短歌を詠んだら』」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

9 北村 良輔さん、藤井 衞さん、他7

文屋 善明
4月16日 8:26 ·

「昨日のFB 04/14」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

10 文屋 知明さん、川染 三郎さん、他8人

文屋 善明
4月16日 8:41 ·

<原本ヨハネ福音書研究付録3「復活物語」>をブログにアップしました。
これが福音書における復活物語の決定版です。私が最も好きな復活物語。

BLOG.GOO.NE.JP

19 芳賀 道子さん、川染 三郎さん、他17人
コメント

文屋 知明 ドラマチックです。

文屋 善明さんが写真2件を追加しました。
4月16日 14:21 ·

教会でのイースター礼拝、久しぶりに陪餐して、先ほど帰宅しました。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然

57 細谷 民子さん、眞野 玄範さん、他55人
コメント

文屋 善明 聖公会の信徒の(聖職も含む)の最低限の条件はイースターを含む年2回の陪餐です。これで今年の義務は果たしました。

Mizota Michael Satoshi 私は残念ですが失礼しおやすみしました。。

増野 真美 イースター おめでとうございます私もイースターエッグ もらってきました❗
昨日は300個もゆでたそうです❗全部配れたようです

藤木 冨士子 最近はアレルギーの人が増えてきたのでイースターエッグの数を減らしました。

文屋 善明さんが写真3件を追加しました。
4月16日 17:00 ·

子孫ひ孫4世代集うイースター 善明
孫の子を抱いて喜ぶイースター 善明(これは私の教友のことです)
画像に含まれている可能性があるもの:4人、座ってる(複数の人)、食事(複数の人)

46 佐藤 彰子さん、大脇 友弘さん、他44人

文屋 善明
4月16日 21:36 · 福岡県 宗像市 ·

イースターこの日でガラリ向き変わる 善明

16 東山 富昭さん、井形裕子さん、他14人

文屋 善明
4月16日 21:48 · 福岡県 宗像市 ·

向き変わる世界の潮目春深し 善明

17 Izumi Naraさん、楠 真理子さん、他15人

文屋 善明
4月16日 22:03 ·

春深し米中鮮の蚊帳の外 善明

24 楠 真理子さん、増野 真美さん、他22人
コメント

文屋 善明 網に外を蚊帳の外に 変更しました。

杉浦 紀明 鮮はどうして属国にならずに蚊帳の中で並ぶことができたのでしょうか?

文屋 善明 だだっ子を、脅したり、宥めたり。暴れたら一番被害を被るのは韓国と日本。米中は朝鮮半島の統一を狙っているのかもしれない。

昨日のFB 04/17

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お早うございます。主の平和。午前礼拝に行く。牧師の声が小さすぎて式文も聖歌も説教もほとんど聞き取れない。ここに聖公会の礼拝の生命線があるのに。神学校でもっと発声練習をしなければならないだろう。昼食は大勢であった。帰宅後、今時の若者の人生観・結婚観に大きな疑問。約1時間昼寝(OTB)。夕食後、山崎豊子の「女の勲章」(後編)見て11時半に就寝。6時起床。体温:36.3、血圧(148:77、91)、体調・血圧が高い、チュン、チュン

52 芳賀 道子さん、松沢 直樹さん、他50人
コメント

齋藤篤 牧師の発声練習、とても大事ですね!カトリックではそのような授業があるとも聞いています。

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

糸原 由美子 おおむね牧師がたはお声がいいですよね。歌mo

村田 多鶴子 おはようございます~♪
確かに上の血圧が高いです(昨日もそうでした)ね。どうぞ、お大事になさって下さいませ。
ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

糸原 由美子 歌もうまい、声に張りがあるし、わりあい高い。

藤木 冨士子 こんにちは。

石田 聖実 南山大学の掲示板で「司牧のための音声学」という科目を見ました。

文屋 善明
4月17日 6:22 ·

お目覚めの花。「さぁ、復活節だ。今週はどんな週になるのだろう。孫息子は友だちと指宿に旅行する」。(今朝の花は昨日の祭壇花(百合)の花心の部分の拡大、豪華だ!)
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然、屋外

42 豊田滋さん、Izumi Naraさん、他40人

文屋 善明
4月17日 6:48 ·

2017 日々の聖句 4月17日(月)
主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。(エレミヤ8:4)
イエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)
私の黙想:
倒れて、起き上がれない者は大勢いる。離れて、立ち帰らない者も沢山いる。従って、今日の聖句は現実を無視している。いや、無視しているのではない。5節では、その現実を述べている。「どうして、この民エルサレムは背く者となりいつまでも背いているのか。偽りに固執して立ち帰ることを拒む」。つまり、神を信じない世界はその通りだという。神がいない世界では、倒れた者を起き上がらせる者もいないし、離れた者を立ち帰らせる者もいない。この言葉の中に、神自身の叫びが聞こえる。そこに倒れている者、正道から外れている者がいるのに、誰も助けないのか。現実をよく見ていると、お互いがお互いに心を開いて話し合っていない(6節〜8節)。預言者はいないのか、祭司はいないのか。司祭はいないのか、執事はいないのか。それじゃ仕方がない、私はサマリア人を立ち上がらせて彼らを救おう。

21 Izumi Naraさん、松井 理直さん、他19人

文屋 善明
4月17日 6:54 ·

今日の名言:@lemoncyder
捧げ物を用意して、それを自慢するなら、おまえは、おまえの捧げ物といっしょに地獄墜ちだ。(ヴィトゲンシュタインのメモ)
<一言>この哲学者のことは名前以外何も知らない。しかし、厳しい言葉だ。「神への捧げ物を自慢する」。これの意味する事柄は広い。ただ教会への「献金」だけが問題じゃない。所有物、能力、学歴、その他全部を含む生き方全体に及ぶ。それらはすべて、戴いたものであり、同時に捧げ物だ。

18 Izumi Naraさん、Mizota Michael Satoshiさん、他16人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月17日 7:44 ·

5年前のローズンゲン
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月17日 · 福岡県 宗像市 ·
losungenj 2012.04.17(tue)
わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。(Eze11:19)
パウロの手紙:キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(2Cor5:17)
私の黙想:
バビロニア捕囚という民族存亡の危機を乗り越えて形成される新しいイスラエル共同体は捕囚以前とは全く異なったものでなければならない。
新しい共同体を形成するものは「一つの心」であり「新しい霊」である。当然そこでは「古い共同体」を維持・回復しようとする勢力と「新しい共同体」の形成・復活を目指す勢力との戦いがある。ここに復活信仰への萌しが見られる。
3.11以後、私たちは新しい共同体を目指して「古い日本を維持・回復しようとする勢力」とが激しく戦っている。

7 文屋 知明さん、川染 三郎さん、他5人

文屋 善明
4月17日 8:13 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第19章 穏やかな生活への4つの道
キリスト:
愛する者よ、穏やかで自由な生き方に至る4つの道を教えてあげよう。
まず第1に、常に君の意志よりも他人の意志を尊重しなさい。
第2に、常に多くを求めず、与えられているだけで満足しなさい。
第3に、いかなる状況においても高い地位を求めず、全ての人に仕えることを求めなさい。
第4に、常に神の御心の実現を願いなさい。
そうすれば君は穏やかで自由に生きることができる。(2:19:1~6)
修道者:
主なる神よ、お勧めの言葉を感謝いたします。これらは非常に簡潔ですが、その意味と内容は完璧で大いに役立ちます。これらの言葉を実践すれば、簡単には誘惑されないでしょう。少しでも私が不安になり困ったことになったときにも、この教えによってあるべき道から外れていることに気づかせてくれることでしょう。(2:19:7~10)

17 Izumi Naraさん、望月 克仁さん、他15人

文屋 善明
4月17日 8:28 ·

今日の「折々のことば」。村上龍という作家の作品、『限りなく透明に近いブルー』以来何も読んでいない。言葉遣いが非常に上手い作家だと思う。今日の言葉は「対話」について。私は大学院を卒業してすぐに日本クリスチャン・アカデミーに就職し11年間働いた。ここでの仕事は要するに「対話」ということで、運営委員長の松村克己先生は、古代プラトンの「アカデモスの森」をモデルにして説明しておられた。
そこでの前提は、異なった立場の人間でも「対話する」ことによって、相互理解が成立するということであった。が、現実はそんなに甘くはなかった。結局、ほとんど主な仕事は「ダイアログ」ではなく、「セミナー」の開催ということになってしまった。だから、今日の村上龍の言葉は身にしみて分かる。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1323052274438897&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

24 Izumi Naraさん、川染 三郎さん、他22人

文屋 善明
4月17日 16:36 ·

「昨日のFB 04/15」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

13 Izumi Naraさん、竹本 耕造さん、他11人

文屋 善明
4月17日 20:40 ·

イエスの復活を信じているという人の「復活」が、軽すぎるんですよ。復活ということは、先ず何よりも信じられないことなんですよ。だから、それを「信じる」という場合、矛盾を私が引き受けるということで、それ相応に重いことなんですよ。お前はバカだと言われても、それを引き受ける覚悟が必要なのです。

68 植村 光郎さん、中村 明さん、他66人
コメント

Mizota Michael Satoshi そうそう。軽いなら信じるのをやめればいいのにと。

文屋 善明 だから軽い牧師の説教を聞くと反吐が出そうになる。それなら信じられないという説教をすればいいのに。

Mizota Michael Satoshi w

齋藤篤 文屋先生、心から同意です!
昨日の説教は、「復活など、とうてい人間が受け入れるはずがない」という前提のもとに、「決してありえないこと」ととして、起きたミステリーなのだということを、力説してばかりでした。

Mizota Michael Satoshi 「あわわ!あわわ!」と言うばかりの位がちょうどいいのかも。。。まさに異言。。。

齋藤篤 そうそう!その域です!

Mizota Michael Satoshi その割には詳細に説明する牧師だらけ。。。「あわわわわ!」に無理やり追い込む説教がいいですね。。。

Mizota Michael Satoshi 軽い牧師の説教ほど救われますよ。ダラッと聞けばいいわけだから。重い牧師の詳細な説教を聞けば聞いたでわたしなんか「異議」だらけですからね、いちいち反論したくなりますからね。。。

文屋 善明 まぁ、イースターの日の説教は軽くてもいいですが。

Mizota Michael Satoshi w

Mizota Michael Satoshi 祝会の飯を重くするとか。。。

Mizota Michael Satoshi うーんうーんと、みんなが「うなりながら帰るような説教」とかはまずかろうと思うんですわね。。。。

福山 貴之 · 共通の友達6人
ドミノピザにしたらいいのでは?

福山 貴之 · 共通の友達6人
深いなあ

文屋 善明 その軽さの原因の一つは聖書の叙述にもあります。特に今年のマタイ福音書では復活したイエスが婦人たちの前に現れて「おはよう」と挨拶している。その部分を嬉しそうにくどくどとはなすと、それはテレビタレントと出会った人が、それを自慢たらしく話す、井戸端会議のようになる。

Mizota Michael Satoshi 「おはよう」の部分をギリシャ語で見てみたいですね。。。

山本 友美 文屋先生、イースターの写真、昨日これに掲載されていた八幡の写真、はばたく5月にいただいてもいいですか。とてもふんいきのある明るい写真です。よろしくお願いします。

文屋 善明 それは困ります。

中尾香鶴子 私は毎年毎年イエス様が復活されたことに驚いてます。

吉田 櫻井 啓子 イエスの復活に限らず、使徒信条の「体の復活、永遠の命を信じます」を初めて出た礼拝で聞いた時のドン引き感と衝撃は忘れられません。

三宅 善信 >文屋先生: おっしゃるように、「矛盾を私が引き受けるという覚悟」それが信仰心だと思います。そして、そういう私の覚悟する気持ちそのものも、実は「神様がすべて用意してくださった」と信じることも信仰心となると、宗教とは実に「入れ子構造」になっているものだと思います。

文屋 善明 その通りですね。

三宅 善信 >文屋先生: ありがとうございます。私は、国際会議に出席するため、さきほどアムステルダムに着きました。大阪の真冬並みです。
 先生も今後ともご尊身をご自愛ください(ご自愛されなかった方がイエス様ということになるのですが、先生は生身の人間ですから…)ませ。 三宅拝

文屋 善明 旅の安全をお祈りします。

昨日のFB 04/18

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お早うございます。主の平和。昨日は体調が思わしくなく、朝食後、昼まで寝た(OTB)。昼食後も回復せず、午後3時頃までまた寝た。仕事はヨハネ14章の原本と教会的編集者との言葉の色分け。こうして読むと面白い。夕食後、橋爪功の「ヤメ判事」、報ステを見て10時半に就寝。6時起床。体温:36.2、血圧(128:70、74)、体調・3回測ったが血圧が低すぎる、チュン、チュン

32 植村 光郎さん、辻本 昌弘さん、他30人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
高かったり低かったりの血圧が気になりますね。どうぞ、お大事になさって下さいませ。
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

文屋 善明 そういう場合には、私は血圧計が悪いか、測り方が悪かったのだと思うことにしています。何しろ不器用ですから。

村田 多鶴子 ちょっとしたことで上下する血圧のことではありますが、季節の変わり目ですので、体調には充分お気をつけくださいませ。

萩野 秀子 おはようございます。癒されますようにお祈りします。

金井 由嗣 お大事になさいませ。

藤木 冨士子 こんにちは。

文屋 善明
4月18日 6:13 ·

お目覚めの花。「今朝は久しぶりに我が家のベランダより」「小指ほどの大きさの花」(花の名前は何だけな?)
画像に含まれている可能性があるもの:1人、植物、花、自然、屋外

29 久保和男さん、松井 理直さん、他27人
コメント

杉浦 紀明 おはようございます。お呼びですか?(笑) ぺラルゴニウムです。

文屋 善明 そうです、そうです。ベラニュームでした。蚊取り草です。

文屋 善明
4月18日 6:42 · 福岡県 宗像市 ·

2017 日々の聖句 4月18日(火)
順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せ造られた、と。(コヘレト7:14)
パウロの手紙:いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:12~13)
私の黙想:
今日の聖句は面白い。順境には何も考えずにただ楽しめ。逆境には考えよ。何しろ楽しめないのだから考えるしかない。「良いときもあるさ、悪いときがあってもしょうがない。何しろ創造者が人間には未来を予測する能力をお与えにならなかったのだから。そのことを悟るために、順境と逆境とがあるんだ」と。口語訳、フランシスコ会訳、新改訳、一寸づつ違うが、そんなことは小さいことだ。この文の前後とは少々異なっている。要するに、神の意図なんか人間に分かるもんじゃない、という人間の知恵と神の知恵との根比べのようなものである。その中で「将来のこと」となると人間にはお手上げだ。文語訳がもう一つ面白い。「神はこの二つをあひ交錯(まじへ)て降したもう」。良いことと悪いこととが入り混ざって降る。「悪い状況においてもその中に良いこともあるさ、その逆に、良い状況においても悪いこともあるよ、だから気を付けなさい」。これが持っても現実に近いのではないか。

24 北村 良輔さん、大野 泰男さん、他22人

文屋 善明
4月18日 6:50 ·

今日の名言:@simoneweil_bot
にせものの神は、苦しみを暴力に変える。真の神は、暴力を苦しみに変える。(シモーヌ・ヴェイユ)
<一言>苦しめられたときに暴れ出す奴の神と、暴力を受けたときにそれを神からの訓練として受けとめる者の神。どちらの神がホンモノかという議論。

22 久保和男さん、Daniel Corlさん、他20人

文屋 善明
4月18日 6:56 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第20章 隣人への好奇心について
キリスト:
愛する者よ、隣人を好奇心をもって見てはいけません。また隣人と比較して悩むことはありません。なぜ君は隣人のことをそんなに気にするのですか。ただ君がどう生きているのかということを隣人に示せばそれで十分なのです。隣人は隣人、君は君です。ただ君は私に従いなさい。
いいですか、私は全ての人間を知り尽くし、すべての出来事を見ています。そして、その出来事に、それぞれの個人がどう関わり、何をしようとしているのか、彼らの心中をも見通しています。だから、全てのことを私に任せ、君自身は平静しておればそれでよろしい。騒ぎたい人には騒がしておきなさい。各個人の言葉と行為はその人自身が負わなければなりません。誰も私の目を誤魔化すことはできないからです。
多くの人たちは社会的に地位の高い人の友だちになろうと、あるいは一人でも多くの人を友だちにしようと苦労しています。友人が多いからといって何か良いことでもあるのでしょうか。そういう努力が心の闇の原因となるのです。そんなことに気を使うぐらいなら、ただ、私が再び訪れる日に備えて、心を開いて待っていなさい。私は喜んで君に語りかけ、私の奥義を教えます。だから、常に目を覚まして祈り、全てのことで謙遜になりなさい。(2:20:1~12)

21 久保和男さん、西堀 俊和さん、他19人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月18日 7:07 ·

5年前の「朝の挨拶」、マタイ27:52~53のこと忘れていた。もう一度、考えないと、ある意味マタイの復活論の鍵がここにあるような気がする。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月18日 · 福岡県 宗像市 ·
お早ようございます。主の平和。昨日は海の中道海浜公園内を約2時間ブラブラ散歩。写真を約70枚撮った。体力がかなり戻ってきた。焼酎のお湯割りを少々飲んで10時半に就寝、今朝は6時半起床。NTにおけるイエス以外の復活物語が頭の中をグルグル巡る。特に面白いのはマタイ27:52,53。体調快調。チュン、チュン

11 久保和男さん、Izumi Naraさん、他9人

文屋 善明
4月18日 8:42 ·

「昨日のFB 04/16 復活日」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

14 Luke Etsuzou Nomahさん、久保和男さん、他12人

文屋 善明さんが長谷川 宏さんの投稿をシェアしました。
4月18日 10:28 ·

この歴史を忘れてはならない。

長谷川 宏
4月18日 0:31 ·
「『美しい国』我が日本の軍隊が、いざとなれば私たち日本人を守ってくれる」と信じている、おめでたい「平和ボケ」の「お花畑」の皆さんにぜひ読んでいただきたい日本の歴史の真実...!(以下一部引用)
 ルソン島で生き残った人の記録をいろいろ読むと、最後に何万人か捕虜になるんですが、捕虜になった兵士はびっくりするんです、アメリカ軍に。なんでかというと、アメリカ軍は合理的だと。捕虜になると、おいしいご飯を食べさせてくれて、傷を治してくれるでしょ。
 敵兵に「何でそんなことするんですか」って聞いたら、「いや、病気だと連れて行くの大変じゃないか」って。そりゃそうだよね。「日本軍はそうしないの」って訊かれる。日本はどうしたかっていうと、病気になると殺しちゃう、自軍の兵士ですらですよ。「え、日本は自分のところの兵士も殺しちゃうの」、「はい」って言ったら、「おかしくない?」って言われたって。
いとう:「マッドマックス怒りのデスロード」の世界だよね。
高橋:これは昭和20年の沖縄でも同じことが起こった。満州でも同じことが起こっているんですが、問題は、もう負け戦とわかっているんだから、リアルな観点からいうと、降伏しないといけない。だって弾薬なし食料なしの60万人が、戦車の前に銃だけ持って突進するんですよ。
 これは人倫において間違っているんじゃなくて、戦争をする、という点において間違っている。そもそも戦争が成り立っていない。さらに問題は、この責任を取った人が誰もいないことです。
(引用2)
 8月9日にソ連軍が、日露不可侵条約を破って侵入してきますよね。その時に何が起こったかというと、当然、最前線では8月9日以前から、ソ連軍の移動の様子がわかっていた。これはソ連軍が侵入してくると思って参謀本部に連絡したら、「いや日露不可侵条約があるから来ないよ」と返事があったと言われています。まずそこで間違っている。
 で、ソ連軍の侵入が始まった後、慌てて関東軍は逃げた。逃げたというか、朝鮮の方に司令部を移すということで全員逃げるんですけど、当時満州には満蒙開拓団の人が20万人くらいいたんですが、彼らには一切情報を出さなかった。どうしてかっていうと、情報を出したら、関東軍がソ連軍の侵入に気づいたことがわかっちゃうから。ソ連軍に知られるとまずいので民間の日本人に教えなかった。
 それでどうなったかというと、民間人がはっと気が付いたら関東軍がもういない。しかも、関東軍は列車で逃げて行くんですが、列車が渡り終わると鉄橋を爆破していった。
いとう:もう逃げられなくした。
高橋:ソ連軍の侵入を防ぐためなんだけど、その結果、日本人も橋が渡れなくなった。これに現地の医者が反対すると、「しょうがない、作戦だ」と言ったそうです。これで亡くなった満州開拓団が8万人います。これは国民を見捨てたって話ですね。
 そのあと朝鮮から日本に船が出るんです、脱出のための船。これに乗った人の95%が軍人と軍属と家族で、民間人は5%。それが、日本のスタンダードなんです。だから、僕は今回、安保法制で集団的自衛権が出てきて、首相が、「国民を守る」って言うけど、嘘やん、守ったことないやん、あんたらって思いました。それは歴史を調べるとわかる。もしそう言うのだったら、過去の責任を誰かにとらせてからでしょう。
いとう:そうね。でもこの国は一度も責任を取ってこなかった。

文屋 善明さんがリンクをシェアしました。
4月18日 11:18 ·


安倍総理・昭恵夫人らを刑事告発へ!市民団体が総理を訴える例は初!木村真豊中市議、古賀茂明氏、宇都宮健児氏らが告発・賛同!
YURUNETO.COM
文屋 善明
4月18日 11:36 ·

今日の「折々のことば」は面白い。教育の現場では厳密さよりも「ざっくり感」が大切だということでしょう。そういえば、一時この「ざっくり」という言葉がはやったが最近聞かれなくなった。いい言葉なのに。学者には厳密性が求められるでしょうが、生身の人間が生きていくためには「ざっくりした知識」が重要です。長い論理展開を省略して、ざっくり言うと、神学者と牧師との違いはここにある。牧師のプロフェッションを私は「ざっくり」の専門家だと思っている。とくに神学的知識や聖書学的知識については教会という現場で、この「ざっくり」がなければやっていけない。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1324236697653788&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

41 川染 三郎さん、佐々木 弘幸さん、他39人
コメント

文屋 善明 言葉を換えると、「いい加減」ということの「加減のプロ」。

文屋 善明 毎週の説教なんて、いつも「見切り発車」、どこで「見切る」かがプロの腕の見せ所。学者にはそういうことはできないでしょう。

三浦 三千春 説教準備のために調べれば調べるほど、
またいろいろと思い合わせば思い合わすほど、何を何処まで語るか(語っていいか)という悩みの泥沼にはまっていく感がすることのある身からすれば、
非常に有り難いお勧めと励ましの言葉です。

Mizota Michael Satoshi ガンガンに外してみるってのもかえってしんどいものです。絶対に的に当てない。

文屋 善明 それには的がはっきり分かっていないとできないことですよね。

Mizota Michael Satoshi そう完璧に的を外す。絶対に当てず、かといって遠すぎず『かすらせる』。

文屋 善明 その手は私のような「好い加減」な相手には通じませんね。何しろ周辺がどこまで広がっているのか、相手に見せませんからね。

Mizota Michael Satoshi そりゃあ策士だなあw

松下 光雄 い~加減 というより 良い加減 笑

文屋 善明 この場合「いいかげん」と入力しますと、面白いことに「好い加減」と変換されます。「良い加減」ではないところが面白いですね。「加減」は「良し悪し」の基準ではなく、判断する人の「好み」の問題なんです。

Mizota Michael Satoshi 風呂の湯加減ですね。

Mizota Michael Satoshi 熱湯がいいって人もいましたが。。。

文屋 善明 いろいろな好みがありますからね。的を狙う人もおれば、的を外すことを狙う人もいます。それら全部の人をまとめて面倒を見る、これがジェネラリストとしての牧師です。

三浦 三千春 牧師さんも大変だ(^o^)

Mizota Michael Satoshi そういえば熱湯コマーシャルと言う番組企画がありました。。。

文屋 善明 私が現役なら、溝田さんに文句なしに、私の教会に来い、といったでしょうね。陪餐は年に4回で良いからと言ったでしょうね。復活日と降誕日と受洗記念日と堅信記念日。それなら、日本のどこに住んでいてもOKでしょう。

Mizota Michael Satoshi それは感謝します。受け入れていただけるところは探しますゆえ。。。

Mizota Michael Satoshi >>復活日と降誕日と受洗記念日と堅信記念日

私の場合クリスマスですから、年3回と言うことになりそうw

文屋 善明 1年の内、4回以外の主日は、他宗教、他宗派、東でも、西でも、ペンテコステでも、どこへ行くのも完全に自由です。年に4回だけ母教会で陪餐すること。これだけです。(「ぼきょうかい」と入力したら「墓教会」が第1に出て来ました。ははは)

Mizota Michael Satoshi むしろ「墓の教会」が正しいでしょうね。いやプロテスタント流の意味で「母教会ってのは出身教会」でしょうが、それならペンテコステになりますから。。。聖公会あたりでは「母教会」は「聖公会全体」ですよね。まあでもほかの教区に行きます。行くし、潜り込む方法を考えます。

文屋 善明 どっちみち、ローカルチャーチは、トランジットですから。

Mizota Michael Satoshi 潜り込むなら神学校に。こんなのが役に立つかはあまり考えず、役に立たなくても存在し続けることで神の証明たり得るというのもあり得るので。。。

文屋 善明 私が心配するのはただ一点、もっと失望するだろうということ。

Mizota Michael Satoshi どうなんでしょうね。知的に失望するなんてことはないでしょう。語学の復習はできるし。むしろ信仰においては私は褒められないので、皆さんの方が素晴らしいでしょうね。。。というか「ボヤッ」とできるのも一種の芸当ですからね。。。

文屋 善明 もうひとつ、神学校には教籍は置けません。
31 Luke Etsuzou Nomahさん、山上 博信さん、他29

文屋 善明さんが写真4件を追加しました。
4月18日 16:53 ·

今日の散歩道にて
画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、鳥、空、靴、屋外、自然

46 清水 行雄さん、久保和男さん、他44人

文屋 善明さんが岩上 安身さんの投稿をシェアしました。
4月18日 20:43 ·

これが「現実」なんでしょうね。その責任はすべて自民党にある。

岩上 安身
4月17日 20:40 ·
Twitter
·
Retweeted IWJウェブ速報 (@IWJ_sokuhou):

米国の同盟国をやめた瞬間に、CIAのマルウェアが日本中のインフラを崩壊させる!? その真偽は!? ――映画『スノーデン』のオリバー・ストーン監督に岩上安身が直撃質問!会見全文起こし! https://t.co/lzv5YY4Sld @iwakamiyasumi


米国の同盟国をやめた瞬間に、CIAのマルウェアが日本中のインフラを崩壊させる!? その真偽は!?…
BIT.LY/2KK5SAS

7 川染 三郎さん、望月 克仁さん、他5人

文屋 善明
4月18日 21:42 ·

復活祭すぎたらすぐに衣替え 善明

24 川染 三郎さん、増野 真美さん、他22人
コメント

呉 光現 もう一回冷えるかと

文屋 善明 脅かさないでください。

文屋 善明
4月18日 21:47 ·

衣替え紫から白色に 善明

26 小栗 龍男さん、福永 澄さん、他24人
コメント

Izumi Nara 帽子も替えて夏向きに イースター迄は冬用のものイースター過ぎたら夏用と習いました。

文屋 善明 イースターに新しい帽子のファッションが発表されるとのこと。今年は遅いので心配していました。

徳善 義和 紫が 白に変わって イースター

文屋 善明 いいですね。脱帽です。

文屋 善明
4月18日 21:51 ·

白色は自由の徴人次第 善明

15 川染 三郎さん、永島 大資さん、他13人

断想:復活節第2主日の旧約聖書

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断想:復活節第2主日の旧約聖書 (2017.4.23)

死と再生の物語  創世記8:6-16、9:8-16

<テキスト>
創世記8:6~16
6 四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、
7 烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。
8 ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。
9 しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。
10 更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。
11 鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。
12 彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。
13 ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して眺めた。見よ、地の面は乾いていた。
14 第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。
15 神はノアに仰せになった。
16 「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。

9:8~16
8 神はノアと彼の息子たちに言われた。
9 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。
10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
11 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」
<以上>

1. 死と再生の物語
復活物語は、単なる古代神話ではなく、荒唐無稽な人間の願望を語っているのでもない。それはまさに人間の根本的な在り方を語る「死と再生」の物語である。人間が人間であるという在り方には「死と再生」という構造が含まれている。人間は常に死につつ、また同時に再生しつつ存在している。つまり、「死と再生」とを繰り返すことによって、人間になっていく。現在、私が人間として、ここに存在しているということは、昨日の私は死に、今日の私として甦っているのである。そこが人間が他の動物と異なる「人間の秘密」である。
ところがまた、ここが不思議なことで、人間はときには「死に損ね」たり、またそれが故に「再生し損ねる」ことがある。というよりも、むしろそのことの方が多い。そうすると成長が止まってしまう。恐ろしいことをいうと、「人間になり損ねる」。人間が子どもから大人へと成長するということは、実はその秘密に属することである。

2. 連続と非連続
私たちはよく「一皮むける」という言い方をするが、「サナギから蝶へ」の脱皮はドラマティックである。同じ脱皮といっても爬虫類の脱皮とは異なり、「サナギから蝶へ」の場合は、形そのものが劇的に変化し、全く別な生き物のようになる。まさにサナギは死に、蝶が生まれると言っても言い過ぎではない。ここに連続と非連続とのドラマがある。「死と再生」の物語において、絶対的に欠かすことができない要素はこの連続と非連続との関係である。連続という面では、生まれて死ぬまで同じ人間であるという意味で分かりやすいが、非連続ということについては説明が難しい。特に、親子のようにほとんど毎日顔を合わせていると、連続面だけが見えてきて、非連続の面は見えにくい。特に、最近の親たちを見ていると、人間は自然にだんだんと成長するものと思っているようである。スムーズに幼稚園に入園し、スムーズに小学校に入学し、スムーズに中学へ進学し、というように人間の成長に最も重要な成長点(変化点)をスムーズにすることに必死になっている。しかし、人間の本当の成長というものは、非連続という面において起こる。

3. 旧約聖書における死と再生の物語
旧約聖書において「死と再生」の物語といえば、それはノアの洪水物語である。本日の旧約聖書ではそこが取り上げられている。
ノアの洪水物語を読み直して、重要な点に気づいた。というよりも、気付かされた。それは人間の歴史というものは、自然的に膨張・増大して発展するもの(連続的発展)ではないということである。人口が自然増加し、人間の力が増大していくと、悪がはびこるという動かし難い事実である。つまり連続的発展においては、同時にそれ自体を破壊する要素も拡大する。ノアの洪水物語はそこから始まる。いな、そこからしか始まらない。この状況を見て、神は「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(6:6)。ここからこの物語は始まる。心を痛められた神の決断は恐ろしい。
「わたしは人間を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう」(7)。創造者による世界の滅亡の宣言である。こういう発想は日本人の世界観や人生観、あるいは宗教観からは出てこない。人間を創造したことを後悔することがあっても、一旦できてしまった世界や人間を完全に「ぬぐい去る」という発想は出てこない。なんとか折り合いを付けて巧くやっていく。そこには創造者と被創造者との間の連続性が前提されている。神が人間になり、また人間が神になるという連続性である。ところが聖書においては神と人間とは絶対につながっていない。どこまでも神は神であり、人間は人間である。
ここで一寸理屈っぽいことを考える。創造者と被造者とが完全に断絶しているのならば、創造者はその作品が失敗であると思えば、完全に破壊して全く新しく作り直せば済むことである。預言者エレミヤは神は陶芸作家のようなもので、自分が造った作品が気に入らなければ、「自分の手で壊し、それを作り直す」(エレミヤ18:4)という。そのプロセスには創造と破壊とが繰り返されるだけで、そこには作り直すという意味の再生のプロセスはない。つまりノアとその家族が入り込む余地はない。しかしノアの物語では破壊されるべき世界にノアとその家族とが登場し、このノアとその家族とに対する神の正義を軸として、同じ世界が再生される。この連続と非連続とを含む再生というプロセスにおいて、創造者である神の被造者に対する「愛」が決定的に語られ、ノアの物語が「死と再生」の約束物語となる。

4. 烏と鳩
ノアの物語において「死と再生」とを告げ知らすものとして烏と鳩とが登場する。今日の聖句として選ばれているのはここからである。ノアが最初に箱船の「外の世界」を調査するために箱舟から放ったのは烏であった。ところが、「烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした」(8:7)。要するに、烏は箱船という安全地帯に身を寄せているだけで、「外の世界」つまり現実をしっかりと見ることができなかった。現実から目をそらして、夢の中で生きる。はっきり言うと、神が破壊した世界、「死の世界」、復活と対比して言うならば、「十字架」をはっきりと見ることができない。要するに烏は現実から切り離された「幻想の世界」、「バーチャルな世界」の中でしか生きることができない。そこには死もなければ、再生もない。十字架もなければ、復活もない。
烏に対して、鳩は箱船から飛び立ち、外の世界を飛び回り、しっかりと偵察し、「止まるところがない」ことを確認して、箱船に戻ってくる。この鳩の役割は、現実をしっかりと見て回ること、この世界の滅亡を確かめること、確かに滅んだということを報告することにある。再生は確実な死の後に来る。ノアはもう一度鳩を放つ。二度目の探索により、鳩は生命の兆しを発見する。世界は今や生命を回復しつつある。これを発見した鳩は、次ぎにこれを世界に告知する者になる。

5. 復活の告知
イエスの復活物語が単に一人の人間イエスの「死と蘇り」の物語であるならば、それは古代神話であり、伝説にすぎず、教会の物語とはならなかったであろう。むしろイエスの復活物語が弟子たち初代教会の信徒たち自身の「死と再生」の物語であるからこそ教会の物語となったのである。
私たちはイエスの十字架と復活を告知するものである。どの様にしたらイエスの十字架と復活を告知することができるのだろうか。難しいと言えばこれほど難しいことはない。しかし、またやさしいと言えばこれほどやさしいことはない。問題は私たち自身がイエスにおいて私自身の「死と復活」を経験しているのか、ということである。私自身が生まれながらの古い私に死に、イエス・キリストにおいて「新しい私」として生まれ変わったのか。パウロは言う。「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送る」(エフェソ4:23,24)。これが実現しているのか、どうか。ここが問題である。

昨日のFB 04/19

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お早うございます。主の平和。二人で整骨院へ。イミタチオの整理。昼食後、昼寝1時間(OTB)。田川のヨハネ福音書14章の部分を読み返す。復活節の説教の構想を作り上げる。昇天日をどうするか。夕食後、「CRISIS」、報ステを見て10時半に就寝。6時起床。体温:36.2、血圧(146:83、86)、体調・まぁまぁ、チュン、チュン

24 川染 三郎さん、大野 泰男さん、他22人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
高目の血圧は「無理をしないで!」とのアドバイスと心得られ、体調にお気をつけ下さいませ。
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

東山 富昭 おはよう😃ございます。耳鳴りが気になりますが、今日も、主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。よろしく、お願いします。

文屋 善明さん ( 福岡県 宗像市)。
4月19日 6:27 ·

お目覚めの花。「散歩の途中で見かけた花(?)思わず触りたくなる誘惑に襲われました。写真だけで我慢」。(白い綿帽子)。
画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

36 竹本 耕造さん、佐藤 静代さん、他34人
コメント

望月 克仁 ちょっと触っても、飛んでしまうんですよネーお早うございます。

嶋津 雅彦 見てると、フワフワと動き出しそうですね!

文屋 善明
4月19日 6:50 ·

2017 日々の聖句 4月19日(水)
お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。(エレミヤ23:35)
あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。(コロサイ3:1)
私の黙想:
今日の聖句、ただこれだけを取り出しただけでは何のことか分からない。文脈を読むと非常に面白い。要するに「主の託宣(言葉)」の取り合いだ。いろいろな立場の人間が、自分勝手に、それぞれの思いつきを「主の託宣だ」という。誰かが「これが主の言葉だ」というときには先ず、それを信じてはならない。要するに今日の聖句は、偽預言者たちの言葉に対して、その言葉の出所を確かめろ、という意味である。本当にそれは主から出て来た答えなのか、主の言葉なのか。これは難しい。その人が「主の言葉だ」と言ったら、それを信じていいのだろうか。そんなはずはない。それでは「主の言葉」とは何か。ここで一種の言葉遊びがある。主の言葉とは「マッサ」である。その言葉は同時に「重荷」を意味する。だからややこしい。「主のマッサ(託宣)とは何か」「お前たちこそが主のマッサ(重荷)だ」。さて、これをどう解釈するか。問いは哲学的な問いとなる。「だから主はお前たち(マッサ)を捨てる」という。預言者エレミヤは主がイスラエルを捨てた」というメッセージを語る。さぁ、これにどう反応するか。今日の黙想は問いかけで終わる。

22 播 稔さん、金井 由嗣さん、他20人

文屋 善明
4月19日 6:56 ·

今日の名言:@netami_meigen
嫉妬は、人類と同じくらい古いものだ。アダムが一度遅く帰ったとき、イブは彼の肋骨を数え始めた。(ベルギーのことわざ)
<一言>面白い冗句だ。読み方によっては、アダムは肋骨の数だけ浮気ができることになるし、その度に肋骨が1本減ることになる。大丈夫か。

27 堀 俊子さん、播 稔さん、他25人
コメント

大脇 友弘 あれ?
アダムとイブって、男と女が一人づつしかいなかった時代じゃないと?
どこで、何と浮気しとったちゃろか???

文屋 善明 おお、鋭いご指摘、参りました。神様はアダムの味方、アダムの必要に応じてアダムの肋骨を取り出して第二のイヴを作ったのでしょうね。しょうがないなぁ。

大脇 友弘 そういうことでしたか!不思議と納得!

高橋 徹 DNAが同じだ!

播 稔 面白い。ヨク考えるなー

文屋 善明
4月19日 7:06 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第21章 心の進歩のために
キリスト:
愛する者よ、私はかつて言いました。「私は平安をあなたがたに残す。私の平安をあなたがたに与える。私の与えるのは、世が与えるようなものではない」と。誰でも平安を願っていますが、真の平安をもたらすことについては心を用いていないようです。私が与える平安は心の謙遜・柔和な人にもたらされます。私の声を聞き、私の声に従えば、君は大きな平安が与えられます。君は語ること、行うことにおいて、君自身をよく注意し、私だけを喜ばせ、私以外の何ものも願わないという、だたその一点に注意しなさい。
他人の行動を軽率に批判せず、あなた自身の任務以外のことには関わり合わないようにしなさい。そうすれば、あなたはほとんどの煩わしさから解放されます。
とはいえ、生きている以上は身体的なことなどで完全に煩わしさから逃れることはあり得ません。それは永遠の安息に属することだからです。しかし、僅かに煩わしさが減ったからといって、全てのことがうまくいくという保証ではありません。多少の敬虔や喜びを感じたからといって、それを過大に評価して、それだけ神から特別な愛を受けていると思ってはいけません。人間の進歩には完成ということはないのです。(2:21:1~10)

21 播 稔さん、大野 泰男さん、他19人

文屋 善明さんが写真2件を追加しました。
4月19日 9:49 · 福岡県 宗像市 ·

第1部は「平成の楼閣」。楼閣とは、重層の建物で、政治的権威を示す建物をさす場合もあります。平成の政治改革を積み上げて「1強」が完成した意味合いを込めました。
「1強」シリーズ第2部、パノプティコンが始まりました。(4/18)
<解説>パノプティコンとは
パノプティコン。もともとは監視者がいてもいなくても囚人が監視を意識する監獄施設のこと。転じて20世紀にフランスの哲学者フーコーが、権力による社会の管理・統制システムの概念として用いた。独房で権力のまなざしを常に意識する。パノプティコンの監獄に閉じ込められた囚人のありようは、権力に分断され、従属し忖度する「1強」の政治状況で起きている現象に似ている。(図参照)
自民党、野党、官僚、メディア。それぞれが「1強」のもとで、「パノプティコンの住人」のように支配されていないだろうか。連載第2部で探っていく。
パノプティコンについて、フーコーの専門家である石田英敬・東大教授(メディア論)は「権力が支配される側を『自己規制させる技術』のことだ」と述べ、現代の権力による統治手法にも通じると指摘します。そのうえで「権力がどんな手法で、支配しようとしているのか。それを認識することが、パノプティコンの構造から解放される第一歩だ」と言います。
・・・・・・・・・・・・・・・
シリーズ第2部で、最初に取り上げられたのが、「森友学園問題」である。
3月2日。電話口の安倍晋三首相は少し、いら立っているようだった。「西田さんは大阪問題でやりたいだろうけど、それを頼んだのが安倍だと言われたら、なんにもならないからさ」。
電話を受けたのは、自民党の西田昌司参院議員。4日後の参院予算委員会で学校法人「森友学園」(大阪市)の国有地売却問題について質問に立つことが決まった矢先。首相から質問内容に注文がついたのは初めてで、「総理が直接電話してくるのは異常やねん」と西田氏は明かす。趣旨は、土地が約8億円値引きされたことの「正当性」を、質疑を通してうまく説明してほしいというものだった。
西田氏は京都府選出。日本維新の会に一貫して批判的な立場で、「森友問題は大阪府の小学校設置認可をめぐる規制緩和に端を発した大阪問題」として質問するつもりだった。首相は電話で維新に触れなかったが、西田氏は直感した。「憲法改正を含め、政権に協力的な維新をかばう気持ちが首相にはあるんやな」と。
質問当日。西田氏は首相の言う通り、値引きの正当性を主張する官僚答弁を引き出し、「疑惑だ、という森友事件の報道は、フェイクニュースだ」と訴えた。
与党議員が政権に都合のよい質問をするのは珍しくない。だが、西田氏は「国会の爆弾男」の異名をとり、身内といえども歯にきぬ着せぬ批判を浴びせる言動でならしてきた。そんな西田氏でさえも、この日は大阪府に関する質問を封印せざるを得なかった。
10日後の3月16日。学園の籠池泰典氏の100万円寄付発言が飛び出すと、竹下亘・自民党国会対策委員長は「首相への侮辱だ」と言って証人喚問に踏み切った。問題が首相を直撃しても、与党はひたすら「1強」に付き従っている。
<政権の敵、容赦なく攻撃>
「そもそも寄付はしておりませんが、寄付していたとしても、感謝されこそすれ、犯罪ではありません」
17日の衆院決算行政監視委員会で、安倍晋三首相は森友学園に対する妻・昭恵氏の寄付の有無に関して、こう答えた。
最近の首相には余裕がうかがえる。12日の衆院厚生労働委では、民進の柚木道義氏は森友問題でNHKの世論調査を取り上げた。
「政府の説明に納得できないが8割。昭恵夫人に公の場で説明頂けるよう話して頂けないか」。
首相は笑みを浮かべながら、答弁した。「その調査では内閣支持率は53%。自民、民進の支持率はご承知の通りでございます」
自民支持率は38%、民進は7%。首相は「何回も説明してきた通り」と、昭恵氏の国会招致を拒否した。
政権の座に返り咲いてからの4年余。国会質疑で質問を受ける首相が、民進議員をやり込めようとする場面が目立つ。民進を攻めることで自らへの批判をかわす。それが得意のパターンであり、現実に森友問題が首相を直撃しても内閣支持率や自民支持率への影響は限定的だ――。首相の答弁は、何があろうと「安倍1強」は揺るぎないと宣言するかのようだった。
政権の危機管理を担ってきた菅義偉官房長官は、毎日2回の定例会見で「その指摘は全く当たらない」「そのような懸念は当たらない」などと全面否定の言葉を繰り返すことで、批判をはねつけてきた。
映画監督の想田和弘氏はそんな菅氏の応答に目を付け、ツイッター上で「#菅官房長官語で答える」というハッシュタグを作った。#記号付きの投稿が検索できるようにする文字列で、「菅語」で応答した実験では、寄せられた追及を次々とかわせたという。
想田氏はフェイスブックでこう分析している。「木で鼻を括ったような定型句を繰り出す。するとコミュニケーションが遮断され、議論にならない。彼らが無敵に見えるのは、議論の土俵に乗らないからだ」
その菅氏が森友問題で動いた。学園の籠池泰典氏に対する3月の証人喚問当日。国有地借り受けに関する相談で昭恵氏に留守電を残し、夫人付の政府職員からファクスがきたとする籠池氏の証言に対し、菅氏は会見冒頭でファクスのコピーを記者団に配布した。
後に行政文書ではないと閣議決定された「私文書」を公の会見で出し、やがて籠池氏告発にも言及。敵と見定めた相手は、容赦なく攻めて追い詰める。そんな姿勢が見て取れる。
<跳ね返り恐れ批判及び腰>
「1強」による攻撃的な姿勢を前に、野党や自民党内の非主流派は、孤独な戦いを強いられている。「運動会の宣誓は、間違いないものでしょうか。失礼ながら、ガセだとか言われると困るので」。
2月末、森友問題を取材するノンフィクション作家の菅野完氏のもとに、ツイッターのダイレクトメッセージが届いた。相手は一面識もない民進党の大西健介衆院議員。学園の園児が「安倍首相頑張れ!」と声を上げる映像を発掘した菅野氏に対し、信頼性を問う内容だった。
「政権にスキャンダリズムで対峙するなら、泥まみれになる必要がある。ツイッターでの問い合わせなんて覚悟を感じられない。なぜ、こんなに中途半端なのか」と菅野氏はいう。
民進党には2006年の「偽メール事件」の後遺症が残る。当時民主党の若手議員が元週刊誌記者から提供を受けたメールを元に小泉政権を追及。のちに偽メールと判明し、前原誠司代表の辞任に発展した。
根拠が薄いままへたに質問すれば批判が跳ね返り、事件の二の舞いになりかねない――。党内のそんな空気を感じている福島伸享衆院議員は「偽メール事件を引きずっていると思われる国会対応を今時やっているのは恥ずべき事」と語る。
その福島氏が森友問題を追及する中、思わぬ出来事があった。地元・水戸市の事務所に、自分が申し込んだ覚えのない生命保険の加入書類が7通届いた。誰かが福島氏の名をかたり、生保会社に請求したものとみられるという。福島氏は「『命に気をつけろ』という暗示だと思った」と語る。
政権批判をする政治家への攻撃。矛先は、野党だけではないようだ。自民党で「ポスト安倍」をうかがう石破茂・前地方創生相が3月のテレビ番組で「(昭恵氏が)隠しているんじゃないのと思われることはかえって良くない。政府与党としてお答えしなきゃいかん」と述べた時も、事務所に批判のメールや電話が相次いだ。「お前は後ろから鉄砲を撃つのか」「お前なんかに総理の資格はない」
首相を擁護した側の西田昌司参院議員の事務所にも「なぜ、首相を守るのか」という批判の電話は来たという。だが、同じ批判や攻撃も、「1強」首相をバックにした議員と、そうでない議員とでは、心理的負担の差は明らかだ。(二階堂友紀、中崎太郎)
(1強・第2部)パノプティコンの住人:2(4/19)
「総理がめちゃくちゃ公明党に怒っている。とにかく総理の頭にあるのは憲法。だから維新の皆さん、よろしく頼みますよ」。
4日夜。長谷川栄一首相補佐官は、日本維新の会の足立康史衆院議員との酒席でこう伝えた。2人とも経済産業省出身。長谷川氏が14年先輩にあたる。互いが仕える上司同士も親密だ。安倍晋三首相や菅義偉官房長官は、維新代表の松井一郎・大阪府知事や橋下徹・前大阪市長と定期的に会食している。足立氏は国会審議で、たびたび民進党の議員席の側に体を向け、民進批判を繰り返してきた。この日は「民進はもう相手にする価値もない。これから攻めるのは共産党だ」と2人で意気投合したという。
翌5日午前、長谷川氏から足立氏にメールが届いた。「次の委員会では、東京都の豊洲問題を質問してほしい」。
都議選を3カ月後に控え、自民と対決色を強める小池百合子都知事を追い込む質問を求める内容だ。足立氏は自らが「ご下命」と呼ぶ官邸からの意向に沿い、6日の衆院農林水産委員会で質問した。
「移転が先延ばしになる間、豊洲の維持費が相当かかっている」「(移転をやめて)築地再整備となった場合、豊洲市場に投じられた208億円の補助金は返還が必要ではないか」。農水省は答弁で「一般論では、補助金の相当額を国庫納付する」と返還の必要性を示唆。豊洲への早期移転を主張する自民とぴったり歩調があう質疑になった。
維新は「責任野党」を標榜する。その原点は「政策の実現を目指す責任野党とは、柔軟かつ真摯に政策協議を行う」と表明した2014年1月の安倍首相の施政方針演説にある。今では自民との間で幹事長、国会対策委員長が法案審議の段取りについて意見交換する場を持つ関係になった。
しかし、首相の本音は別のところにもある。首相公邸で13日夜、1次政権退陣後も支えてくれた議員と会食した席で、「維新の彼らは利用できるからいいんだよ」と語ったという。連立を組む公明が官邸の意に沿わない場合は、維新と連携して牽制材料にする。野党間の分断役も担わせる――。これも首相の思い描く「責任野党」の実像だ。
責任野党という言葉を日本政治で最初に掲げたのは旧社会党から1960年に分裂した旧民社党。歴代自民党政権に対して是々非々の立場を強調していたが、自民の補完勢力と受け止められる局面が多かった。
旧民社の流れをくむ民進党も、野党分断を図る首相の言葉に過剰反応し、自らパノプティコンにはまっている。昨年9月に代表に就任した蓮舫氏が掲げた「提案路線」がその典型例だ。
現実には提案よりも、政権を追及する仕事に徹せざるを得ないのが野党だ。そうなると首相からは「批判に明け暮れていれば、中身のある議論が行えない」と言われ、ネットでも「提案路線はどうなったのか」と指摘される。まさに隘路に迷い込んでいるのだ。
奥野総一郎衆院議員は昨年の衆院予算委で、高市早苗総務相の電波停止発言が、メディアへの強権的姿勢という政権の本質をはらむ問題と考えて質問した。だが世論の反応は鈍く、手応えは芳しくなかった。
「対案を出しても実現しない。批判しても世論を味方に付けられない。政治家としてつらい。野党の存在意義って何だろう。なんとなく、八方ふさがり」(中崎太郎、藤原慎一)
自動代替テキストはありません。
画像に含まれている可能性があるもの:5人

12 竹本 耕造さん、小貫 ツマさん、他10人

文屋 善明
4月19日 9:53 ·

これが目に入らぬか。これでもう知らぬと言わせない。観念しろ!
自動代替テキストはありません。
神前 格
4月18日 22:45 ·
「【籠池地獄は血の池】菅野完氏が、14年12月17日段階で近畿財務局が森友側に土地の入手する方法を丁寧に説明した文書を暴露。サガワは15年1月27日以前に森友側に土地を貸せるだろうという見通しを与えたことはないと答弁。また嘘答弁が露呈。もはやサガワ理財局長の国会答弁の嘘は明らか。財務省情報管理室の答を否定し、文書の復元不可能を主張した、さらに大阪私学審の前に、森友側に土地の貸与・取得に関して懇切丁寧に説明し便宜を図っていたことは、国会を侮辱し納税者への裏切りです。公文書等毀棄罪の確信犯」(慶應義塾大学経済学部教授・金子勝先生2017-4-17ツイッター)

森友学園前理事長・籠池泰典氏にインタビューした『日本会議の研究』の著者・菅野完氏が、“HARBOR BUSINESS Online”に、「2014年12月17日段階で、近畿財務局が森友学園側に、土地を手早く入手する方法を丁寧に説明していた文書」を公開しました。

「森友学園事件」の本質は、「国が国有地をほぼ無償で個人に払い下げた」ことです。この「国が国有地をほぼ無償で個人に払い下げた」ことに財務省が深く関わっていることが、いよいよはっきりと浮かび上がってきました。

“HARBOR BUSINESS Online”の記事を御紹介します。

-以下、HARBOR BUSINESS Onlineの記事の転載(コピペ)です-

佐川理財局長の答弁を完全に崩壊させる新資料が発覚!
2017年04月17日ニュース

2月中旬の森友問題発覚以降、誰よりも「名を上げた」人物といえば、財務省の佐川宣寿理財局長ではあるまいか。

もっとも「名を上げた」と言っても「知名度」が上がっただけの話であり、そしてその「知名度」も、「優秀な官僚」としてのそれではなく「嘘つき男」としての不名誉なそれであるが。

国会で「関係する書類は全て捨てた」だの「当時の担当者は目下、病気療養中」だのと、見え透いた嘘をつき続け、答弁が終わるたびにあのドヤ顔で議場を睥睨する。あの姿の滑稽さに気づいていないのは、おそらく本人及び(彼のパワハラによって完全に萎縮してしまっているという“財務省関係者談”)、理財局の面々ぐらいのものだろう。

だが、一方で、これまで誰一人として「佐川理財局長の嘘」を立証しえなかったことも事実だ。

例えば、満天下の失笑を買うこととなった「財務省のシステムは、即座にデータが抹消される仕様になってございます」という答弁。こんな話、誰だって嘘だとわかる。しかしこの子供でも笑ってしまうような与太話でさえ、「それは与太だ」ときっちりと証拠を添えて立証できた試しはない。野党議員は、いたずらに、「嘘はやめてください」「誠実に答弁してください」と求めるのみで、挙証責任を果たせていないのだ。

この辺りに昨今の野党議員の不甲斐なさが端的に表れている。佐川理財局長は嘘をついている。これは子供でもわかる。しかし国会における野党の役割とは、滑稽な佐川理財局長の滑稽さを、そして彼の陰湿さや破廉恥さや頭の悪さを見世物にすることではない。彼は政府委員である。野党は政府の不正を監視し糾す役割を負っている。であるならば、野党議員のやるべき仕事とは、「政府委員の答弁は、虚偽である。当方はこのような証拠を掴んだ。故に、答弁を訂正し、誠実なる審議の実を上げられたし」と、政府に要求することではないか。

では、「証拠」はどこにあるのか?

佐川理財局長の答弁と矛盾する「ある書類」

探せばあるのである。調査すれば見つかるのだ。政府が嘘をつくとき、いや、誰であれ人間が嘘をつくとき、その嘘を覆す証拠は、遅かれ早かれ、必ず何らかの有体物に記録された形で発見される。必ず証拠は見つかる。議会の質疑でテレビに映ることだけ考えず、膝を地面に擦り付け、虫眼鏡を持って現場を歩けば良いのだ。そうすれば、見つかる。必ず証拠は見つかる。

例えばこの「今後の手続きについて(説明資料)」と題されたこの紙はどうか?

⇒【資料】はコチラ https://hbol.jp/?attachment_id=136816

冒頭にあるように、この紙が森友学園側に交手されたのは、平成26年12月17日。そして、文面を読めばわかるように、この紙を書いたのは、財務省近畿財務局だ。

この紙で、近畿財務局は、小学校建設予定地としてあの豊中の土地を入手しようとしていた森友学園に対し、「この後、どんな手続きが必要か?」を、懇切丁寧に説明している。この紙で説明される内容は、土地取得要望書の提出から始まり、国有財産近畿地方審議会が平成27年2月に開催される予定であることや、財務局と航空局による現地確認のスケジュール感、有益費に関す事項や、定借後の定期報告のあり様などなど、微に入り細にわたっており、かつまた、網羅的だ。さらには、貸付契約の話だけでなく、最終的に売買契約に至る道筋まで、すべて、完全に説明しきっている。ここまで懇切丁寧だと、どう贔屓目に見ても、この紙で近畿財務局は森友学園に「もっとも手早く土地を入手する方法」を手取り足取り教えているとしか思えない。

ところが。これまで財務省は、これとは全く違う答弁を繰り返してきた。2月15日。衆院財務金融委員会で、共産党・宮本岳志議員と佐川理財局長の間で次のような質疑が繰り広げられている。

宮本議員「第123回国有財産近畿地方審議会の半年前の時点で、森友学園は、相当程度の確実性をもって、この土地は確保できると、こう述べて(注・大阪府の私学審議会に学校設置申請を)申請していたということになります。ということは、理財局に聞きますけれども、近畿財務局は本件土地の処分について、第123回国有財産近畿地方審議会に諮る半年も前から、まあだいたい確実だという内諾を森友学園に与えていたのではないですか?」

佐川理財局長「お答え申し上げます。平成27年その1月27日大阪府の私立学校審議会において、森友学園に対しまして、付帯条件を付して、学校設置の認可適当との方針が出されたものと承知しておりますが、これ以前に財務省あるいは近畿財務局から大阪府の私学審の関係者に対しまして、予断を持って、森友学園の学校運営の状況等伝えた事実はございません」

宮本議員「この土地については、森友学園に貸せるだろうという見通しを伝えた事はないんですね?」

佐川理財局長「そのようなことはございません」

審議会の3か月前に渡っていた

やはり、佐川理財局長は、ここで明確に、「第123回国有財産近畿地方審議会より前に、貸せるだろうとの見通しや、売買契約の見通しを伝えたことはない」と答弁している。

しかしこの答弁は、今回発掘された財務省近畿財務局作成の「今後の手続きについて」という資料で、完全に嘘であることが立証された。先述のように、この資料は、平成26年12月17日に財務省近畿財務局から森友学園に渡っているのだ。第123回国有財産近畿地方審議会開催の3か月前のことである。

ちなみに、2月21日にも衆院財務金融委員会は開催され、同じく共産党・宮本岳志議員と佐川理財局長の間で、このようなやりとりがなされている。

宮本議員「前回の質疑での理財局長の答弁、私に対して、『貸付10年以内に売買』ということを、第123回国有財産近畿地方審議会の前に予断を与えるような話を森友学園にしていたのではないかと申し上げましたが、これは否定されましたけども、実は、10年貸付、10年以内に売買というこの貸付の話はその前から進んでいたのではありませんか? それから年2730万円という貸付料まですでに取り決めていたのではありませんか?」

佐川理財局長「今ご指摘のありましたような学校審議会の前にですね、財務省近畿財務局から森友学園に対して予断を持って、国有地売却等の是非について申し上げた事実はございません」

ここで、宮本議員は「国有地審議会の前に、大阪府私学審に土地取得前提で学校設置申請が出ているのは、おかしいではないか」との指摘を行なっている。この指摘の根拠になっているのは、大阪府私学審議会作成の審議会議事録だ。

佐川理財局長はここに注目した。「大阪府私学審議会の議事録など、財務省答弁の矛盾追求の材料にならない。財務省の認識はあくまでも、財務省の認識だ」と言い張っている。

であれば。

やはり今回新たに発掘された「今後の手続きについて」なる資料を佐川理財局長に突きつける必要があるだろう。この資料を作成したのは、大阪府私学審議会でも、私学課でも、森友学園でもない。あくまでも財務省近畿財務局だ。紛れもなく、財務省の資料だ。財務省が平成26年年末の段階で、土地の定借契約のあり様から売買契約に至るまでの筋道を完全に示しているではないか。

もう「他人の資料を根拠に指摘されても答えようがない」方式の言い逃れはできまい。これで完全に、佐川理財局長の嘘は立証されるのではないだろうか。

ちなみに……。

今、筆者の手元には、段ボール4箱ほどの資料の束がある。この書類はこの書類の山から見つけた一つにすぎない。他に資料はまだまだあるだろう。もう少し丹念にこの資料の束を掘り返してみるとする。佐川局長は期待して待っていてほしい。

<文/菅野完(Twitter ID:@noiehoie)>

-以上、HARBOR BUSINESS Onlineの記事の転載(コピペ)おわり-

『アッキード事件』は「平成の大疑獄事件」です。

国会は、安倍晋三首相、安倍昭恵首相夫人、麻生太郎財務相、石井啓一国土交通相、鴻池祥肇元防災担当相、稲田朋美防衛相、佐川宣寿財務省理財局長、迫田英典元財務省理財局長(現国税庁長官)、経済産業省官僚・谷査惠子氏、今井尚哉首相秘書官、松井一郎大阪府知事、橋下徹前大阪市長、平沼赳夫衆議院議員を証人喚問し、「森友学園事件」の真相を糾すべきです。

真の野党には、国政調査権を活用することも含めて、徹底的に「自民党」「公明党」「日本維新の会」を追及し、倒閣に繋げて欲しいものですし、国民も「自分たちの財産が、勝手にむしり取られている」ことに激怒すべきです。

『ストップ・ザ・アベ!』『ストップ・ザ・極右!』です。

(註)添付写真は“HARBOR BUSINESS Online”に掲載された「近畿財務局が森友学園側に、土地を手早く入手する方法を丁寧に説明していた文書」→金子勝先生のツイッターよりの転載です。


14 竹本 耕造さん、山城 順さん、他12人
コメント

神前 格 シェアして頂き、有難うございました。

加藤 佑三 そうだ、そうだ、ざまあみろ!!。

文屋 善明
4月19日 10:38 ·

「昨日のFB 04/17」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

14 竹本 耕造さん、入口 紀男さん、他12人

文屋 善明
4月19日 14:26 ·
京都学派研究のために貴重な資料。

Mizota Michael Satoshiさんがグループ「『「福音書」解読』プロジェクト/キリスト教社会工学研究機構」でリンクをシェアしました。
4月19日 14:02 ·
>>日本人は何を考えてきたのか=西田幾多郎


日本人は何を考えてきたのか=西田幾多郎
戦前の軍部独裁のもとでの哲学者
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文屋 善明さんが写真5件を追加しました。
4月19日 16:23 ·

今日の散歩道、アオサギが出て来たり、カラスと出会ったり、レンゲ畑。
画像に含まれている可能性があるもの:空、草、雲、木、屋外、自然

46 竹本 耕造さん、加藤 治さん、他44人
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加藤 佑三 最近は「レンゲ」を見かけることが少なくなりましたね。幼少のころには、摘んで首飾りなどを作った事を思い出します。

文屋 善明 この辺りもレンゲが減りました。

文屋 善明
4月19日 20:40 ·

エーイ、面倒だ!
春深し桜の次は花水木 善明
<季語三連発>

31 竹本 耕造さん、播 稔さん、他29人
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増野 真美 笑いました❗

文屋 善明
4月19日 20:43 ·

花水木十字架の木を思う我 善明
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30 杉浦 紀明さん、豊田滋さん、他28人
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文屋 善明
文屋 善明 花水木伝説:花水木はもともとは幹の太い木でしたが、その木でイエスの十字架は作られました。それを花水木が知り、嘆いているのを神さまがご覧になって、可愛そうに思い、幹の細いブッシュタイプの気になりました。それで花水木の花は十字の4弁の形をしていると言うことです。
http://blog.goo.ne.jp/.../e/b67b0161041f5272d5423bdc8c81361e

昨日のツイート 04/21 - ぶんやさんち
今日の名言:@fuxexiwupaje 明日死ぬとしたら、 生き方が変わるんですか? あなたの今の生き方は、…
BLOG.GOO.NE.JP

糸原 由美子 十字架についてはいろいろ樹木の伝説がありますね。

小貫 ツマ この街にもハナミズキの木や街路樹が開花しました。私もこの伝説を聞いてから、勤務した教会に植えて来ました。室蘭、平取(びらとりと読みます。)にいかつぷ(新冠)。開花するのは5月末〜6月。

文屋 善明 私も最後の勤務地、西大和で聖堂を建築した際、聖堂の周りに数本、赤と白の花水木を交互に植えました。

文屋 善明 西大和聖ペテロ教会の花水木
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、木、屋外、自然

小貫 ツマ 私は苗木を植えたので咲いているのを見たのは室蘭だけでした。でも「開花」のにゆーすはあとでききました。

佐藤 静代 我が家のシンボルツリーは花水木です。

松沢 直樹 勉強になりました。

播 稔 そうですか、十字架の木は花水木らしいということですか。

文屋 善明 伝説ですから。

杉浦 紀明 確かにハナミズキは十字架の木と言われていますね。

文屋 善明
4月19日 20:44 ·

我思う復活節のメッセージ 善明

20 大野 泰男さん、竹本 耕造さん、他18人
コメント

文屋 善明 何しろ復活節の説教は6回、それに昇天日を加えると7つの説教を考えなければなりませんからね。準備が大変です。

楠 真理子 み~んなおんなじというわけにはいかないところが、味噌。

文屋 善明
4月19日 20:46 ·

春深し桜の次は花水木 善明
花水木十字架の木を思う我 善明
我思う復活節のメッセージ 善明
<しり取り俳句>

21 竹本 耕造さん、播 稔さん、他19人
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