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ぶんやさんの記録

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  • 04/22/17--03:05: 昨日のFB 04/20
  • お早うございます。主の平和。昇天日の説教を考える。昇天とは向こうに親しい人が行く感覚。それで天国を身近に感じること。昇天と再臨とか関係づけられている。昼食後、昼寝1時間(OTB)。田川のヨハネ福音書14章の釈義。「栄光化する」という言葉をどう解釈するか。釣川堤防散策。ポケモンはレベル19に。夕食後、「警視庁9係」、報ステを見て10時半に就寝。6時起床。体温:36.3、血圧(136:68、79)、体調・快調、チュン、チュン

    26 杉浦 紀明さん、小貫 ツマさん、他24人
    コメント

    久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

    東山 富昭 おはよう😃ございます。身体の状態は、かわりばえはしません。今日も、主なる神と主イエス・キリストにあって、よろしく、お願いします。

    萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りです。守られますようにお祈りします。

    村田 多鶴子 おはようございます~♪
    先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

    文屋 善明
    4月20日 6:06 ·

    お目覚めの花。「今朝はご近所の門前の花水木。まだ一寸早い。しかし、これを見たとき、あまりの美しさに思わずドキッとしました」。(青い空によく似合います)
    画像に含まれている可能性があるもの:空、植物、木、雲、屋外、自然

    42 佐藤 静代さん、吉村 伸さん、他40人
    コメント
    佐藤 静代佐藤 静代 我が家の花水木は少しずつ枯れ始めました。原因不明で心配しています。
    画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、家、屋外、自然

    文屋 善明 心配ですね。

    岡 輝美 実家に赤と、白の、花水木あるのですが、これも、少しずつ枯れてきて、小さくなってます。ねっきり虫じゃないか?と思います

    佐藤 静代 以前は枝が見えないほど繁っていましたが、我が家のシンボルツリーなのに。

    文屋 善明
    4月20日 6:25 · 福岡県 宗像市 ·

    2017 日々の聖句 4月20日(木)
    心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。(1サムエル7:3)
    ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。(フィリピ1:27)
    私の黙想:
    この句だけを取り出したら、まるで「イミタチオ・クリスチ」の言葉のようだ。ただし、サムエルが言いたいことは、この文章の前にある言葉である。「あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き」。要するにイスラエルの民は強力な隣国、ペリシテ族に占領され、重要な「神の箱(筺)」まで取り上げられ、異教の神を押しつけられて、20年を経過したいた。なんだかんだあって、「神の箱」をもてあましたペリシテが神の箱を送り返してきた。その時の、預言者サムエルの言葉である。いわば「民族刷新」という場面である。
    ここで注目すべき言葉は、2節後半の「イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた」という言葉である。このことが切っ掛けになり、イスラエル人たちは自分たちの「王」を求めるようになる。「主を慕い求める」ことが「王」を求めることになるというところに、今後の展開の鍵がある。

    25 川染 三郎さん、杉浦 紀明さん、他23人

    文屋 善明
    4月20日 6:33 · 福岡県 宗像市 ·

    今日の名言:@kotoba_bot
    何かをしたい者は手段を見つけ、何もしたくない者は言い訳を見つける。(不明)
    <一言>面白い言葉だ。いろいろな場面を想像することができる。問われていることは「したいのか、したくないのか」。したいと思えば、必ず道は拓ける、啓ける。したくないのなら、何でも「言い訳」になる。大臣にはなりたいけれど、大臣の仕事をしたくない。こういう場合、どういう言い訳があるのか、考えてあげて。「エッ、嫌だって。それじゃ、何か言い訳を考えてよ」。

    29 川染 三郎さん、杉浦 紀明さん、他27人
    コメント

    楠 真理子 わたし言い訳うまいんです。w

    文屋 善明
    4月20日 6:43 · 福岡県 宗像市 ·

    現代文イミタチオ・クリスチ
    第21章 心の進歩のために(B)
    修道者:
    主なる神よ、人間の完成、完全な人間になれますか。(2:21:11)
    キリスト:
    愛する者よ、大丈夫、君はただ全身全霊をもって主の御心を行うことに専心しなさい。大きなことでも小さなことでも、その場限りのことでも、永遠に残ることでも、私利私欲を求めず、どんなことでも我を主張しないこと。そうすれば、どんな状況になっても落ち着いて対処し、逆境でも順境でも同じように感謝することができるようになります。あとは忍耐さえすれば、全てのことを主の御旨に従って生きることができます。
    たとえあなたの希望がどんなに難しいことであっても、たとえ心の慰めが取り去られても、さら大きな苦難に対する心備えをし、自分はそんな苦難を受ける覚えがないなどと、言い張らず、愛と感謝の心で、私のすることなら何でも、私を神だと信じるならば、その時あなたは平安への一路を真に歩んでおり、またあなたは喜びに満ちた心をもって私の顔を見上げることができると信じなさい。
    そうしてあなたが全く自分をさげすむ状態に達したならば、その時あなたはこのみじめな世において味わい得る最大の豊かな平安をうけることができると確信しなさい。(2:21:12~14)

    18 杉浦 紀明さん、辻本 昌弘さん、他16人

    文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
    4月20日 7:46 ·

    5年前のローズンゲンです。
    5年前
    この日の思い出を見る

    文屋 善明
    2012年4月20日 · 福岡県 宗像市 ·
    losungenj 2012.04.20(fri) 
    人々が、代々に御業をほめたたえ、力強い御業を告げ知らせますように。(Ps145:4) 目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこその人々をいやされた。祭司長たちや、律法学者たちは、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立てた。(Mat21:14-15)
    私の黙想: 
    「力強い御業」を告げ知らせるということ。私たちの様な小さな弱い存在が告げ知らせるということ。果たしてその必要があるのだろうか。もしあるとしたら、神の御業は人々には見えない場合である。私達は天地万物の美しさ、不思議、それが神の御業だとただ賛美するだけである。

    9 村田 多鶴子さん、杉浦 紀明さん、他7人

    文屋 善明
    4月20日 8:57 ·

    「昨日のFB 04/18」をブログにアップしました。

    昨日のFB 04/18 - ぶんやさんち
    今日の名言:@simoneweil_bot にせものの神は、苦しみを暴力に変える。真の神は、暴力を苦しみに変える。(シモーヌ・ヴェイユ)…
    BLOG.GOO.NE.JP

    7 辻本 昌弘さん、川染 三郎さん、他5人

    文屋 善明
    4月20日 12:27 ·

    偽新婦偽新郎と偽牧師 仙明

    36 髙橋 和廣さん、川染 三郎さん、他34人
    シェア1件
    コメント

    松沢 直樹 なんだか、とんでもない話になってますね。あの方が、経産省のナンバー3ってのは。

    Mizota Michael Satoshi あり得ることです。「届」を受け取るお役所もニセモノであれば完成された虚構世界であり、それはそれでうまくできており、もはや言うことはありません。

    橘 智 先生、シェアさせてください!

    文屋 善明 どうぞ

    橘 智 ありがとうございます!

    文屋 善明
    4月20日 14:00 ·

    偽新郎と偽新婦は何となく分かるが、例えば国法に従って入籍するとか、しかし偽牧師っていったい何ものなんだろうか。牧師が牧師であるという証明は何だろう。神学校を卒業していたら牧師なのか。仲間内で「お前は牧師だ」と言えば牧師なのか。その仲間内とは何だろう。結婚式場の経営者が、「お前を牧師として雇う」といえば牧師なのか。そもそも偽牧師はあり得るのだろうか。

    35 佐藤 静代さん、藤木 冨士子さん、他33人
    コメント

    橘 智 偽牧師、あると思います。

    羊のいない羊飼いがないのと同じかと。

    石田 聖実 イエスさまから「わたしの羊を飼いなさい」と託された者が牧師でしょう。
    しかしこれはパウロは使徒かという問いと同じだと思います。

    中尾香鶴子 結婚式場におられる牧師様はどこから来られますか?結婚式は日曜日とかに多いですが日曜日なら礼拝があるはずですがなん組もの結婚式を行えるのはなぜですか?

    文屋 善明 いろいろなケースがあり、ここでは、それらをすべて取り上げることはできません。

    中尾香鶴子 分かりました。ありがとうございます。

    小林 由紀子 白人男性がチャペルを模した結婚式場でバイトで雇われてにわか牧師やにわか神父になる例があるとか?白人だと箔がつくとか?未信徒がキリスト教で結婚式を挙げることまで反対するわけではない。一定期間の学びを得てからならば。時に叶って神様が信仰に導いて下さるかもしれません。

    中尾香鶴子 そうなんですか❗お葬式や法事には仏教でお坊さんに頼み、結婚式ではキリスト教で牧師様や神父様に頼むのが不思議でなりませんでした‼

    播 稔 わたしは 牧師だといえば その人は牧師になります。ただ宗教法人になるのは難しいと思いますが。

    石田 聖実 そもそも結婚式場でクリスチャンでないカップルが結婚するために「牧師」が必要か?
    司会者という職業があるのだから、「司式者」でいいのではないか?

    松木田 博 御意。そもそも神を信じる信仰をもたないのだから、「本物の牧師」である必要がないのでは?と私も常々思ってる。

    霜山 雅也 「ナンチャッテ牧師」ですね!(笑)

    文屋 善明 何しろ私は路傍伝道から伝道者としての人生を始めましたから、どんなチャンスでも伝道の機会だと思っています。だから結婚式というようなその人の人生の重要ポイントに立ち会って奉仕ができるということはとてもうれしいことです。ということが、ワンポイント。それだけに偽牧師がそこにいるということが、そもそも(基本的に)堕落だと思っています。それがもう一つのポイント。結婚式場におけるいわゆる「キリスト教式の結婚式」には怒りさえ感じますが、それはそれ。私が提起した「牧師とは何か」という問題は、そういう次元の問題ではありません。日本社会において「牧師」という職業が何を根拠としているのか。結局、それはその人が属する組織の規定によると思います。裁判などの場面で「牧師」という場合の宗教法人の規則が問題になります。そして日本の司法は宗教法人の内部規定には立ち入らないという原則があります。だからその組織・団体が牧師であると認定したら牧師です。だから、株式会社が「牧師」として雇えば牧師です。牧師の「歴史的伝承」にはあえて触れませんでした。

    石田 聖実 株式会社が「牧師」として雇えば牧師でいいのか?というところですね。一般的通念として、牧師や僧侶・神職は「宗教家」であり、営利企業によってオーソライズされるものではないのではないでしょうか。
    (もっとも宗教団体は金儲けの団体だと見られているというのはあるかも知れません。)
    司法は宗教法人の内部規定には立ち入らないけれども営利企業には立ち入るのではないかと思います。

    Mizota Michael Satoshi 歴史的伝承によれば、プロテスタントは株式会社化したほうがいいかもとか。。。

    三宅 善信 私のように、神学校を卒業していても牧師じゃない人も居ます。
     日本の「結婚式場」で司式をしている片言の日本語を話す「見た目が外国人」の牧師や神父って、すべて「偽物」だと思っていました。

    Mizota Michael Satoshi 神学校を卒業して神主とか。その実例も確かに。。。

    Mizota Michael Satoshi ついでにキリスト教団の教師試験を受けてみるとか。教団当局がどう考えるかも興味深いですね。。。

    藤木 冨士子 日本では基準ははっきりしてないですね。神学校卒業してない牧師も知ってますし。見えない神様からの資格でしょう。アメリカにはあるらしいですね。

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    今週のローズンゲン 2017/04/16~04/22

    2017 日々の聖句 4月16日(日)
    人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。(詩90:10)

    この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(1コリント15:54~55)

    私の黙想:
    今日は復活日。今日の聖句は新約の方は確かに復活日を意識しているが、旧約の方はどうだろう。それはともかく、私個人にとっては80才の復活日を迎えることができたことが先ず感謝である。そして、その80年を振り返って労苦と災いは多かったと思うが、決して「瞬く間」ではなかった。その一瞬一瞬は有意義であったし、まぁ一部まずいところや失敗も結構あるが、誇りにできる。それは私の個人的な幸運というよりも、両親から始まって多くの人たちの支えによることも事実である。
    アッ、ここか。復活日に関係するのは「わたしたちは飛び去ります」。要するに死ぬということなんだけど、それを「飛び去る」とはどういうことなんだろう。新改訳の詩78:39によれば「吹き去る」。要するに神の目から見たら、「吹けば飛ぶような人生」だったということであろう。こんなところで「神の目」は不要である。私の人生は決して「吹けば飛ぶような人生」ではなかった。イエスの人生は30年、もう少し厳密に考えてもせいぜい33年。私の人生はその2倍はある。内容の重さを比べることはできないが、まぁまぁ、というところでしょうか。私自身は復活するかどうか、それは分からないし、知ろうとも思わない。これで十分だ。

    2017 日々の聖句 4月17日(月)
    主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。(エレミヤ8:4)

    イエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)

    私の黙想:
    倒れて、起き上がれない者は大勢いる。離れて、立ち帰らない者も沢山いる。従って、今日の聖句は現実を無視している。いや、無視しているのではない。5節では、その現実を述べている。「どうして、この民エルサレムは背く者となりいつまでも背いているのか。偽りに固執して立ち帰ることを拒む」。つまり、神を信じない世界はその通りだという。神がいない世界では、倒れた者を起き上がらせる者もいないし、離れた者を立ち帰らせる者もいない。この言葉の中に、神自身の叫びが聞こえる。そこに倒れている者、正道から外れている者がいるのに、誰も助けないのか。現実をよく見ていると、お互いがお互いに心を開いて話し合っていない(6節〜8節)。預言者はいないのか、祭司はいないのか。司祭はいないのか、執事はいないのか。それじゃ仕方がない、私はサマリア人を立ち上がらせて彼らを救おう。

    2017 日々の聖句 4月18日(火)
    順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せ造られた、と。(コヘレト7:14)

    パウロの手紙:いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:12~13)

    私の黙想:
    今日の聖句は面白い。順境には何も考えずにただ楽しめ。逆境には考えよ。何しろ楽しめないのだから考えるしかない。「良いときもあるさ、悪いときがあってもしょうがない。何しろ創造者が人間には未来を予測する能力をお与えにならなかったのだから。そのことを悟るために、順境と逆境とがあるんだ」と。口語訳、フランシスコ会訳、新改訳、一寸づつ違うが、そんなことは小さいことだ。この文の前後とは少々異なっている。要するに、神の意図なんか人間に分かるもんじゃない、という人間の知恵と神の知恵との根比べのようなものである。その中で「将来のこと」となると人間にはお手上げだ。文語訳がもう一つ面白い。「神はこの二つをあひ交錯(まじへ)て降したもう」。良いことと悪いこととが入り混ざって降る。「悪い状況においてもその中に良いこともあるさ、その逆に、良い状況においても悪いこともあるよ、だから気を付けなさい」。これが持っても現実に近いのではないか。

    2017 日々の聖句 4月19日(水)
    お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。(エレミヤ23:35)

    あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。(コロサイ3:1)

    私の黙想:
    今日の聖句、ただこれだけを取り出しただけでは何のことか分からない。文脈を読むと非常に面白い。要するに「主の託宣(言葉)」の取り合いだ。いろいろな立場の人間が、自分勝手に、それぞれの思いつきを「主の託宣だ」という。誰かが「これが主の言葉だ」というときには先ず、それを信じてはならない。要するに今日の聖句は、偽預言者たちの言葉に対して、その言葉の出所を確かめろ、という意味である。本当にそれは主から出て来た答えなのか、主の言葉なのか。これは難しい。その人が「主の言葉だ」と言ったら、それを信じていいのだろうか。そんなはずはない。それでは「主の言葉」とは何か。ここで一種の言葉遊びがある。主の言葉とは「マッサ」である。その言葉は同時に「重荷」を意味する。だからややこしい。「主のマッサ(託宣)とは何か」「お前たちこそが主のマッサ(重荷)だ」。さて、これをどう解釈するか。問いは哲学的な問いとなる。「だから主はお前たち(マッサ)を捨てる」という。預言者エレミヤは主がイスラエルを捨てた」というメッセージを語る。さぁ、これにどう反応するか。今日の黙想は問いかけで終わる。

    2017 日々の聖句 4月20日(木)
    心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。(1サムエル7:3)

    ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。(フィリピ1:27)

    私の黙想:
    この句だけを取り出したら、まるで「イミタチオ・クリスチ」の言葉のようだ。ただし、サムエルが言いたいことは、この文章の前に言葉である。「あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き」。要するにイスラエルの民は強力な隣国、ペリシテ族に占領され、重要な「神の箱(筺)」まで取り上げられ、異教の神を押しつけられて、20年を経過したいた。なんだかんだあって、「神の箱」をもてあましたペリシテが神の箱を送り返してきた。その時の、預言者サムエルの言葉である。いわば「民族刷新」という場面である。
    ここで注目すべき言葉は、2節後半の「イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた」という言葉である。このことが切っ掛けになり、イスラエル人たちは自分たちの「王」を求めるようになる。「主を慕い求める」ことが「王」を求めることになるというところに、今後の展開の鍵がある。

    2017 日々の聖句 4月21日(金)
    (それで)王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」(ダニエル6:17)

    虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(2コリント4:9)

    私の黙想:
    今日の聖句はバビロンの王がダニエルに言った言葉。この言葉の重要ポイントはダニエルはいつも拝んでいたということ。「拝む」という言葉を新共同訳以外の邦訳はほとんど「仕える」と訳している。「拝む」と「仕える」とではレベルが異なる。「拝む」は個別的な行為であるが、「仕える」は生き方の問題である。ここで王が「仕える」という言葉を使っているのは意味深長である。ダニエルは「王に仕える」のが仕事であり、生かされている理由である。そのダニエルが王以外のものに「仕えている」。王は自分と「ダニエルの神」とを同レベルにおいている。実はここで王はダニエルをなんとか救い出そうとしたが、力不足で救い出すことができなかった。それで王はダニエルに王いう言い方をしたのであろう。

    2017 日々の聖句 4月22日(土)
    主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。(ミカ7:9)

    一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。(ルカ24:30~31)

    私の黙想:
    旧約聖書の聖句を見て、新約聖書の聖句と比べて、ローズンゲンの編集者が旧約聖書の聖句の意味をそういう意味に解したのかと、思う。
    ミカ書については預言者イザヤの時代の田舎の預言者としてしか知らないが、民族存亡の危機において都市部の裕福なかいそうに対する鋭い批判者である。しかし、ミカ書4章以下の預言はミカ以外のものの言葉とされる。むしろここでは民族復興、再生の預言が多く語られる。今日の言葉の時代背景は10節、11節に次のようの述べられている。恐らく、バビロン捕囚語の祖国復興の状況であろう。
    「お前の神、主はどこにいるのか」とわたしに言っていた敵はこのことを見て恥に覆われる。わたしの目はこの様を見る。今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる。あなたの城壁を再建する日それは、国境の広げられる日だ。暗かった日々は過ぎ去り新しい時代の夜明けの情景である。
    今の日本の状況と重なる。日本は世界から馬鹿にされて当然の状況である。まさか、「お前の神、主はどこにいるのか」という言葉を神国日本と重ねるわけではないし、「日本の神はどこにいるのか」と解釈するわけではないが、今の、そしてこれからの日本を建てる国是は何か。戦争なき、核なき、平和の実現に貢献する日本である。

    0 0
  • 04/23/17--17:36: 昨日のFB 04/21
  • お早うございます。主の平和。家内は整骨院へ。私はもっぱらヨハネ14章と取り組む。大枠が完成。昼食後、昼寝1時間(OTB)。釣川堤防散策。夕食後、天海祐希主演の「緊急取調室」、報ステを見て10時に就寝。6時起床。体温:36.2、血圧(130:61、80)、体調・快調、チュン、チュン

    23 播 稔さん、佐藤 静代さん、他21人
    コメント

    久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

    村田 多鶴子 おはようございます~♪
    薄曇りの空を観ながら、苦手な歯医者さんの日なので?心はどんより厚い雲がかかっているような…。
    先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

    東山 富昭 おはようございます😃。今日は、雨です。週末の予定はありますが、身体の状態はかわりばえはしません。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

    文屋 善明さんが写真2件を追加しました。
    4月21日 6:34 ·

    お目覚めの花。「もう金曜日だ。忙しいなぁ」。(今日の花は駅前の花壇のスミレ黄色と紫)
    画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、自然、屋外

    32 播 稔さん、山本 友美さん、他30人

    文屋 善明
    4月21日 6:50 ·

    2017 日々の聖句 4月21日(金)
    (それで)王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」(ダニエル6:17)
    虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(2コリント4:9)
    私の黙想:
    今日の聖句はバビロンの王がダニエルに言った言葉。この言葉の重要ポイントはダニエルはいつも拝んでいたということ。「拝む」という言葉を新共同訳以外の邦訳はほとんど「仕える」と訳している。「拝む」と「仕える」とではレベルが異なる。「拝む」は個別的な行為であるが、「仕える」は生き方の問題である。ここで王が「仕える」という言葉を使っているのは意味深長である。ダニエルは「王に仕える」のが仕事であり、生かされている理由である。そのダニエルが王以外のものに「仕えている」。王は自分と「ダニエルの神」とを同レベルにおいている。実はここで王はダニエルをなんとか救い出そうとしたが、力不足で救い出すことができなかった。それで王はダニエルに王いう言い方をしたのであろう。
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    23 播 稔さん、山本 友美さん、他21人
    コメント

    門叶 国泰 同意!「いつも」ですね。

    文屋 善明 そうですね「いつも」ですね。

    文屋 善明
    4月21日 6:57 ·

    今日の名言:@Wilde_meigen
    男は必ずしもその行為で評価してはならない。法律を守っているが、つまらない男がいる。法律を破ってなおかつ、立派な男もいる。(オスカー・ワイルド)
    <一言>そして最もつまらない男は、法律を破ってはいないが悪いことをしている男。しかも、「法律を破っていない」といって開き直る政治家。

    20 村田 多鶴子さん、大脇 友弘さん、他18人
    コメント

    播 稔 政治家はつまらない男であると共に ずるい男である。

    文屋 善明
    4月21日 6:59 ·

    現代文イミタチオ・クリスチ
    第22章 自分を愛すること(A)
    キリスト:
    愛する者よ、先ず君の心を私に明け渡しなさい。すベてを得ようと願うなら、先ず君が持っているものをすベて献げなさい。何はともあれ、君自身を愛することがこの世におけるもっとも有害なことなのです。君の物欲が君の歩みを妨げているのです。君の物欲を抑制しさえすれば、この世の物の奴隷状態から解放されます。所有すべきでない物を欲しがってはいけません。その欲望が君自身の心の自由を奪っているのです。君が、何故君自身のすべてを捨てて、私に対して心を開かないのか理解できません。なぜ君は無駄なことに気を遣い、意味のない苦労を繰り返すのでしょうかね。(2:22:1~8)

    17 播 稔さん、鎌野 健一さん、他15人
    コメント

    辻本 昌弘 ?まず、君の心を私に明け渡しなさい、とおっしゃるけれど、君の心、とは誰のものなのかと、いつも思います。

    辻本 昌弘 自分を愛するように隣人を愛しなさい、と聖書にあるように、自分を愛せない、受け入れられない人間は、隣人も愛せず、うけいれられないのではないでしょうか?

    文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
    4月21日 7:03 ·

    2年前のローズンゲンです。
    2年前
    この日の思い出を見る

    文屋 善明
    2015年4月21日 ·
    2015日々の聖句 04月21日(火)
    ヨブは主に答えて言った。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。」(ヨブ40:3~4)
    主よ、わたしたちにも祈りを教えてください。(ルカ11:1)
    私の黙想:
    ヨブ記のクライマックス、ヨブが神に対して人生苦、万物の謎等々様々な疑問を神に直接ぶちまける。それを聞いていたこの世の知恵者エリフが人間の知恵(哲学)を述べることによってヨブをたしなめる。しかしヨブはそんなものでは満足できない。ヨブは黙っている。それを見て、遂に神が登場し、神の圧倒的な力と万物に対する配慮を語る。それが38章、39章である。真打ち登場によってヨブの疑問が解けたわけではない。しかし神ご自身の登場によりヨブは打ちのめされる。今日の聖句はヨブがその時発した言葉である。ヨブは人生の対する疑問の深さにおいて友人たちに対しても又この世の知者の誰に対しても負けていない。その意味では、疑問の深さそのものがヨブの誇りであったのかも知れない。しばしば人間は知っている知識の量よりも知らないことについての疑問の深さが誇りになる。人間の学問とは「知っていることの量」ではなく、「問いの深さ」であると言われる。その意味でヨブは「問う者」つまり「学者」の典型であろう。しかし、ヨブのメッセージは神の前における人間の「問い」の軽々しさである。

    9 小貫 ツマさん、川染 三郎さん、他7人

    文屋 善明
    4月21日 8:09 ·

    「断想:復活節第2主日の旧約聖書」をブログにアップしました。

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    13 久保和男さん、播 稔さん、他11人
    コメント

    播 稔 すこし 松の葉が伸びていますね。

    文屋 善明
    4月21日 8:19 · 福岡県 宗像市 ·

    <アテンション プリーズ>
    今日のこの問題ほど現在の政治状況の問題点をえぐり出している記事は他にありません。
    (1強・第2部)パノプティコンの住人:3 沈黙する自民党
    「みなさん、もっと発言して下さい」
    1月30日、天皇陛下の退位をめぐる自民党の懇談会。座長の高村正彦副総裁が促した。「静かな環境」で議論するためメンバーを党役員中心の14人に絞ったが、想定以上に「静か」だったからだ。
    そこで野田毅・元自治相が口を開いた。「女性天皇の是非も話し合うべきだ」。党内最多の当選15回という大ベテランで、党役員ではない唯一の懇談会メンバー。ところが、発言を促したばかりの高村氏は「この場ではやらない。収拾がつかなくなる」と制した。
    女性・女系天皇の議論は皇室典範改正につながる。安倍晋三首相の意に沿わないことが明らかな意見は封じる――。野田氏を巡っては、消費税率を10%へ引き上げる際の軽減税率導入にも慎重姿勢を続けて公明党と対立し、2015年10月に党税制調査会長を更迭された過去もある。石破茂・前地方創生相は「物を言った人間は決して厚遇されない。『重鎮』と言われる人が官邸の意向一つで代われば、党内は震え上がる」と指摘する。
    石破氏は最近、旧中曽根派の先輩議員だった島村宜伸元農林水産相とパーティーで再会した際、「あの時言った通りになったろ」と言われた。あの時とは、衆院に小選挙区制を導入するかをめぐる党内対立が激しかった1990年代。島村氏は反対派の急先鋒で、「党に権力が集中して、みんな言うことを聞くやつばかりになるぞ。物言わぬ政党になり、つまらない議員が増える」と予言していた。
    当時、小選挙区制導入の旗を振った石破氏は今、自民党が島村氏の予言通りになったと感じている。「誠に申し訳ございません。こうなるとは思いませんでした」と島村氏に頭を下げるほかなかった。
    島村氏は小泉内閣で郵政解散の署名を拒否して農水相を罷免された。かつての自民党には、島村氏のほかにも梶山静六、粕谷茂、亀井静香、河野洋平の4氏が橋本政権の総務会で執行部批判を繰り広げ、そのイニシャルから、スキージャンプの「K点越え」と呼ばれるなど一言居士がそろっていた。
    今の総務会で異論を唱えるのは、石破氏のほかに村上誠一郎・元行革相や木村義雄参院議員が目立つ程度。集団的自衛権を議論していた14年夏ごろまでは「おっしゃる通りだ」と村上氏の事務所をこっそり訪ねる議員もいたが、いまはいないという。村上氏は「後ろを向いたら誰もついてきていない」と嘆く。
    むしろ政権復帰した12年の衆院選以降に初当選した若手は「沈黙する自民党」しか知らない。15年秋の党総裁選に意欲を示した野田聖子氏の推薦人になろうとした議員が切り崩され、首相の「無投票再選」に終わったことも記憶に新しい。衆院当選2回の若手は「先輩が黙るなら、私たちはなおさら。何か言ったら自分がおしまい」と語る。
    沈黙は、野党転落の教訓や党内対立で自滅した民主党を反面教師にした政権維持の「手段」だったが、1強のもとで「目的」に変わった。自民はいま「パノプティコンの住人」の集団と化している。この党内状況に危機感を募らせる小泉進次郎衆院議員は、初当選後に野党になった経験から、こう警鐘を鳴らす。「上が決めたことを何も考えずに受け入れる空気が漂っている。なし崩し的に物事が進むことに不感症になったら、党はぶっ壊れる」(二階堂勇、二階堂友紀)
    画像に含まれている可能性があるもの:3人

    28 播 稔さん、Yoshinori Fujiiさん、他26人
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    コメント

    福永 澄 監視の目を張り巡らせ、自らの地位保全のために物言わぬ政治家が増える…。一方、サッカーの試合でナチスを連想させる側を振ってチームを応援する若者がいるという現実。一強独裁の国が出来上がりつつあり、もう確実に戦前ですね。

    文屋 善明
    4月21日 11:36 ·

    「昨日のFB 04/19」をブログにアップしました。

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    12 久保和男さん、望月 克仁さん、他10人
    コメント

    植村 光郎 表現の豊かさに脱帽!

    文屋 善明さんが市原 信太郎さんの投稿をシェアしました。
    4月21日 12:26 ·

    画像に含まれている可能性があるもの:テキスト

    市原 信太郎さんが写真2件を追加しました。
    4月20日 23:58 ·
    週刊新潮が先週と今週、京都の平安とアグネス教会を載せてくれてた

    文屋 善明さんが写真4件を追加しました。
    4月21日 16:22 ·

    今日の散歩道。麦に穂が付いてきました。タマネギも立派に育っています。序でに葱坊主も。そうそう、今日はとうとう第1目標のレベル20(ポケモンGO)になりました。
    画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、屋外、自然

    34 播 稔さん、濱 和弘さん、他32人

    文屋 善明さん ( 福岡県 宗像市)。
    4月21日 16:34 ·

    ざくろの芽夕陽あたりて赤黄色 善明
    画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、花、屋外、自然

    31 播 稔さん、草薙 恵美子さん、他29人
    コメント

    加藤 佑三 「ザクロの芽」を始めて見ました。日に当たって輝いていますね。昔は「ザクロの実」を良く食べました。あ-、口の中に唾液が・・・。

    播 稔 うまい俳句とおもいます。

    文屋 善明
    4月21日 21:18 ·

    スベルこと氷の上で美に変えた 善明

    19 久保和男さん、播 稔さん、他17人

    文屋 善明
    4月21日 21:46 ·

    スケートや自由と力学操れり 仙明

    19 播 稔さん、石田 聖実さん、他17人

    0 0
  • 04/23/17--17:47: 昨日のFB 04/22
  • お早うございます。主の平和。二人で整骨院へ。ヨハネ14章と取り組む。「栄光」、「栄光化する」の用法を調べる。昼食後、昼寝1時間(OTB)。復活節第3主日の断想を書く。釣川堤防散策。夕食後、国別スケートを、報ステを見て10時半に就寝。5時半起床。体温:36.1、血圧(136:74、82)、体調・快調、チュン、チュン

    28 播 稔さん、石田 聖実さん、他26人
    コメント

    久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

    村田 多鶴子 おはようございます~♪先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

    東山 富昭 こんにちは😃。東京で、KGKの会議に出ました。今晩は、新大阪に宿泊して、明日、教会の礼拝に出ます。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

    文屋 善明さん ( 福岡県 宗像市)。
    4月22日 5:57 ·

    お目覚めの花。散歩道で見かける普通の花。道ばたというよりも山道という風情。思い切って撮ってみました。結構、いけるじゃん。
    画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然、屋外

    33 播 稔さん、松井 信一さん、他31人

    文屋 善明
    4月22日 6:19 ·

    2017 日々の聖句 4月22日(土)
    主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。(ミカ7:9)
    一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。(ルカ24:30~31)
    私の黙想:
    旧約聖書の聖句を見て、新約聖書の聖句と比べて、ローズンゲンの編集者が旧約聖書の聖句の意味をそういう意味に解したのかと、思う。
    ミカ書については預言者イザヤの時代の田舎の預言者としてしか知らないが、民族存亡の危機において都市部の裕福な階層に対する鋭い批判者である。しかし、ミカ書4章以下の預言はミカ以外のものの言葉とされる。むしろここでは民族復興、再生の預言が多く語られる。今日の言葉の時代背景は10節、11節に次のようの述べられている。恐らく、バビロン捕囚後の祖国復興の状況であろう。
    「お前の神、主はどこにいるのか」とわたしに言っていた敵はこのことを見て恥に覆われる。わたしの目はこの様を見る。今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる。あなたの城壁を再建する日それは、国境の広げられる日だ。暗かった日々は過ぎ去り新しい時代の夜明けの情景である。
    今の日本の状況と重なる。日本は世界から馬鹿にされて当然の状況である。まさか、「お前の神、主はどこにいるのか」という言葉を神国日本と重ねるわけではないし、「日本の神はどこにいるのか」と解釈するわけではないが、今の、そしてこれからの日本を建てる国是は何か。戦争なき、核なき、平和の実現に貢献する日本である。

    20 久保和男さん、播 稔さん、他18人

    文屋 善明
    4月22日 6:28 ·

    今日の名言:@Nietzschebotjp
    良い物事、悪い物事が初めからあるのではない。いかようであろうとも、解釈するのは結局は自分なのだ。(『超訳 ニーチェの言葉』014)
    <一言>現実は私自身の解釈によって「私の現実」となる。その解釈は、私の「何故」で始まる。私の解釈によって現実は暗くもなるし、明るくもなる。まさに人間関係などというものはそういうものだ。

    23 久保和男さん、播 稔さん、他21人
    コメント

    清水 行雄 おはようございます。これって「道徳的現象というものはない。あるのは、現象の道徳的解釈だけだ。」の超訳ですかね?

    文屋 善明 これは『悦ばしき知識』の序文にあたる「たわむれ、たばかり、意趣ばらし」の中の第23節の言葉の超訳です。

    清水 行雄 すみません。勘違いでした。(^^;;

    文屋 善明
    4月22日 6:30 ·

    現代文イミタチオ・クリスチ
    第22章 自分を愛すること(B)
    キリスト:
    愛する者よ、私は君にとって最善のことを考えているのだから、私の言う通りに行動しなさい。そうすれば間違えることはない。君が自分自身の考えを通そうとして、あれやこれや工夫し、ああでもない、こうでもないと画策するかぎり、穏やかな気分にはなれないでしょう。どのような計画にも欠陥があるもので、必ず不満が残るものです。だから、君自身の幸福とか物質的な欲望を願っているとしたら、すべてが水泡に帰することでしょう。これは必ずしも金銭や財宝についてだけでなく、また名声や栄誉を望む場合でも同じことです。なぜなら、この世に属することはすベてこの世と共に過ぎ去るからです。(2:22:9~12)

    18 久保和男さん、播 稔さん、他16人
    コメント

    播 稔 人は名声も名誉も必ずすぎさります。神と一体一で向き合う時です。

    文屋 善明
    4月22日 6:50 ·

    <創世記8章のノアの洪水物語(復活節第2主日の日課)をイメージして>
    神悔いる世界の乱れ目に余り、地の全面を洗い清めり
    箱船を飛び出ししカラス役立たず、オリーブ銜え鳩帰還せり
    雲の中輝く虹が現れぬ、希望の光、平和の徴

    19 川田信子さん、久保和男さん、他17人
    コメント

    村田 多鶴子 一首目から「世界Earth Day」のこの日にピッタリの短歌たちですね~♪(^^♪

    文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
    4月22日 7:40 ·

    5年前のローズンゲンです。私がここで提案していることは、まだ実現していない。
    5年前
    この日の思い出を見る

    文屋 善明
    2012年4月22日 · 福岡県 宗像市 ·
    losungenj 2012.04.22(sun)
    わたしが彼らを増やす。数が減ることはない。わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない。(Jer30:19) イエスはたとえを用いて語った。「からし種は蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 (Mak4:32)
    私の黙想:
    人数を馬鹿にしてはいけない。人数は力である。それは政治的勢力だけではない。教会の礼拝も百人以上集まる場合と十人以下とでは全然違う。小さな礼拝にもそれなりの良さがある。従って「豊かな信仰生活」のためには、大小の礼拝の組み合わせが必要だろう。大型の店舗と小さな商店との組み合わせが豊かな消費生活を生み出す。

    11 久保和男さん、岡 輝美さん、他9人

    文屋 善明
    4月22日 10:46 ·

    昨日、テレビで国会放送を見ていたら、例の「共謀罪」を巡る議論で、法制局長への質問があったが、法制局長はその回答を官僚に任せて逃げた。それを阻止しようと数人の野党議員が回答席を囲んだが、そこに立っている官僚は、周りがどんにに騒いでいても、声が聞こえるか聞こえないかも関係なく、粛々と論述していた。その状況はまさにマンガである。
    私はそれを見ていて、これがまさに現在の官僚の典型的なスタイルだと思った。それが、どんな問題なのか、それを彼が答えることによってどういうことになるのか、全く関係なく、議長義から指名されたからその任務を行う。彼だって、普通の人間的な生活があるだろうし、恐らく東大出身だろうから、頭だってそんなに悪くないはずであるが、まさに「ロボット化」している。呆れて、もう何も言う気にならない。
    今朝のパノプティコンの住人4は、官僚の問題が取り上げられている。ぜひ読んで貰いたい。
    以下、今朝の新聞からのコピペ。
    (1強)第2部・パノプティコンの住人:4 自ら閉じこもる官僚(2017年4月22日)
    <ゴミ袋が消えた>
    首相官邸の裏のビルに国家安全保障局(NSS)がある。安倍晋三首相が外交・安全保障政策の司令塔として設置した国家安全保障会議(NSC)の事務局でスタッフは約70 人いる。
    数年前、ある男性はスタッフになることが決まった直後、こんな経験をした。
    「中には監視カメラがありますから」
    説明役の参事官から言われた。監視カメラはコピー機の近くを映すようになっている。採用が決まって数日、居酒屋や喫茶店に入ると、いつも近くに同じ人が座っていた。声をかけられるわけでもない。ただ、近くにいた。
    早朝、日課の散歩に出ると、日頃は見かけない場所に黒い車があった。自宅近くに戻ると、また同じ車があった。家族がゴミ袋を捨てた。自宅にもう一つの袋を取りに帰り、ゴミ捨て場に戻ると、直前に出していたゴミが消えていた。それも家族が捨てたものだけ。
    単なる思い過ごしや偶然かも知れないが、男性は気持ち悪さを感じた。
    NSSは、情報を漏らしたら罰せられる「特定秘密」を取り扱う。関わる公務員や民間人は「適性評価」を受ける。例えば、家族の国籍、飲酒の節度、病歴、借金の有無なども調べられる。情報漏れを防ぐため、管理を徹底することは組織の性格上、当然だろう。こうしたことは数日だけ。だが、最初に感じた気味悪さは、なかなか消えない。
    NSSで働くスタッフは携帯電話を持ち込めない。報道機関の記者からかかってきた卓上電話には出にくい雰囲気になり、居留守を使うスタッフがいる。
    <施錠続く執務室>
    徹底した情報管理はNSSだけに限らない。経済産業省で2月、職員へ二つの決定が周知された。執務室を日中も原則施錠すること、そして「プレス対応の改善」と題した内部文書だ。こう書いてある。「取材は、広報室を通じて申し込むことを原則にする」
    この措置の背景に、ある「事件」との関連性が、省内でささやかれている。
    2月の日米首脳会談に先立ち、朝日新聞など複数の報道機関が日米経済協力の検討案を報じた。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の資金活用などを盛り込んだ案で、経産省が関わっていた。
    報道が出た途端、野党から批判が噴出。首相は国会で否定の答弁に追われた。首相官邸幹部によると、この一件で菅義偉官房長官が経産省に対して激怒したという。
    世耕弘成経産相は記者会見で「個別案件とはまったく関係ない」と述べ、この件との関連性を否定。「企業情報や通商交渉に関する機微情報を扱っている。私が就任当初から問題意識を持っていた」と施錠の正当性を強調した。
    報道機関でつくる記者クラブ「経済産業記者会」は、施錠や内部文書の撤回を世耕氏に文書で求め、取材対応は一部緩和されたが、施錠は現在も続く。取材内容に関わる担当職員の在席が確認できず、取材は制約を受けている。
    経産省は通商産業省時代から、開け放たれた大部屋の入り口から他部署の職員や民間企業の社員まで入ってきて自由に議論を交わし、縦割りの弊害を減らす。そんな気風があった。今回の措置で、過去のものとなりつつあることを同省幹部は嘆く。「息苦しい。風通しのいい経産省はどこに行ったのか」
    別の幹部は「今回の対応について大臣や事務次官に官邸からの指示はなかった」と明かす。「1強」官邸におびえ、自ら内に閉じこもろうとする。「パノプティコン」の独房を自ら作るかのようだ。
     
    (註)パノプティコン もともとは監視者がいてもいなくても囚人が監視を意識する監獄施設のこと。転じて20世紀にフランスの哲学者フーコーが、権力による社会の管理・統制システムの概念として用いた。
    自動代替テキストはありません。

    25 播 稔さん、松井 信一さん、他23人
    コメント
    加藤 佑三¥加藤 佑三 全く今の政治家・自民党議員・官僚は酷いですね。

    文屋 善明
    4月22日 11:08 ·

    「昨日のFB 04/20」をブログにアップしました。

    BLOG.GOO.NE.JP

    14 久保和男さん、大野 泰男さん、他12人

    文屋 善明
    4月22日 14:21 · 福岡県 宗像市 ·

    昔の私の古巣の今。「日本クリスチャン・アカデミー」という名前が消えて寂しいです。
    関西セミナーハウス・修学院きらら山荘 Kansai Seminar House・Shugakuin Kirara Sanso
    宿泊施設 · いいね!396件

    横野 朝彦、宮脇 温子、呉 光現、木下 海龍

    14 小貫 ツマさん、徳善 義和さん、他12人

    文屋 善明さんが写真4件を追加しました。
    4月22日 16:20 · 福岡県 宗像市 ·

    今日の散歩道、トンボ君と会いました。枇杷の実が実り始めました。今後の成長が楽しみです。
    画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、自然、屋外

    34 川田信子さん、久保和男さん、他32人
    コメント

    加藤 佑三 香りの良い「フリージャ」と「糸トンボ」ですね。ビワの実と言い、観察の鋭さとシャッタ-チャンスの上手さに感服します(カメラも良いのかな)。

    文屋 善明 誉めて戴いて恐縮です。カメラは普通のスマホです。

    0 0

    第2章 弟子への最後の教え

    ここまで語るとイエスは一仕事終わった時に感じる、一種の安堵感と、これから嫌なことを言わなければならないという気持ちで、しばらく沈黙が続いた。ここから二つのシーンがある。

    シーン1 イスカリオテのユダ

    <テキスト13:21~27、30>
    語り手:イエスはこのことを話し終わると、何か思い悩んだ様子でしたが、意を決したように重い口を開き話し始めました。

    イエス:実は、あなた方のうちの一人が私を裏切り、売るでしょう。

    語り手:イエスのこの言葉は弟子たちを動揺させました。誰のことだろう、とお互いに顔を見合せました。イエスの席の隣に座っていた弟子、彼は普段から「イエスが愛している者」と呼ばれていましたが、ペトロはこの弟子に、「誰のことか尋ねよ」と目で合図をしました。その弟子がイエスの耳元でささやくように尋ねました。

    その弟子:先生、それは誰ですか。
    イエス:私がパンをスープにひたして与える者だ。

    語り手:そういうとイエスはパンを千切り、それをスープにひたし、イスカリオテのユダに与えました。するとその一片のパンと一緒にサタンが彼の中に入りました。それを見て、イエスは彼に言いました。

    イエス:あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい。

    語り手:イエスのその言葉を聞いて、ユダはイエスからパン片を受け取り、すぐに出て行きました。外は真っ暗な闇夜でした。

    教会的編集者の挿入:13:28~29
    <以上>

    (a) この場面はイスカリオテのユダの裏切りを公にした場面である。マタイ福音書では26:21、マルコ福音書では14:18、ルカ福音書では22:21に記録されている。いずれも最後の晩餐の席である。マルコとマタイではこれを聞いた時「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」という。ルカもほぼ同様である。共観福音書ではこの告知の前にすでにユダは行動していることを述べている。しかし他の弟子たちはそれを知らない。こういう場面で「まさかわたしのことでは」という心配をするということは、そうではないとは言い切れない何かを心に抱いているのであろう。ヨハネ福音書では、イエスのこの発言は唐突であり、ユダについてはこの食事会が開かれる前に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(Jh13:2)とだけ述べている。
    ヨハネ福音書ではここまでにイスカリオテのユダは2回登場しているが(Jh.6:71,12:4)、いずれの場合も「裏切る者」と言われている。まさに「裏切る者」というレッテルが最初から付けられている。
    ともあれ、この予告がなされた時、ヨハネ福音書では「誰か」とお互いに疑っているが、自分に対しては裏切らないと思っている。ここが共観福音書と異なる点である。

    (b) ここに登場するのが、イエスの隣に座っていた「イエスが愛している者」という謎の人物である。この人物と洗礼者ヨハネの弟子でアンデレともう人地の「無名の弟子」(Jh.1:40)とが同一人物かどうか明記されていない。ペトロは彼に無言で合図し、裏切り者は誰か訊ねさせる。その時、イエスは彼の質問に周囲にわからないように示す。私は、イエスが彼にだけこのような重要なことを教えたとは思えない。事実、この後もその人物か誰かということは明らかにされないまま、事態は進み、イエスは誰にも分からないように、ユダに「あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい」と語り、ユダはすぐにその席を離れて外出している。教会的編集者は、同席していたものは誰も彼が裏切り者だということに気が付かず、会計としての仕事をしてたという解説を挿入している。多分その通りでだったであろう。ここで重要なことは、イエス自身はユダの裏切りを知っていながら、そのことを他の弟子たちにはわからないように配慮していることである。にもかかわらず、「イエスが愛している弟子」にだけは暗示的にではあるが述べている。その理由が判らない。


    (c) シーン2 弟子への最後の教え

    ここからかなり長いイエスの説教が始まる。この部分は原本と教会的編集者の言葉とが錯綜しており、そのまま読むと何が何やらわからなくなる。

    <テキスト13:31、36~38、14:1~31>
    語り手:さて、ユダが出て行くと、それまで部屋の重苦しい空気が一変し、新しい光が差しこみ、何かが始まりそうだという空気に満たされました。

    イエス:今や人の子は栄光を受け、神も人の子も崇められるときが来ました。
    ペテロ:先生、あなたはどこに行かれるのですか。
    イエス:私が行く所に、今はあなたはついて来ることができません。いずれにしても、何時の日か、あなたはついて来ることになるでしょうが。
    ペテロ:先生、何故今すぐにあなたについて行くことができないのですか。私は自分の生命をあなたのために棒げる覚悟です。
    イエス:あなたはあなたの生命を私のために棒げると言われるのですか。それはありがたいことですが、本当のことを言うと、あなたは鶏が鳴く前に私を知らないと三度も言うことになるでしょう。
    あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方には究極的な安息の地が与えられているのです。私の父の家にはあなた方のために永遠に憩う場所が備えられています。そうでなければ、私はあなた方のために場所を用意しに行くと言ったでしょう。私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています。

    語り手:それを聞いたトマスは、イエスの言葉を中断して、質問しました。

    トマス:先生、あなたがどこに行かれるのか、私たちは知りません。それなのに、どうしてそこに行く道を知ることができるでしょう。イエス:私が道であり、真理であり、生命なんです。誰も私を通らずに、父のもとに至ることはできません。あなた方が私を知っているのであれば、私の父をも知ることなるのです。そして今からは、あなた方は私の父を知るでしょうし、それが父を見るということなのです。
    フィリポ:先生、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。
    イエス:こんなに長い間、あなた方は私と一 緒にいるのに、私のことがまだ分からないのかな。フィリポ、いいかい、私を見た人は父を見たのです。それなのに、どうしてあなたは父を見せてほしい、などと言うのですかね。私が父におり、父が私におられる、ということが、あなたは信じられないのですか。私があなた方に話す言葉は私が私の思いで話しているのではありません。父が、私の中におられる父が、働きかけ、私に語らせておられるのです。私が父の中に、また父が私の中に、ということについては、私を信じてください。私が信じられないなら、私の働き、私の生き方を信じればいいでしょう。
    これらのことについては、今はまだ十分に理解出来ないかも知れませんが、父が私の名において遣わして下さるであろう助け手、すなわち聖霊のことですが、あなた方にすベてのことを悟らせ、また私があなた方に言ったすベてのことをあなた方に思い起こさせて下さるでしょう。だからあなた方は何も心配することはありません。
    私はあなた方に平安を残していきます。それは私の平安です。私は、世とは違う仕方で、私の平安をあなた方に与えます。だからあなた方はどんなことが起こっても怯えないで、落ち着いていなさい。
    今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです。もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう。

    教会的編集者の挿入:13:32~35、14:3、12~25、28
    <以上>

    (a) 冒頭でイエスは
    「今や人の子は栄光を受け、神も人の子も崇められるときが来ました」と宣言する。この宣言を聞いてペトロはイエスがどこかに行くというように聞いたらしい。これまでにイエスはユダヤ人に対しても弟子たちに対して、誰もついてこれないところに出かけるという話をしている(Jh.7:34、8:21)。だからイエスの話を聞いて、いよいよその時が来たと思ったらしい。そこでペトロが弟子たちを代表して率直に「先生、あなたはどこに行かれるのですか」。「私が行く所に、今はあなたはついて来ることができません」と答えた上で、一言付け加える。「いずれにしても、何時の日か、あなたはついて来ることになるでしょうが」。弟子たちはイエスが行ける所なら、どこでも行けると思っている。それでペトロは自分たちの覚悟を語る。「先生、何故今すぐにあなたについて行くことができないのですか。私は自分の生命をあなたのために棒げる覚悟です」。これは弟子たち全員の率直な気持ちであったであろう。この言葉を聞いて、イエスの話は予定外の方向にそれてしまう。ペトロの裏切りを予告する。人間の覚悟とはそんなものである。しかしイエスの覚悟は違う。

    (b) ここからがイエスの説教の本題。
    「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方には究極的な安息の地が与えられているのです」。あなたがたの「究極的な安息の地」とは即ち「父の家」である。ここにあなたがたの居場所がある。このことは裏返すと、この地は何らかの使命を果たすために生きている場所、つまり派遣先であるということを含蓄している。
    イエスは「私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています」という。知っているはず、しかし知らない。このギャップは何処から生まれるのだろうか。理解力の問題ではなく「先入観」の問題。先入観を持って人の話を聞くと、その人が本当に言いたかったことが分からなくなる。この部分について、かなり長いが松村克己の解説を紹介しておく。
    <以下引用>
    「わたしの父の家にはすまいがたくさんある」。父の家にはイエスだけが住める場所しかないのではない。地上に天国をもたらすということは逆に言えば天国に多くのすまい持つということである。イエスはこのために来て、このために世を去らねばならない。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ」(Jh.16:7)。もしそうでなければ「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」とは言わなかったであろう。だから「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。「わたしがおる所」とは、父なる神と子なる神との交わりであり、イエスは人々をここへと招き、弟子たちにこのことを保証する。イエスとの交わりが弟子たちにとっては神との交わり、永遠を意味する。そしてこのことが人生の目標に他ならない。「また来て」とは復活ともとれるし再臨ともとれる。そしてそれは何れも本当であり何れをも意味する。復活以前においては再臨と復活とは一つのことである。復活が訪れて再臨はさらに待たれるものとなり、一つのものは二つに分かれた。わたしたちはこの二つの時の間を生きている。そして彼を信じる者、その弟子は信仰において彼と共にいるので「わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」とイエスは言う。
    このことをイエスは弟子たちに自覚させようとしたが、彼と共に在りながら、弟子たちは彼が言う信仰が何かということを悟ることができない。先生はそう言われるがわたしたちは先生の行き先を知らない、どうしてその道を知ることができるのか、とトマスは抗議した。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない 」。道・真理・生命の3つは形式的には並列されているが、中心思想は「道」で、真理と生命とは道をに対する畳みかけであることは間違いない。だからモハットはこれを「わたしは真にして生ける道である」と訳している。道はいうまでもなく父への道であり、この道を行くことによって真理と生命とが経験される(Heb.10:20)。真理とはそこで神がその真の姿において示されて出会われるということであり、生命とはそこで神が魂に生き生きと働くということである。イエスは一度彼らのもとを離れ、自由な恵みの霊として再び来ることによってこの本質を一層明瞭に発揮する。そのことを分からせるために、今、彼を信じる弟子たちの信仰がはっきりと自覚されていなければならない。信仰は静止しているものではなく、「信仰より信仰へ」(Rom.1:17)という姿でのみ生きる。そのことを彼は次の言葉によって弟子たちに確かめる。「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(Jh.14:7)。「神を見る」とは彼方の世で与えられる約束であって(1Jh.3:2)誰も未だこれを見たものはいない。この身のまま神を見るものは死なねばならないと言い伝えられて来た。「心の清い人々は神を見る」(Mt.5:8)。これは最大の祝福であるがこの世では不可能なことと考えられていた。にもかかわらず、イエスは「 わたしを見た者は、父を見たのだ」と言う。もちろん、この「見る」は外面的感覚的な「見る」ではない。イエスを霊的洞察によって見る、その人格の秘密を把えることが神を見るということである。そのためには「心の清さ」が必要である。「幼な児の心」「生まれたばかりの乳飲み子」(1Pet.2:2)の澄んだ眼が必要である。それは新たに、霊によって生まれた者の眼である。詩人は「あなたの光りによって光を見る」(Ps.36:9)と歌ったが、光である神を見るこの眼は神から賜わる信仰である。「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしに来ることはできない」(Jh.6:44)。この眼、この信仰の眼に神はキリストにおいて自らを馴染ませてくださる。従ってこの「見る」は単なる観想や傍観ではなく、精神的、倫理的要素を含んでいる。ヨハネ福音書においては「見る」「信じる」「知る」はほとんど同一の含蓄をもって相互に交換できる言葉である。「わたしたちに父を示して下さい」と願うフィリポの言葉は、余計な問いとしてイエスを悲しませたに相違ない。「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」と、イエスはフィリポに迫りつつ「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」 と問い返す。このことが理解できればフィリポは既に父を見ているのである。(中略)イエスはさらに言葉を継いで言う。わたしが語る言葉、わたしが行う行為は、「自分から」のものではなく「父がわたしの内におられて」なされているのである。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」。もしこの言葉がを信じられないなら、「わざそのものによって信じなさい」、とイエスはじゅんじゅんと訴える。イエスの心は次第に高揚して新しい真理を語り始める。
    <以上引用>

    (e) 以上で弟子たちに対するイエスの教えは次の言葉で終わる。
    「今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです」。この言葉はJh.14:1の言葉と響き合っている。「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」。「もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう」(Jh.14:30~31)。
    この言葉は、Jh.18:1に続く。

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    ヨハネ福音書第14章研究
    イエスの弟子たちに対する最後の教えと離別

    (参照:原本ヨハネ福音書研究より抜粋(第14章
    http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/7bf002645238fa292d15b1cd87f8bfa6 )

    ヨハネ福音書における、この部分はいわゆる「最後の晩餐」といわれる部分の後半部分で、「最後の教えと離別」と題される。実質的には13:31~14:31がひとくくりになっている。
    いわゆる洗足の出来事があって、食事が始まり、その途中でユダが食事会場から出て行ったところから始まる。
    ユダが出て行くのを見て、イエスのトークが始まる。途中、弟子たちの質問などがあるが、全体としてはイエスの話である。全体で39節あるが、その内の20節はいわゆる教会的編集者(以下ここでは「編集者」と略称する)の挿入句で、14:22のイスカリオテでない方のユダの質問以外は、すべてイエスの言葉である。原本の部分に関しては既に現代文化しており解説もしているが、挿入部分については手つかずのままであるので、今回この部分について分析を試みたい。なお、原本部分は私の個人訳であり、編集者による挿入部分は、田川建三訳に従っている。

    1.冒頭部分(13:31~35)
    イエスの「今や人の子は栄光化され、神も人の子において栄光化された」(31)という言葉を受けて、シモン・ペテロが「主よ、 あなたはどこに行かれるのですか」(36)とペトロが質問する。このイエスとペトロとの会話の間に編集者の言葉(32~35)が挿入される。
    もしも神が彼において栄光化されたのであれば、神もまたみずからにおいて彼を栄光化するであろう。そしてすぐに、彼を栄光化するであろう(32)。
    子らよ、まだ少し、私はあなた方とともにいる。あなた方は私を捜すであろう。そして、ユダヤ人たちに私が言ったように、 私が行くところにあなた方は来ることができない、ということを、今、あなた方にもまた言うのである(33)。
    新しい戒命をあなた方に与える。互いに愛しあう、という。私があなた方を愛したように。あなた方もまた互いに愛しあう、という。 その点において、(すなわち)もしもあなた方が互いにおいて愛を持つならば、 あなた方は私の弟子である、ということをすベての人が知るであろう(34~35)。
    編集者は31節のイエスの言葉が読者に伝わらないと感じたらしく、それを32節で説明しているつもりであろう。イエスの言葉を直訳すると、「今や人の子は栄光化され、神も人の子において栄光化された」(田川訳)。これを岩波訳(小林稔)では「今、人の子が栄光を受け、彼において神が栄光をうけた」である。カトリックのフランシスコ会訳では「今こそ、人の子は栄光を受けた。神もまた人の子によって栄光をお受けになった」で、ほとんど同じであるが、問題は「今や」をどう解するのか。ユダが出ていった「今」なのか、ユダが出ていくことによって「何かが始まる今」なのか。ともあれ、ここでの「今」はイエスがズッと待ち続けていた「私の時」(2:4)なのか。恐らく後者であろう。カナの婚礼の場での奇跡が行われたとき著者は「みずからの栄光を顕わした」(2:11)。しかしあの時の栄光(ドクサ)の顕れとは、未だ「私の時」ではないという場面での栄光であった。それを著者はイエスが行った「最初の徴」という。ところが13:31では「人の子は栄光化された(ドクサゾー)」という。この「栄光化」という動詞をどう解釈するか、これだヨハネ福音書を解釈する場合の一つの問題である。田川はドクサゾーをドクサ(栄光)という名詞を他動詞化したもので「〜〜に栄光を与える、栄光を帰する」という意味であるという。通常ではこういう場合にドクサという名詞に「与える」とか「顕す」という動詞と組み合わせて用いるが、ヨハネはイエスの場合に限ってドクサゾーという言葉を用い、「栄光ある存在そのものにする」という意味に用い、「復活させる」とほとんど同じ意味に用いられている、という(p.392)。
    従って、13:31では、それがさらに受け身形にされている。かなりぎこちないが直訳風に訳すと、「人の子は栄光そのものとされ、神も人の子において栄光そのものとされた」という意味となる。ところで「栄光化する」ということは突き詰めた意味は、誉める、誉め称える、栄誉を授ける、崇める、評価するという意味である。それを神に対して限定的に用いる場合、神を神とする、神を神と認めるという意味に他ならない。この場合、神については「人の子において」という言葉があるが、人のこの場合には誰によって栄光そのものとされたのが欠けている。それで編集者は「神が人の子において栄光あるものとされたのであるならば、神もまた神自身において人の子を栄光あるものとし、同時に神自身をも栄光あるものとしたのだ」と解説している。(ここでの代名詞と能動態受動態の使い分けが非常に曖昧である)。
    つまり13:31の意味するところは、「人の子は神であると認められた。そして神も人の子において神と認められた」という意味であることは明白である。ちなみに、この理解を1:14の「そしてロゴスは肉となった。そして我々の間に住まった。そして我々は彼の栄光を見た。父の傍らでの一人の子としての栄光である。恵みと真理に満ちて」というヨハネ神学を凝縮した言葉は、「我々は彼の栄光を見た」という言葉は「彼が神であることを見た。父(なる神)の傍らでの一人の子としての神である」と読むことになる。
    そして33節は36節以下のペトロの質問へと繋ぐセリフとなっている。このセリフがないと36節のペトロの質問は唐突で、イエスの言葉とちぐはぐになる。その意味から見ると、33節は原本に属すると見ることが自然ではあるが、ここで用いられている「子らよ」という表現は原本にはなく、むしろ編集者の好みのセリフである。従って元々あった言葉を改変したか、あるいは編集者が自らの判断でこのセリフを挿入したかである。私はむしろ後者に近いのではないかと思っている。
    34節~35節の「新しい戒め」という言葉遣いは明らかに旧約聖書における律法に対するイエスの律法という意味であり、この語をこういう意味で用いるのは編集者の特徴である(14:15、21、15:10以下)。しかし、この文章はいかにも唐突でこの文脈にはなじまない。明らかにこの文章を除く方が文章の流れはスムーズである。なぜ編集者はこの言葉をここに挿入したのだろうか。その理由は分からないが、考えられる一つの理由は、洗足の出来事の際の教え(13:13~15)と14:21節以下の編集者の挿入とを繋ぐの伏線だろうと思われる。

    2.シモン・ペトロの質問(36~38)
    36節のシモン・ペトロの問いは、33節の言葉がないと唐突である。むしろ、唐突であることに意味があるのではないだろうか。つまり31節のイエスの言葉をペトロは理解できなかったのではなかろうか。しかし、ここ3年間の付き合いの中で、イエスには弟子たちには理解できない何かがある。出会った当初から、「その時が未だだ」という言葉が繰り返されてきた。そして、今は「その時」は近いと感じている。とくに洗足の出来事はイエスとの別離を予感させたのであろうと思う。これまでの付き合いの中で分からなかったことの一つが、ヨハネ7:32以下での出来事である。あの時は、仮庵の祭で町は大変に賑わっており、ユダヤ人のリーダーたちは、イエスの動きに何か異常さを感じ非常に緊張していた。そのために下役がイエスを逮捕するために派遣された。あの時、イエスは「あなたたちでは私を逮捕することができない」と語り、「しばらくはここにいるが、その内姿を消す」と言われたのである。そして「あなたたちは私を探しても私を見つけることができない」と意味深長なことを語っている。それをペトロたちも聞いている。イエスにはどこか「隠れ家」があるのじゃないかということが、その時問題になっている。これがイエスの謎である。だから何かが起こるとき、イエスはどこかに行かれる。それがどこか弟子たちにも分からない。だからギリシャ人がイエスに会いに来たときのイエスの姿勢といい(12:20~)、弟子たちの足を洗ったときのイエスの語りといい、いよいよ「その時が来た」とペトロは感じていたにちがいない。それで、イエスが意味不明なことを打ち明けられたとき、ペトロは、「どこに行かれるのですか」という質問になった、と私は思う。ところが、その時のイエスの返事が、ペトロの気持ちを逆なでするような言葉であった。それが36節~38節である。

    3.「その場所」(1~3)
    その上で、イエスは非常に重要なことを語られた。「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方は究極的な安息の地が与えられているのです。私の父の家にはあなた方のために永遠に憩う場所が備えられています。そうでなければ、私はあなた方のために場所を用意しに行くと言ったでしょう」(14:1~2、文屋訳)。ここまでが原本ヨハネ福音書のイエスの言葉である。ここで編集者は彼の解釈(3節)を挿入する。「そしてもしも私が赴いて、あなた方のために場所を用意するのであれば、私は再び来て、あなた方を私自身のところに引き取るであろう。私がいるところに、あなた方もいるためである」。
    イエスは、もう既にその場所は準備できている、と言っているのに、編集者は、それを将来のこととして説明する。つまり、イエスはこれから、そこに行って場所を準備し、それから迎えに来ると言うのである。ここには明らかに初代教会における再臨信仰の匂いがする。イエスの言葉は4節に続く。
    「私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています」(4節)。
    それを受けて、トマスの質問が発せられる。ここから11節までの原本の言葉である。ここにあの有名な「私が道であり、真理であり、生命なんです」(6節)という言葉が含まれている。

    4. 「助け手なる聖霊、真理の霊」(12~25)
    次に編集者の挿入句が現れるのは12節から25節まで。かなり長い。もはや、挿入句というレベルを超えて編集者の演説みたいなものである。この部分は以下のように5つの部分に分けられる。

    (1)「アメーン、アメーン、汝らに告ぐ、私を信じる者は、その者もまた私がなす業をなすであろう。そしてそれよりもっと大きな業をなす。私が父のもとに行くからである。そしてあなた方が私の名において求めるものがあれば、私がそれをなすであろう。子において父が栄光化されるためである。もしもあなた方が私の名において私に何かを求めるならば、私がそれをなすであろう。もしもあなた方が私を愛するならば、私の戒命を守るがよい。(12~15)
    この部分は明らかに10節~11節のイエスの言葉を発展させている。イエスの行う行為はすべて父なる神の意志であり、父なる神の行為と見なすことができる。この理屈をイエスの弟子たちが行う行為に当てはめて、「イエスにある」限り、弟子たちの行為はイエスの行為と見なされるのだ、と展開させている。

    (2) 私もまた父に頼んで、他の助け手をあなた方に与えるであろう。その助け手はあなた方とともに永遠にいることになる。 それは真理の霊、世が受けることができないものである。世はそれを見ることも認識することもないからである。あなた方はそれを認識する。それがあなた方のもとにとどまり、あなた方の内にあるからである。(16~17)
    「イエスにある」とは一体どういうことか、ということで、ここで初めて「助け手としての聖霊」についての論述が展開される。ここで「助け手」と訳されている言葉は「パラクレートス」で、口語訳では「助け主」、新共同訳では「弁護者」で、もともとの意味は「助けてくれー」と叫んだときに助けてくる者を意味する。聖霊をパラクレートスと述べているのはヨハネ文書だけである。イエスご在世の時はイエスが助け手であるが、イエスは世を去る。それで聖霊は永遠に存在する助け手となる。また、ここでは聖霊を「真理の霊」とも言う。これもヨハネ独自の聖霊論である。興味深い点は、ヨハネ第1の手紙では「真理の霊」と「人を惑わす霊」(1ヨハネ4:6)とが対比されている。
    恐らく編集者は、この部分を書きながら、その不十分さを強く感じていたのかも知れない。この部分を本格的に論じているのが15章であると想像される。

    (3) 私はあなた方を孤児として放棄することはしない。あなた方のところに来る。もう少しすると、世も私を見ることができなくなるだろう。しかしあなた方は私を見る。私が生きており、あなた方も生きているからである。その日にはあなた方は、私が私の父の中におり、あなた方も私の中におり、私もあなた方の中にいる、と知るであろう。私の戒命を持ってそれを守るものは、私を愛する者である。私を愛する者は私の父によって愛される。そして私もその者を愛し、その者に私を示すことになる」(16~21)。
    父(なる神)と子と、弟子たちとの関係が「の中にいる」ということで論じられる。その関係を成立させているのが聖霊である。

    (4) 彼にイスカリオテ人ではない方のユダが言う、「主よ、あなたが我々には御自身を示そうとし、世に示そうとはなさらないということが、何故生じたのですか」(22)。
    弟子の一人、イスカリオテでない方のユダの質問は弟子たちの特殊な立場についてで、弟子以外のものとの違いについてである。「イスカリオテでない方のユダ」が登場するのは新約聖書全体でもここだけである。

    (5) イエスは答えて、彼に言った、「もしも私を愛する者がいれば、その者は私の言葉を守るであろう。そして私の父もその者を愛し、私たちは彼(=神)のところに来たり、彼(=神)のもとで自分のために滞在場所を作るであろう。 私を愛さない者はわたしの言葉を守らない。そしてあなた方が聞くことはわたしの言葉ではなく、私を遣わし給うた父の言葉である。これらのことは、私があなたがのもとに居た時にすでに語ったことである(23~25)。
    弟子たちとこの世の人々との決定的な違いとは「愛」である。つまり上で述べた、「の中に」とは愛なのである。この辺りは明らかにヨハネ第1の手紙の神学である。
    聖霊論と愛の神学を語ったところで、26節のイエスの言葉につなげる。11節から26節に直接繋ぐと次のような文章になる。
    「私が父の中に、また父が私の中に、ということについては、私を信じてください。私が信じられないなら、私の働き、私の生き方を信じればいいでしょう。
    これらのことについては、今はまだ十分に理解出来ないかも知れませんが、父が私の名において遣わして下さるであろう助け手、すなわち聖霊のことですが、あなた方にすベてのことを悟らせ、また私があなた方に言ったすベてのことをあなた方に思い起こさせて下さるでしょう。だからあなた方は何も心配することはありません」(文屋訳)。非常にスムーズな文章になる。

    5.締めくくりの言葉(27~28)
    27節の言葉「私はあなた方に平安を残していきます。それは私の平安です。私は、世とは違う仕方で、私の平安をあなた方に与えます。だからあなた方はどんなことが起こっても怯えないで、落ち着いていなさい」は、14:1の「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい」で始まる一連のトークの結びの言葉として相応しい。
    ここに編集者は次の言葉を補う。
    「私は去り、そしてあなた方のもとに来る、と私があなた方に言ったのをあなた方は聞いた。もしもあなた方が私を愛しておいでだったら、私が父のもとに行くことを喜んだことであろうに。父は私よりも大いなる者であるからである」(28)。
    ひと言で言って、言わずもがなの無駄な加筆である。29節以降のイエスの言葉だけで十分である。
    「今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです。もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう」(29~31)。

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