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Channel: ぶんやさんち
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昨日のFB 04/20

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お早うございます。主の平和。昇天日の説教を考える。昇天とは向こうに親しい人が行く感覚。それで天国を身近に感じること。昇天と再臨とか関係づけられている。昼食後、昼寝1時間(OTB)。田川のヨハネ福音書14章の釈義。「栄光化する」という言葉をどう解釈するか。釣川堤防散策。ポケモンはレベル19に。夕食後、「警視庁9係」、報ステを見て10時半に就寝。6時起床。体温:36.3、血圧(136:68、79)、体調・快調、チュン、チュン

26 杉浦 紀明さん、小貫 ツマさん、他24人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

東山 富昭 おはよう😃ございます。身体の状態は、かわりばえはしません。今日も、主なる神と主イエス・キリストにあって、よろしく、お願いします。

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りです。守られますようにお祈りします。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

文屋 善明
4月20日 6:06 ·

お目覚めの花。「今朝はご近所の門前の花水木。まだ一寸早い。しかし、これを見たとき、あまりの美しさに思わずドキッとしました」。(青い空によく似合います)
画像に含まれている可能性があるもの:空、植物、木、雲、屋外、自然

42 佐藤 静代さん、吉村 伸さん、他40人
コメント
佐藤 静代佐藤 静代 我が家の花水木は少しずつ枯れ始めました。原因不明で心配しています。
画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、家、屋外、自然

文屋 善明 心配ですね。

岡 輝美 実家に赤と、白の、花水木あるのですが、これも、少しずつ枯れてきて、小さくなってます。ねっきり虫じゃないか?と思います

佐藤 静代 以前は枝が見えないほど繁っていましたが、我が家のシンボルツリーなのに。

文屋 善明
4月20日 6:25 · 福岡県 宗像市 ·

2017 日々の聖句 4月20日(木)
心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。(1サムエル7:3)
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。(フィリピ1:27)
私の黙想:
この句だけを取り出したら、まるで「イミタチオ・クリスチ」の言葉のようだ。ただし、サムエルが言いたいことは、この文章の前にある言葉である。「あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き」。要するにイスラエルの民は強力な隣国、ペリシテ族に占領され、重要な「神の箱(筺)」まで取り上げられ、異教の神を押しつけられて、20年を経過したいた。なんだかんだあって、「神の箱」をもてあましたペリシテが神の箱を送り返してきた。その時の、預言者サムエルの言葉である。いわば「民族刷新」という場面である。
ここで注目すべき言葉は、2節後半の「イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた」という言葉である。このことが切っ掛けになり、イスラエル人たちは自分たちの「王」を求めるようになる。「主を慕い求める」ことが「王」を求めることになるというところに、今後の展開の鍵がある。

25 川染 三郎さん、杉浦 紀明さん、他23人

文屋 善明
4月20日 6:33 · 福岡県 宗像市 ·

今日の名言:@kotoba_bot
何かをしたい者は手段を見つけ、何もしたくない者は言い訳を見つける。(不明)
<一言>面白い言葉だ。いろいろな場面を想像することができる。問われていることは「したいのか、したくないのか」。したいと思えば、必ず道は拓ける、啓ける。したくないのなら、何でも「言い訳」になる。大臣にはなりたいけれど、大臣の仕事をしたくない。こういう場合、どういう言い訳があるのか、考えてあげて。「エッ、嫌だって。それじゃ、何か言い訳を考えてよ」。

29 川染 三郎さん、杉浦 紀明さん、他27人
コメント

楠 真理子 わたし言い訳うまいんです。w

文屋 善明
4月20日 6:43 · 福岡県 宗像市 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第21章 心の進歩のために(B)
修道者:
主なる神よ、人間の完成、完全な人間になれますか。(2:21:11)
キリスト:
愛する者よ、大丈夫、君はただ全身全霊をもって主の御心を行うことに専心しなさい。大きなことでも小さなことでも、その場限りのことでも、永遠に残ることでも、私利私欲を求めず、どんなことでも我を主張しないこと。そうすれば、どんな状況になっても落ち着いて対処し、逆境でも順境でも同じように感謝することができるようになります。あとは忍耐さえすれば、全てのことを主の御旨に従って生きることができます。
たとえあなたの希望がどんなに難しいことであっても、たとえ心の慰めが取り去られても、さら大きな苦難に対する心備えをし、自分はそんな苦難を受ける覚えがないなどと、言い張らず、愛と感謝の心で、私のすることなら何でも、私を神だと信じるならば、その時あなたは平安への一路を真に歩んでおり、またあなたは喜びに満ちた心をもって私の顔を見上げることができると信じなさい。
そうしてあなたが全く自分をさげすむ状態に達したならば、その時あなたはこのみじめな世において味わい得る最大の豊かな平安をうけることができると確信しなさい。(2:21:12~14)

18 杉浦 紀明さん、辻本 昌弘さん、他16人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月20日 7:46 ·

5年前のローズンゲンです。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月20日 · 福岡県 宗像市 ·
losungenj 2012.04.20(fri) 
人々が、代々に御業をほめたたえ、力強い御業を告げ知らせますように。(Ps145:4) 目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこその人々をいやされた。祭司長たちや、律法学者たちは、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立てた。(Mat21:14-15)
私の黙想: 
「力強い御業」を告げ知らせるということ。私たちの様な小さな弱い存在が告げ知らせるということ。果たしてその必要があるのだろうか。もしあるとしたら、神の御業は人々には見えない場合である。私達は天地万物の美しさ、不思議、それが神の御業だとただ賛美するだけである。

9 村田 多鶴子さん、杉浦 紀明さん、他7人

文屋 善明
4月20日 8:57 ·

「昨日のFB 04/18」をブログにアップしました。

昨日のFB 04/18 - ぶんやさんち
今日の名言:@simoneweil_bot にせものの神は、苦しみを暴力に変える。真の神は、暴力を苦しみに変える。(シモーヌ・ヴェイユ)…
BLOG.GOO.NE.JP

7 辻本 昌弘さん、川染 三郎さん、他5人

文屋 善明
4月20日 12:27 ·

偽新婦偽新郎と偽牧師 仙明

36 髙橋 和廣さん、川染 三郎さん、他34人
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コメント

松沢 直樹 なんだか、とんでもない話になってますね。あの方が、経産省のナンバー3ってのは。

Mizota Michael Satoshi あり得ることです。「届」を受け取るお役所もニセモノであれば完成された虚構世界であり、それはそれでうまくできており、もはや言うことはありません。

橘 智 先生、シェアさせてください!

文屋 善明 どうぞ

橘 智 ありがとうございます!

文屋 善明
4月20日 14:00 ·

偽新郎と偽新婦は何となく分かるが、例えば国法に従って入籍するとか、しかし偽牧師っていったい何ものなんだろうか。牧師が牧師であるという証明は何だろう。神学校を卒業していたら牧師なのか。仲間内で「お前は牧師だ」と言えば牧師なのか。その仲間内とは何だろう。結婚式場の経営者が、「お前を牧師として雇う」といえば牧師なのか。そもそも偽牧師はあり得るのだろうか。

35 佐藤 静代さん、藤木 冨士子さん、他33人
コメント

橘 智 偽牧師、あると思います。

羊のいない羊飼いがないのと同じかと。

石田 聖実 イエスさまから「わたしの羊を飼いなさい」と託された者が牧師でしょう。
しかしこれはパウロは使徒かという問いと同じだと思います。

中尾香鶴子 結婚式場におられる牧師様はどこから来られますか?結婚式は日曜日とかに多いですが日曜日なら礼拝があるはずですがなん組もの結婚式を行えるのはなぜですか?

文屋 善明 いろいろなケースがあり、ここでは、それらをすべて取り上げることはできません。

中尾香鶴子 分かりました。ありがとうございます。

小林 由紀子 白人男性がチャペルを模した結婚式場でバイトで雇われてにわか牧師やにわか神父になる例があるとか?白人だと箔がつくとか?未信徒がキリスト教で結婚式を挙げることまで反対するわけではない。一定期間の学びを得てからならば。時に叶って神様が信仰に導いて下さるかもしれません。

中尾香鶴子 そうなんですか❗お葬式や法事には仏教でお坊さんに頼み、結婚式ではキリスト教で牧師様や神父様に頼むのが不思議でなりませんでした‼

播 稔 わたしは 牧師だといえば その人は牧師になります。ただ宗教法人になるのは難しいと思いますが。

石田 聖実 そもそも結婚式場でクリスチャンでないカップルが結婚するために「牧師」が必要か?
司会者という職業があるのだから、「司式者」でいいのではないか?

松木田 博 御意。そもそも神を信じる信仰をもたないのだから、「本物の牧師」である必要がないのでは?と私も常々思ってる。

霜山 雅也 「ナンチャッテ牧師」ですね!(笑)

文屋 善明 何しろ私は路傍伝道から伝道者としての人生を始めましたから、どんなチャンスでも伝道の機会だと思っています。だから結婚式というようなその人の人生の重要ポイントに立ち会って奉仕ができるということはとてもうれしいことです。ということが、ワンポイント。それだけに偽牧師がそこにいるということが、そもそも(基本的に)堕落だと思っています。それがもう一つのポイント。結婚式場におけるいわゆる「キリスト教式の結婚式」には怒りさえ感じますが、それはそれ。私が提起した「牧師とは何か」という問題は、そういう次元の問題ではありません。日本社会において「牧師」という職業が何を根拠としているのか。結局、それはその人が属する組織の規定によると思います。裁判などの場面で「牧師」という場合の宗教法人の規則が問題になります。そして日本の司法は宗教法人の内部規定には立ち入らないという原則があります。だからその組織・団体が牧師であると認定したら牧師です。だから、株式会社が「牧師」として雇えば牧師です。牧師の「歴史的伝承」にはあえて触れませんでした。

石田 聖実 株式会社が「牧師」として雇えば牧師でいいのか?というところですね。一般的通念として、牧師や僧侶・神職は「宗教家」であり、営利企業によってオーソライズされるものではないのではないでしょうか。
(もっとも宗教団体は金儲けの団体だと見られているというのはあるかも知れません。)
司法は宗教法人の内部規定には立ち入らないけれども営利企業には立ち入るのではないかと思います。

Mizota Michael Satoshi 歴史的伝承によれば、プロテスタントは株式会社化したほうがいいかもとか。。。

三宅 善信 私のように、神学校を卒業していても牧師じゃない人も居ます。
 日本の「結婚式場」で司式をしている片言の日本語を話す「見た目が外国人」の牧師や神父って、すべて「偽物」だと思っていました。

Mizota Michael Satoshi 神学校を卒業して神主とか。その実例も確かに。。。

Mizota Michael Satoshi ついでにキリスト教団の教師試験を受けてみるとか。教団当局がどう考えるかも興味深いですね。。。

藤木 冨士子 日本では基準ははっきりしてないですね。神学校卒業してない牧師も知ってますし。見えない神様からの資格でしょう。アメリカにはあるらしいですね。

今週のローズンゲン 2017/04/16~04/22

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今週のローズンゲン 2017/04/16~04/22

2017 日々の聖句 4月16日(日)
人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。(詩90:10)

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(1コリント15:54~55)

私の黙想:
今日は復活日。今日の聖句は新約の方は確かに復活日を意識しているが、旧約の方はどうだろう。それはともかく、私個人にとっては80才の復活日を迎えることができたことが先ず感謝である。そして、その80年を振り返って労苦と災いは多かったと思うが、決して「瞬く間」ではなかった。その一瞬一瞬は有意義であったし、まぁ一部まずいところや失敗も結構あるが、誇りにできる。それは私の個人的な幸運というよりも、両親から始まって多くの人たちの支えによることも事実である。
アッ、ここか。復活日に関係するのは「わたしたちは飛び去ります」。要するに死ぬということなんだけど、それを「飛び去る」とはどういうことなんだろう。新改訳の詩78:39によれば「吹き去る」。要するに神の目から見たら、「吹けば飛ぶような人生」だったということであろう。こんなところで「神の目」は不要である。私の人生は決して「吹けば飛ぶような人生」ではなかった。イエスの人生は30年、もう少し厳密に考えてもせいぜい33年。私の人生はその2倍はある。内容の重さを比べることはできないが、まぁまぁ、というところでしょうか。私自身は復活するかどうか、それは分からないし、知ろうとも思わない。これで十分だ。

2017 日々の聖句 4月17日(月)
主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。(エレミヤ8:4)

イエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)

私の黙想:
倒れて、起き上がれない者は大勢いる。離れて、立ち帰らない者も沢山いる。従って、今日の聖句は現実を無視している。いや、無視しているのではない。5節では、その現実を述べている。「どうして、この民エルサレムは背く者となりいつまでも背いているのか。偽りに固執して立ち帰ることを拒む」。つまり、神を信じない世界はその通りだという。神がいない世界では、倒れた者を起き上がらせる者もいないし、離れた者を立ち帰らせる者もいない。この言葉の中に、神自身の叫びが聞こえる。そこに倒れている者、正道から外れている者がいるのに、誰も助けないのか。現実をよく見ていると、お互いがお互いに心を開いて話し合っていない(6節〜8節)。預言者はいないのか、祭司はいないのか。司祭はいないのか、執事はいないのか。それじゃ仕方がない、私はサマリア人を立ち上がらせて彼らを救おう。

2017 日々の聖句 4月18日(火)
順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せ造られた、と。(コヘレト7:14)

パウロの手紙:いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:12~13)

私の黙想:
今日の聖句は面白い。順境には何も考えずにただ楽しめ。逆境には考えよ。何しろ楽しめないのだから考えるしかない。「良いときもあるさ、悪いときがあってもしょうがない。何しろ創造者が人間には未来を予測する能力をお与えにならなかったのだから。そのことを悟るために、順境と逆境とがあるんだ」と。口語訳、フランシスコ会訳、新改訳、一寸づつ違うが、そんなことは小さいことだ。この文の前後とは少々異なっている。要するに、神の意図なんか人間に分かるもんじゃない、という人間の知恵と神の知恵との根比べのようなものである。その中で「将来のこと」となると人間にはお手上げだ。文語訳がもう一つ面白い。「神はこの二つをあひ交錯(まじへ)て降したもう」。良いことと悪いこととが入り混ざって降る。「悪い状況においてもその中に良いこともあるさ、その逆に、良い状況においても悪いこともあるよ、だから気を付けなさい」。これが持っても現実に近いのではないか。

2017 日々の聖句 4月19日(水)
お前たちは、ただ隣人や兄弟の間で互いに、「主は何とお答えになりましたか。主は何とお語りになりましたか」とだけ言うがよい。(エレミヤ23:35)

あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。(コロサイ3:1)

私の黙想:
今日の聖句、ただこれだけを取り出しただけでは何のことか分からない。文脈を読むと非常に面白い。要するに「主の託宣(言葉)」の取り合いだ。いろいろな立場の人間が、自分勝手に、それぞれの思いつきを「主の託宣だ」という。誰かが「これが主の言葉だ」というときには先ず、それを信じてはならない。要するに今日の聖句は、偽預言者たちの言葉に対して、その言葉の出所を確かめろ、という意味である。本当にそれは主から出て来た答えなのか、主の言葉なのか。これは難しい。その人が「主の言葉だ」と言ったら、それを信じていいのだろうか。そんなはずはない。それでは「主の言葉」とは何か。ここで一種の言葉遊びがある。主の言葉とは「マッサ」である。その言葉は同時に「重荷」を意味する。だからややこしい。「主のマッサ(託宣)とは何か」「お前たちこそが主のマッサ(重荷)だ」。さて、これをどう解釈するか。問いは哲学的な問いとなる。「だから主はお前たち(マッサ)を捨てる」という。預言者エレミヤは主がイスラエルを捨てた」というメッセージを語る。さぁ、これにどう反応するか。今日の黙想は問いかけで終わる。

2017 日々の聖句 4月20日(木)
心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。(1サムエル7:3)

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。(フィリピ1:27)

私の黙想:
この句だけを取り出したら、まるで「イミタチオ・クリスチ」の言葉のようだ。ただし、サムエルが言いたいことは、この文章の前に言葉である。「あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き」。要するにイスラエルの民は強力な隣国、ペリシテ族に占領され、重要な「神の箱(筺)」まで取り上げられ、異教の神を押しつけられて、20年を経過したいた。なんだかんだあって、「神の箱」をもてあましたペリシテが神の箱を送り返してきた。その時の、預言者サムエルの言葉である。いわば「民族刷新」という場面である。
ここで注目すべき言葉は、2節後半の「イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた」という言葉である。このことが切っ掛けになり、イスラエル人たちは自分たちの「王」を求めるようになる。「主を慕い求める」ことが「王」を求めることになるというところに、今後の展開の鍵がある。

2017 日々の聖句 4月21日(金)
(それで)王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」(ダニエル6:17)

虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(2コリント4:9)

私の黙想:
今日の聖句はバビロンの王がダニエルに言った言葉。この言葉の重要ポイントはダニエルはいつも拝んでいたということ。「拝む」という言葉を新共同訳以外の邦訳はほとんど「仕える」と訳している。「拝む」と「仕える」とではレベルが異なる。「拝む」は個別的な行為であるが、「仕える」は生き方の問題である。ここで王が「仕える」という言葉を使っているのは意味深長である。ダニエルは「王に仕える」のが仕事であり、生かされている理由である。そのダニエルが王以外のものに「仕えている」。王は自分と「ダニエルの神」とを同レベルにおいている。実はここで王はダニエルをなんとか救い出そうとしたが、力不足で救い出すことができなかった。それで王はダニエルに王いう言い方をしたのであろう。

2017 日々の聖句 4月22日(土)
主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。(ミカ7:9)

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。(ルカ24:30~31)

私の黙想:
旧約聖書の聖句を見て、新約聖書の聖句と比べて、ローズンゲンの編集者が旧約聖書の聖句の意味をそういう意味に解したのかと、思う。
ミカ書については預言者イザヤの時代の田舎の預言者としてしか知らないが、民族存亡の危機において都市部の裕福なかいそうに対する鋭い批判者である。しかし、ミカ書4章以下の預言はミカ以外のものの言葉とされる。むしろここでは民族復興、再生の預言が多く語られる。今日の言葉の時代背景は10節、11節に次のようの述べられている。恐らく、バビロン捕囚語の祖国復興の状況であろう。
「お前の神、主はどこにいるのか」とわたしに言っていた敵はこのことを見て恥に覆われる。わたしの目はこの様を見る。今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる。あなたの城壁を再建する日それは、国境の広げられる日だ。暗かった日々は過ぎ去り新しい時代の夜明けの情景である。
今の日本の状況と重なる。日本は世界から馬鹿にされて当然の状況である。まさか、「お前の神、主はどこにいるのか」という言葉を神国日本と重ねるわけではないし、「日本の神はどこにいるのか」と解釈するわけではないが、今の、そしてこれからの日本を建てる国是は何か。戦争なき、核なき、平和の実現に貢献する日本である。

昨日のFB 04/21

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お早うございます。主の平和。家内は整骨院へ。私はもっぱらヨハネ14章と取り組む。大枠が完成。昼食後、昼寝1時間(OTB)。釣川堤防散策。夕食後、天海祐希主演の「緊急取調室」、報ステを見て10時に就寝。6時起床。体温:36.2、血圧(130:61、80)、体調・快調、チュン、チュン

23 播 稔さん、佐藤 静代さん、他21人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
薄曇りの空を観ながら、苦手な歯医者さんの日なので?心はどんより厚い雲がかかっているような…。
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

東山 富昭 おはようございます😃。今日は、雨です。週末の予定はありますが、身体の状態はかわりばえはしません。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

文屋 善明さんが写真2件を追加しました。
4月21日 6:34 ·

お目覚めの花。「もう金曜日だ。忙しいなぁ」。(今日の花は駅前の花壇のスミレ黄色と紫)
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、自然、屋外

32 播 稔さん、山本 友美さん、他30人

文屋 善明
4月21日 6:50 ·

2017 日々の聖句 4月21日(金)
(それで)王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」(ダニエル6:17)
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(2コリント4:9)
私の黙想:
今日の聖句はバビロンの王がダニエルに言った言葉。この言葉の重要ポイントはダニエルはいつも拝んでいたということ。「拝む」という言葉を新共同訳以外の邦訳はほとんど「仕える」と訳している。「拝む」と「仕える」とではレベルが異なる。「拝む」は個別的な行為であるが、「仕える」は生き方の問題である。ここで王が「仕える」という言葉を使っているのは意味深長である。ダニエルは「王に仕える」のが仕事であり、生かされている理由である。そのダニエルが王以外のものに「仕えている」。王は自分と「ダニエルの神」とを同レベルにおいている。実はここで王はダニエルをなんとか救い出そうとしたが、力不足で救い出すことができなかった。それで王はダニエルに王いう言い方をしたのであろう。
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23 播 稔さん、山本 友美さん、他21人
コメント

門叶 国泰 同意!「いつも」ですね。

文屋 善明 そうですね「いつも」ですね。

文屋 善明
4月21日 6:57 ·

今日の名言:@Wilde_meigen
男は必ずしもその行為で評価してはならない。法律を守っているが、つまらない男がいる。法律を破ってなおかつ、立派な男もいる。(オスカー・ワイルド)
<一言>そして最もつまらない男は、法律を破ってはいないが悪いことをしている男。しかも、「法律を破っていない」といって開き直る政治家。

20 村田 多鶴子さん、大脇 友弘さん、他18人
コメント

播 稔 政治家はつまらない男であると共に ずるい男である。

文屋 善明
4月21日 6:59 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第22章 自分を愛すること(A)
キリスト:
愛する者よ、先ず君の心を私に明け渡しなさい。すベてを得ようと願うなら、先ず君が持っているものをすベて献げなさい。何はともあれ、君自身を愛することがこの世におけるもっとも有害なことなのです。君の物欲が君の歩みを妨げているのです。君の物欲を抑制しさえすれば、この世の物の奴隷状態から解放されます。所有すべきでない物を欲しがってはいけません。その欲望が君自身の心の自由を奪っているのです。君が、何故君自身のすべてを捨てて、私に対して心を開かないのか理解できません。なぜ君は無駄なことに気を遣い、意味のない苦労を繰り返すのでしょうかね。(2:22:1~8)

17 播 稔さん、鎌野 健一さん、他15人
コメント

辻本 昌弘 ?まず、君の心を私に明け渡しなさい、とおっしゃるけれど、君の心、とは誰のものなのかと、いつも思います。

辻本 昌弘 自分を愛するように隣人を愛しなさい、と聖書にあるように、自分を愛せない、受け入れられない人間は、隣人も愛せず、うけいれられないのではないでしょうか?

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月21日 7:03 ·

2年前のローズンゲンです。
2年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2015年4月21日 ·
2015日々の聖句 04月21日(火)
ヨブは主に答えて言った。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。」(ヨブ40:3~4)
主よ、わたしたちにも祈りを教えてください。(ルカ11:1)
私の黙想:
ヨブ記のクライマックス、ヨブが神に対して人生苦、万物の謎等々様々な疑問を神に直接ぶちまける。それを聞いていたこの世の知恵者エリフが人間の知恵(哲学)を述べることによってヨブをたしなめる。しかしヨブはそんなものでは満足できない。ヨブは黙っている。それを見て、遂に神が登場し、神の圧倒的な力と万物に対する配慮を語る。それが38章、39章である。真打ち登場によってヨブの疑問が解けたわけではない。しかし神ご自身の登場によりヨブは打ちのめされる。今日の聖句はヨブがその時発した言葉である。ヨブは人生の対する疑問の深さにおいて友人たちに対しても又この世の知者の誰に対しても負けていない。その意味では、疑問の深さそのものがヨブの誇りであったのかも知れない。しばしば人間は知っている知識の量よりも知らないことについての疑問の深さが誇りになる。人間の学問とは「知っていることの量」ではなく、「問いの深さ」であると言われる。その意味でヨブは「問う者」つまり「学者」の典型であろう。しかし、ヨブのメッセージは神の前における人間の「問い」の軽々しさである。

9 小貫 ツマさん、川染 三郎さん、他7人

文屋 善明
4月21日 8:09 ·

「断想:復活節第2主日の旧約聖書」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

13 久保和男さん、播 稔さん、他11人
コメント

播 稔 すこし 松の葉が伸びていますね。

文屋 善明
4月21日 8:19 · 福岡県 宗像市 ·

<アテンション プリーズ>
今日のこの問題ほど現在の政治状況の問題点をえぐり出している記事は他にありません。
(1強・第2部)パノプティコンの住人:3 沈黙する自民党
「みなさん、もっと発言して下さい」
1月30日、天皇陛下の退位をめぐる自民党の懇談会。座長の高村正彦副総裁が促した。「静かな環境」で議論するためメンバーを党役員中心の14人に絞ったが、想定以上に「静か」だったからだ。
そこで野田毅・元自治相が口を開いた。「女性天皇の是非も話し合うべきだ」。党内最多の当選15回という大ベテランで、党役員ではない唯一の懇談会メンバー。ところが、発言を促したばかりの高村氏は「この場ではやらない。収拾がつかなくなる」と制した。
女性・女系天皇の議論は皇室典範改正につながる。安倍晋三首相の意に沿わないことが明らかな意見は封じる――。野田氏を巡っては、消費税率を10%へ引き上げる際の軽減税率導入にも慎重姿勢を続けて公明党と対立し、2015年10月に党税制調査会長を更迭された過去もある。石破茂・前地方創生相は「物を言った人間は決して厚遇されない。『重鎮』と言われる人が官邸の意向一つで代われば、党内は震え上がる」と指摘する。
石破氏は最近、旧中曽根派の先輩議員だった島村宜伸元農林水産相とパーティーで再会した際、「あの時言った通りになったろ」と言われた。あの時とは、衆院に小選挙区制を導入するかをめぐる党内対立が激しかった1990年代。島村氏は反対派の急先鋒で、「党に権力が集中して、みんな言うことを聞くやつばかりになるぞ。物言わぬ政党になり、つまらない議員が増える」と予言していた。
当時、小選挙区制導入の旗を振った石破氏は今、自民党が島村氏の予言通りになったと感じている。「誠に申し訳ございません。こうなるとは思いませんでした」と島村氏に頭を下げるほかなかった。
島村氏は小泉内閣で郵政解散の署名を拒否して農水相を罷免された。かつての自民党には、島村氏のほかにも梶山静六、粕谷茂、亀井静香、河野洋平の4氏が橋本政権の総務会で執行部批判を繰り広げ、そのイニシャルから、スキージャンプの「K点越え」と呼ばれるなど一言居士がそろっていた。
今の総務会で異論を唱えるのは、石破氏のほかに村上誠一郎・元行革相や木村義雄参院議員が目立つ程度。集団的自衛権を議論していた14年夏ごろまでは「おっしゃる通りだ」と村上氏の事務所をこっそり訪ねる議員もいたが、いまはいないという。村上氏は「後ろを向いたら誰もついてきていない」と嘆く。
むしろ政権復帰した12年の衆院選以降に初当選した若手は「沈黙する自民党」しか知らない。15年秋の党総裁選に意欲を示した野田聖子氏の推薦人になろうとした議員が切り崩され、首相の「無投票再選」に終わったことも記憶に新しい。衆院当選2回の若手は「先輩が黙るなら、私たちはなおさら。何か言ったら自分がおしまい」と語る。
沈黙は、野党転落の教訓や党内対立で自滅した民主党を反面教師にした政権維持の「手段」だったが、1強のもとで「目的」に変わった。自民はいま「パノプティコンの住人」の集団と化している。この党内状況に危機感を募らせる小泉進次郎衆院議員は、初当選後に野党になった経験から、こう警鐘を鳴らす。「上が決めたことを何も考えずに受け入れる空気が漂っている。なし崩し的に物事が進むことに不感症になったら、党はぶっ壊れる」(二階堂勇、二階堂友紀)
画像に含まれている可能性があるもの:3人

28 播 稔さん、Yoshinori Fujiiさん、他26人
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コメント

福永 澄 監視の目を張り巡らせ、自らの地位保全のために物言わぬ政治家が増える…。一方、サッカーの試合でナチスを連想させる側を振ってチームを応援する若者がいるという現実。一強独裁の国が出来上がりつつあり、もう確実に戦前ですね。

文屋 善明
4月21日 11:36 ·

「昨日のFB 04/19」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

12 久保和男さん、望月 克仁さん、他10人
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植村 光郎 表現の豊かさに脱帽!

文屋 善明さんが市原 信太郎さんの投稿をシェアしました。
4月21日 12:26 ·

画像に含まれている可能性があるもの:テキスト

市原 信太郎さんが写真2件を追加しました。
4月20日 23:58 ·
週刊新潮が先週と今週、京都の平安とアグネス教会を載せてくれてた

文屋 善明さんが写真4件を追加しました。
4月21日 16:22 ·

今日の散歩道。麦に穂が付いてきました。タマネギも立派に育っています。序でに葱坊主も。そうそう、今日はとうとう第1目標のレベル20(ポケモンGO)になりました。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、屋外、自然

34 播 稔さん、濱 和弘さん、他32人

文屋 善明さん ( 福岡県 宗像市)。
4月21日 16:34 ·

ざくろの芽夕陽あたりて赤黄色 善明
画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、花、屋外、自然

31 播 稔さん、草薙 恵美子さん、他29人
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加藤 佑三 「ザクロの芽」を始めて見ました。日に当たって輝いていますね。昔は「ザクロの実」を良く食べました。あ-、口の中に唾液が・・・。

播 稔 うまい俳句とおもいます。

文屋 善明
4月21日 21:18 ·

スベルこと氷の上で美に変えた 善明

19 久保和男さん、播 稔さん、他17人

文屋 善明
4月21日 21:46 ·

スケートや自由と力学操れり 仙明

19 播 稔さん、石田 聖実さん、他17人

昨日のFB 04/22

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お早うございます。主の平和。二人で整骨院へ。ヨハネ14章と取り組む。「栄光」、「栄光化する」の用法を調べる。昼食後、昼寝1時間(OTB)。復活節第3主日の断想を書く。釣川堤防散策。夕食後、国別スケートを、報ステを見て10時半に就寝。5時半起床。体温:36.1、血圧(136:74、82)、体調・快調、チュン、チュン

28 播 稔さん、石田 聖実さん、他26人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

東山 富昭 こんにちは😃。東京で、KGKの会議に出ました。今晩は、新大阪に宿泊して、明日、教会の礼拝に出ます。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

文屋 善明さん ( 福岡県 宗像市)。
4月22日 5:57 ·

お目覚めの花。散歩道で見かける普通の花。道ばたというよりも山道という風情。思い切って撮ってみました。結構、いけるじゃん。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然、屋外

33 播 稔さん、松井 信一さん、他31人

文屋 善明
4月22日 6:19 ·

2017 日々の聖句 4月22日(土)
主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。(ミカ7:9)
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。(ルカ24:30~31)
私の黙想:
旧約聖書の聖句を見て、新約聖書の聖句と比べて、ローズンゲンの編集者が旧約聖書の聖句の意味をそういう意味に解したのかと、思う。
ミカ書については預言者イザヤの時代の田舎の預言者としてしか知らないが、民族存亡の危機において都市部の裕福な階層に対する鋭い批判者である。しかし、ミカ書4章以下の預言はミカ以外のものの言葉とされる。むしろここでは民族復興、再生の預言が多く語られる。今日の言葉の時代背景は10節、11節に次のようの述べられている。恐らく、バビロン捕囚後の祖国復興の状況であろう。
「お前の神、主はどこにいるのか」とわたしに言っていた敵はこのことを見て恥に覆われる。わたしの目はこの様を見る。今や、敵は路上の泥のように踏みつけられる。あなたの城壁を再建する日それは、国境の広げられる日だ。暗かった日々は過ぎ去り新しい時代の夜明けの情景である。
今の日本の状況と重なる。日本は世界から馬鹿にされて当然の状況である。まさか、「お前の神、主はどこにいるのか」という言葉を神国日本と重ねるわけではないし、「日本の神はどこにいるのか」と解釈するわけではないが、今の、そしてこれからの日本を建てる国是は何か。戦争なき、核なき、平和の実現に貢献する日本である。

20 久保和男さん、播 稔さん、他18人

文屋 善明
4月22日 6:28 ·

今日の名言:@Nietzschebotjp
良い物事、悪い物事が初めからあるのではない。いかようであろうとも、解釈するのは結局は自分なのだ。(『超訳 ニーチェの言葉』014)
<一言>現実は私自身の解釈によって「私の現実」となる。その解釈は、私の「何故」で始まる。私の解釈によって現実は暗くもなるし、明るくもなる。まさに人間関係などというものはそういうものだ。

23 久保和男さん、播 稔さん、他21人
コメント

清水 行雄 おはようございます。これって「道徳的現象というものはない。あるのは、現象の道徳的解釈だけだ。」の超訳ですかね?

文屋 善明 これは『悦ばしき知識』の序文にあたる「たわむれ、たばかり、意趣ばらし」の中の第23節の言葉の超訳です。

清水 行雄 すみません。勘違いでした。(^^;;

文屋 善明
4月22日 6:30 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第22章 自分を愛すること(B)
キリスト:
愛する者よ、私は君にとって最善のことを考えているのだから、私の言う通りに行動しなさい。そうすれば間違えることはない。君が自分自身の考えを通そうとして、あれやこれや工夫し、ああでもない、こうでもないと画策するかぎり、穏やかな気分にはなれないでしょう。どのような計画にも欠陥があるもので、必ず不満が残るものです。だから、君自身の幸福とか物質的な欲望を願っているとしたら、すべてが水泡に帰することでしょう。これは必ずしも金銭や財宝についてだけでなく、また名声や栄誉を望む場合でも同じことです。なぜなら、この世に属することはすベてこの世と共に過ぎ去るからです。(2:22:9~12)

18 久保和男さん、播 稔さん、他16人
コメント

播 稔 人は名声も名誉も必ずすぎさります。神と一体一で向き合う時です。

文屋 善明
4月22日 6:50 ·

<創世記8章のノアの洪水物語(復活節第2主日の日課)をイメージして>
神悔いる世界の乱れ目に余り、地の全面を洗い清めり
箱船を飛び出ししカラス役立たず、オリーブ銜え鳩帰還せり
雲の中輝く虹が現れぬ、希望の光、平和の徴

19 川田信子さん、久保和男さん、他17人
コメント

村田 多鶴子 一首目から「世界Earth Day」のこの日にピッタリの短歌たちですね~♪(^^♪

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月22日 7:40 ·

5年前のローズンゲンです。私がここで提案していることは、まだ実現していない。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月22日 · 福岡県 宗像市 ·
losungenj 2012.04.22(sun)
わたしが彼らを増やす。数が減ることはない。わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない。(Jer30:19) イエスはたとえを用いて語った。「からし種は蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」 (Mak4:32)
私の黙想:
人数を馬鹿にしてはいけない。人数は力である。それは政治的勢力だけではない。教会の礼拝も百人以上集まる場合と十人以下とでは全然違う。小さな礼拝にもそれなりの良さがある。従って「豊かな信仰生活」のためには、大小の礼拝の組み合わせが必要だろう。大型の店舗と小さな商店との組み合わせが豊かな消費生活を生み出す。

11 久保和男さん、岡 輝美さん、他9人

文屋 善明
4月22日 10:46 ·

昨日、テレビで国会放送を見ていたら、例の「共謀罪」を巡る議論で、法制局長への質問があったが、法制局長はその回答を官僚に任せて逃げた。それを阻止しようと数人の野党議員が回答席を囲んだが、そこに立っている官僚は、周りがどんにに騒いでいても、声が聞こえるか聞こえないかも関係なく、粛々と論述していた。その状況はまさにマンガである。
私はそれを見ていて、これがまさに現在の官僚の典型的なスタイルだと思った。それが、どんな問題なのか、それを彼が答えることによってどういうことになるのか、全く関係なく、議長義から指名されたからその任務を行う。彼だって、普通の人間的な生活があるだろうし、恐らく東大出身だろうから、頭だってそんなに悪くないはずであるが、まさに「ロボット化」している。呆れて、もう何も言う気にならない。
今朝のパノプティコンの住人4は、官僚の問題が取り上げられている。ぜひ読んで貰いたい。
以下、今朝の新聞からのコピペ。
(1強)第2部・パノプティコンの住人:4 自ら閉じこもる官僚(2017年4月22日)
<ゴミ袋が消えた>
首相官邸の裏のビルに国家安全保障局(NSS)がある。安倍晋三首相が外交・安全保障政策の司令塔として設置した国家安全保障会議(NSC)の事務局でスタッフは約70 人いる。
数年前、ある男性はスタッフになることが決まった直後、こんな経験をした。
「中には監視カメラがありますから」
説明役の参事官から言われた。監視カメラはコピー機の近くを映すようになっている。採用が決まって数日、居酒屋や喫茶店に入ると、いつも近くに同じ人が座っていた。声をかけられるわけでもない。ただ、近くにいた。
早朝、日課の散歩に出ると、日頃は見かけない場所に黒い車があった。自宅近くに戻ると、また同じ車があった。家族がゴミ袋を捨てた。自宅にもう一つの袋を取りに帰り、ゴミ捨て場に戻ると、直前に出していたゴミが消えていた。それも家族が捨てたものだけ。
単なる思い過ごしや偶然かも知れないが、男性は気持ち悪さを感じた。
NSSは、情報を漏らしたら罰せられる「特定秘密」を取り扱う。関わる公務員や民間人は「適性評価」を受ける。例えば、家族の国籍、飲酒の節度、病歴、借金の有無なども調べられる。情報漏れを防ぐため、管理を徹底することは組織の性格上、当然だろう。こうしたことは数日だけ。だが、最初に感じた気味悪さは、なかなか消えない。
NSSで働くスタッフは携帯電話を持ち込めない。報道機関の記者からかかってきた卓上電話には出にくい雰囲気になり、居留守を使うスタッフがいる。
<施錠続く執務室>
徹底した情報管理はNSSだけに限らない。経済産業省で2月、職員へ二つの決定が周知された。執務室を日中も原則施錠すること、そして「プレス対応の改善」と題した内部文書だ。こう書いてある。「取材は、広報室を通じて申し込むことを原則にする」
この措置の背景に、ある「事件」との関連性が、省内でささやかれている。
2月の日米首脳会談に先立ち、朝日新聞など複数の報道機関が日米経済協力の検討案を報じた。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の資金活用などを盛り込んだ案で、経産省が関わっていた。
報道が出た途端、野党から批判が噴出。首相は国会で否定の答弁に追われた。首相官邸幹部によると、この一件で菅義偉官房長官が経産省に対して激怒したという。
世耕弘成経産相は記者会見で「個別案件とはまったく関係ない」と述べ、この件との関連性を否定。「企業情報や通商交渉に関する機微情報を扱っている。私が就任当初から問題意識を持っていた」と施錠の正当性を強調した。
報道機関でつくる記者クラブ「経済産業記者会」は、施錠や内部文書の撤回を世耕氏に文書で求め、取材対応は一部緩和されたが、施錠は現在も続く。取材内容に関わる担当職員の在席が確認できず、取材は制約を受けている。
経産省は通商産業省時代から、開け放たれた大部屋の入り口から他部署の職員や民間企業の社員まで入ってきて自由に議論を交わし、縦割りの弊害を減らす。そんな気風があった。今回の措置で、過去のものとなりつつあることを同省幹部は嘆く。「息苦しい。風通しのいい経産省はどこに行ったのか」
別の幹部は「今回の対応について大臣や事務次官に官邸からの指示はなかった」と明かす。「1強」官邸におびえ、自ら内に閉じこもろうとする。「パノプティコン」の独房を自ら作るかのようだ。
 
(註)パノプティコン もともとは監視者がいてもいなくても囚人が監視を意識する監獄施設のこと。転じて20世紀にフランスの哲学者フーコーが、権力による社会の管理・統制システムの概念として用いた。
自動代替テキストはありません。

25 播 稔さん、松井 信一さん、他23人
コメント
加藤 佑三¥加藤 佑三 全く今の政治家・自民党議員・官僚は酷いですね。

文屋 善明
4月22日 11:08 ·

「昨日のFB 04/20」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

14 久保和男さん、大野 泰男さん、他12人

文屋 善明
4月22日 14:21 · 福岡県 宗像市 ·

昔の私の古巣の今。「日本クリスチャン・アカデミー」という名前が消えて寂しいです。
関西セミナーハウス・修学院きらら山荘 Kansai Seminar House・Shugakuin Kirara Sanso
宿泊施設 · いいね!396件

横野 朝彦、宮脇 温子、呉 光現、木下 海龍

14 小貫 ツマさん、徳善 義和さん、他12人

文屋 善明さんが写真4件を追加しました。
4月22日 16:20 · 福岡県 宗像市 ·

今日の散歩道、トンボ君と会いました。枇杷の実が実り始めました。今後の成長が楽しみです。
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、自然、屋外

34 川田信子さん、久保和男さん、他32人
コメント

加藤 佑三 香りの良い「フリージャ」と「糸トンボ」ですね。ビワの実と言い、観察の鋭さとシャッタ-チャンスの上手さに感服します(カメラも良いのかな)。

文屋 善明 誉めて戴いて恐縮です。カメラは普通のスマホです。

原本ヨハネ福音書研究から抜粋(14章)

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第2章 弟子への最後の教え

ここまで語るとイエスは一仕事終わった時に感じる、一種の安堵感と、これから嫌なことを言わなければならないという気持ちで、しばらく沈黙が続いた。ここから二つのシーンがある。

シーン1 イスカリオテのユダ

<テキスト13:21~27、30>
語り手:イエスはこのことを話し終わると、何か思い悩んだ様子でしたが、意を決したように重い口を開き話し始めました。

イエス:実は、あなた方のうちの一人が私を裏切り、売るでしょう。

語り手:イエスのこの言葉は弟子たちを動揺させました。誰のことだろう、とお互いに顔を見合せました。イエスの席の隣に座っていた弟子、彼は普段から「イエスが愛している者」と呼ばれていましたが、ペトロはこの弟子に、「誰のことか尋ねよ」と目で合図をしました。その弟子がイエスの耳元でささやくように尋ねました。

その弟子:先生、それは誰ですか。
イエス:私がパンをスープにひたして与える者だ。

語り手:そういうとイエスはパンを千切り、それをスープにひたし、イスカリオテのユダに与えました。するとその一片のパンと一緒にサタンが彼の中に入りました。それを見て、イエスは彼に言いました。

イエス:あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい。

語り手:イエスのその言葉を聞いて、ユダはイエスからパン片を受け取り、すぐに出て行きました。外は真っ暗な闇夜でした。

教会的編集者の挿入:13:28~29
<以上>

(a) この場面はイスカリオテのユダの裏切りを公にした場面である。マタイ福音書では26:21、マルコ福音書では14:18、ルカ福音書では22:21に記録されている。いずれも最後の晩餐の席である。マルコとマタイではこれを聞いた時「弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」という。ルカもほぼ同様である。共観福音書ではこの告知の前にすでにユダは行動していることを述べている。しかし他の弟子たちはそれを知らない。こういう場面で「まさかわたしのことでは」という心配をするということは、そうではないとは言い切れない何かを心に抱いているのであろう。ヨハネ福音書では、イエスのこの発言は唐突であり、ユダについてはこの食事会が開かれる前に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(Jh13:2)とだけ述べている。
ヨハネ福音書ではここまでにイスカリオテのユダは2回登場しているが(Jh.6:71,12:4)、いずれの場合も「裏切る者」と言われている。まさに「裏切る者」というレッテルが最初から付けられている。
ともあれ、この予告がなされた時、ヨハネ福音書では「誰か」とお互いに疑っているが、自分に対しては裏切らないと思っている。ここが共観福音書と異なる点である。

(b) ここに登場するのが、イエスの隣に座っていた「イエスが愛している者」という謎の人物である。この人物と洗礼者ヨハネの弟子でアンデレともう人地の「無名の弟子」(Jh.1:40)とが同一人物かどうか明記されていない。ペトロは彼に無言で合図し、裏切り者は誰か訊ねさせる。その時、イエスは彼の質問に周囲にわからないように示す。私は、イエスが彼にだけこのような重要なことを教えたとは思えない。事実、この後もその人物か誰かということは明らかにされないまま、事態は進み、イエスは誰にも分からないように、ユダに「あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい」と語り、ユダはすぐにその席を離れて外出している。教会的編集者は、同席していたものは誰も彼が裏切り者だということに気が付かず、会計としての仕事をしてたという解説を挿入している。多分その通りでだったであろう。ここで重要なことは、イエス自身はユダの裏切りを知っていながら、そのことを他の弟子たちにはわからないように配慮していることである。にもかかわらず、「イエスが愛している弟子」にだけは暗示的にではあるが述べている。その理由が判らない。


(c) シーン2 弟子への最後の教え

ここからかなり長いイエスの説教が始まる。この部分は原本と教会的編集者の言葉とが錯綜しており、そのまま読むと何が何やらわからなくなる。

<テキスト13:31、36~38、14:1~31>
語り手:さて、ユダが出て行くと、それまで部屋の重苦しい空気が一変し、新しい光が差しこみ、何かが始まりそうだという空気に満たされました。

イエス:今や人の子は栄光を受け、神も人の子も崇められるときが来ました。
ペテロ:先生、あなたはどこに行かれるのですか。
イエス:私が行く所に、今はあなたはついて来ることができません。いずれにしても、何時の日か、あなたはついて来ることになるでしょうが。
ペテロ:先生、何故今すぐにあなたについて行くことができないのですか。私は自分の生命をあなたのために棒げる覚悟です。
イエス:あなたはあなたの生命を私のために棒げると言われるのですか。それはありがたいことですが、本当のことを言うと、あなたは鶏が鳴く前に私を知らないと三度も言うことになるでしょう。
あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方には究極的な安息の地が与えられているのです。私の父の家にはあなた方のために永遠に憩う場所が備えられています。そうでなければ、私はあなた方のために場所を用意しに行くと言ったでしょう。私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています。

語り手:それを聞いたトマスは、イエスの言葉を中断して、質問しました。

トマス:先生、あなたがどこに行かれるのか、私たちは知りません。それなのに、どうしてそこに行く道を知ることができるでしょう。イエス:私が道であり、真理であり、生命なんです。誰も私を通らずに、父のもとに至ることはできません。あなた方が私を知っているのであれば、私の父をも知ることなるのです。そして今からは、あなた方は私の父を知るでしょうし、それが父を見るということなのです。
フィリポ:先生、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。
イエス:こんなに長い間、あなた方は私と一 緒にいるのに、私のことがまだ分からないのかな。フィリポ、いいかい、私を見た人は父を見たのです。それなのに、どうしてあなたは父を見せてほしい、などと言うのですかね。私が父におり、父が私におられる、ということが、あなたは信じられないのですか。私があなた方に話す言葉は私が私の思いで話しているのではありません。父が、私の中におられる父が、働きかけ、私に語らせておられるのです。私が父の中に、また父が私の中に、ということについては、私を信じてください。私が信じられないなら、私の働き、私の生き方を信じればいいでしょう。
これらのことについては、今はまだ十分に理解出来ないかも知れませんが、父が私の名において遣わして下さるであろう助け手、すなわち聖霊のことですが、あなた方にすベてのことを悟らせ、また私があなた方に言ったすベてのことをあなた方に思い起こさせて下さるでしょう。だからあなた方は何も心配することはありません。
私はあなた方に平安を残していきます。それは私の平安です。私は、世とは違う仕方で、私の平安をあなた方に与えます。だからあなた方はどんなことが起こっても怯えないで、落ち着いていなさい。
今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです。もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう。

教会的編集者の挿入:13:32~35、14:3、12~25、28
<以上>

(a) 冒頭でイエスは
「今や人の子は栄光を受け、神も人の子も崇められるときが来ました」と宣言する。この宣言を聞いてペトロはイエスがどこかに行くというように聞いたらしい。これまでにイエスはユダヤ人に対しても弟子たちに対して、誰もついてこれないところに出かけるという話をしている(Jh.7:34、8:21)。だからイエスの話を聞いて、いよいよその時が来たと思ったらしい。そこでペトロが弟子たちを代表して率直に「先生、あなたはどこに行かれるのですか」。「私が行く所に、今はあなたはついて来ることができません」と答えた上で、一言付け加える。「いずれにしても、何時の日か、あなたはついて来ることになるでしょうが」。弟子たちはイエスが行ける所なら、どこでも行けると思っている。それでペトロは自分たちの覚悟を語る。「先生、何故今すぐにあなたについて行くことができないのですか。私は自分の生命をあなたのために棒げる覚悟です」。これは弟子たち全員の率直な気持ちであったであろう。この言葉を聞いて、イエスの話は予定外の方向にそれてしまう。ペトロの裏切りを予告する。人間の覚悟とはそんなものである。しかしイエスの覚悟は違う。

(b) ここからがイエスの説教の本題。
「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方には究極的な安息の地が与えられているのです」。あなたがたの「究極的な安息の地」とは即ち「父の家」である。ここにあなたがたの居場所がある。このことは裏返すと、この地は何らかの使命を果たすために生きている場所、つまり派遣先であるということを含蓄している。
イエスは「私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています」という。知っているはず、しかし知らない。このギャップは何処から生まれるのだろうか。理解力の問題ではなく「先入観」の問題。先入観を持って人の話を聞くと、その人が本当に言いたかったことが分からなくなる。この部分について、かなり長いが松村克己の解説を紹介しておく。
<以下引用>
「わたしの父の家にはすまいがたくさんある」。父の家にはイエスだけが住める場所しかないのではない。地上に天国をもたらすということは逆に言えば天国に多くのすまい持つということである。イエスはこのために来て、このために世を去らねばならない。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ」(Jh.16:7)。もしそうでなければ「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」とは言わなかったであろう。だから「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。「わたしがおる所」とは、父なる神と子なる神との交わりであり、イエスは人々をここへと招き、弟子たちにこのことを保証する。イエスとの交わりが弟子たちにとっては神との交わり、永遠を意味する。そしてこのことが人生の目標に他ならない。「また来て」とは復活ともとれるし再臨ともとれる。そしてそれは何れも本当であり何れをも意味する。復活以前においては再臨と復活とは一つのことである。復活が訪れて再臨はさらに待たれるものとなり、一つのものは二つに分かれた。わたしたちはこの二つの時の間を生きている。そして彼を信じる者、その弟子は信仰において彼と共にいるので「わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」とイエスは言う。
このことをイエスは弟子たちに自覚させようとしたが、彼と共に在りながら、弟子たちは彼が言う信仰が何かということを悟ることができない。先生はそう言われるがわたしたちは先生の行き先を知らない、どうしてその道を知ることができるのか、とトマスは抗議した。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない 」。道・真理・生命の3つは形式的には並列されているが、中心思想は「道」で、真理と生命とは道をに対する畳みかけであることは間違いない。だからモハットはこれを「わたしは真にして生ける道である」と訳している。道はいうまでもなく父への道であり、この道を行くことによって真理と生命とが経験される(Heb.10:20)。真理とはそこで神がその真の姿において示されて出会われるということであり、生命とはそこで神が魂に生き生きと働くということである。イエスは一度彼らのもとを離れ、自由な恵みの霊として再び来ることによってこの本質を一層明瞭に発揮する。そのことを分からせるために、今、彼を信じる弟子たちの信仰がはっきりと自覚されていなければならない。信仰は静止しているものではなく、「信仰より信仰へ」(Rom.1:17)という姿でのみ生きる。そのことを彼は次の言葉によって弟子たちに確かめる。「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」(Jh.14:7)。「神を見る」とは彼方の世で与えられる約束であって(1Jh.3:2)誰も未だこれを見たものはいない。この身のまま神を見るものは死なねばならないと言い伝えられて来た。「心の清い人々は神を見る」(Mt.5:8)。これは最大の祝福であるがこの世では不可能なことと考えられていた。にもかかわらず、イエスは「 わたしを見た者は、父を見たのだ」と言う。もちろん、この「見る」は外面的感覚的な「見る」ではない。イエスを霊的洞察によって見る、その人格の秘密を把えることが神を見るということである。そのためには「心の清さ」が必要である。「幼な児の心」「生まれたばかりの乳飲み子」(1Pet.2:2)の澄んだ眼が必要である。それは新たに、霊によって生まれた者の眼である。詩人は「あなたの光りによって光を見る」(Ps.36:9)と歌ったが、光である神を見るこの眼は神から賜わる信仰である。「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしに来ることはできない」(Jh.6:44)。この眼、この信仰の眼に神はキリストにおいて自らを馴染ませてくださる。従ってこの「見る」は単なる観想や傍観ではなく、精神的、倫理的要素を含んでいる。ヨハネ福音書においては「見る」「信じる」「知る」はほとんど同一の含蓄をもって相互に交換できる言葉である。「わたしたちに父を示して下さい」と願うフィリポの言葉は、余計な問いとしてイエスを悲しませたに相違ない。「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」と、イエスはフィリポに迫りつつ「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」 と問い返す。このことが理解できればフィリポは既に父を見ているのである。(中略)イエスはさらに言葉を継いで言う。わたしが語る言葉、わたしが行う行為は、「自分から」のものではなく「父がわたしの内におられて」なされているのである。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」。もしこの言葉がを信じられないなら、「わざそのものによって信じなさい」、とイエスはじゅんじゅんと訴える。イエスの心は次第に高揚して新しい真理を語り始める。
<以上引用>

(e) 以上で弟子たちに対するイエスの教えは次の言葉で終わる。
「今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです」。この言葉はJh.14:1の言葉と響き合っている。「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」。「もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう」(Jh.14:30~31)。
この言葉は、Jh.18:1に続く。

ヨハネ福音書第14章研究

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ヨハネ福音書第14章研究
イエスの弟子たちに対する最後の教えと離別

(参照:原本ヨハネ福音書研究より抜粋(第14章
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/7bf002645238fa292d15b1cd87f8bfa6 )

ヨハネ福音書における、この部分はいわゆる「最後の晩餐」といわれる部分の後半部分で、「最後の教えと離別」と題される。実質的には13:31~14:31がひとくくりになっている。
いわゆる洗足の出来事があって、食事が始まり、その途中でユダが食事会場から出て行ったところから始まる。
ユダが出て行くのを見て、イエスのトークが始まる。途中、弟子たちの質問などがあるが、全体としてはイエスの話である。全体で39節あるが、その内の20節はいわゆる教会的編集者(以下ここでは「編集者」と略称する)の挿入句で、14:22のイスカリオテでない方のユダの質問以外は、すべてイエスの言葉である。原本の部分に関しては既に現代文化しており解説もしているが、挿入部分については手つかずのままであるので、今回この部分について分析を試みたい。なお、原本部分は私の個人訳であり、編集者による挿入部分は、田川建三訳に従っている。

1.冒頭部分(13:31~35)
イエスの「今や人の子は栄光化され、神も人の子において栄光化された」(31)という言葉を受けて、シモン・ペテロが「主よ、 あなたはどこに行かれるのですか」(36)とペトロが質問する。このイエスとペトロとの会話の間に編集者の言葉(32~35)が挿入される。
もしも神が彼において栄光化されたのであれば、神もまたみずからにおいて彼を栄光化するであろう。そしてすぐに、彼を栄光化するであろう(32)。
子らよ、まだ少し、私はあなた方とともにいる。あなた方は私を捜すであろう。そして、ユダヤ人たちに私が言ったように、 私が行くところにあなた方は来ることができない、ということを、今、あなた方にもまた言うのである(33)。
新しい戒命をあなた方に与える。互いに愛しあう、という。私があなた方を愛したように。あなた方もまた互いに愛しあう、という。 その点において、(すなわち)もしもあなた方が互いにおいて愛を持つならば、 あなた方は私の弟子である、ということをすベての人が知るであろう(34~35)。
編集者は31節のイエスの言葉が読者に伝わらないと感じたらしく、それを32節で説明しているつもりであろう。イエスの言葉を直訳すると、「今や人の子は栄光化され、神も人の子において栄光化された」(田川訳)。これを岩波訳(小林稔)では「今、人の子が栄光を受け、彼において神が栄光をうけた」である。カトリックのフランシスコ会訳では「今こそ、人の子は栄光を受けた。神もまた人の子によって栄光をお受けになった」で、ほとんど同じであるが、問題は「今や」をどう解するのか。ユダが出ていった「今」なのか、ユダが出ていくことによって「何かが始まる今」なのか。ともあれ、ここでの「今」はイエスがズッと待ち続けていた「私の時」(2:4)なのか。恐らく後者であろう。カナの婚礼の場での奇跡が行われたとき著者は「みずからの栄光を顕わした」(2:11)。しかしあの時の栄光(ドクサ)の顕れとは、未だ「私の時」ではないという場面での栄光であった。それを著者はイエスが行った「最初の徴」という。ところが13:31では「人の子は栄光化された(ドクサゾー)」という。この「栄光化」という動詞をどう解釈するか、これだヨハネ福音書を解釈する場合の一つの問題である。田川はドクサゾーをドクサ(栄光)という名詞を他動詞化したもので「〜〜に栄光を与える、栄光を帰する」という意味であるという。通常ではこういう場合にドクサという名詞に「与える」とか「顕す」という動詞と組み合わせて用いるが、ヨハネはイエスの場合に限ってドクサゾーという言葉を用い、「栄光ある存在そのものにする」という意味に用い、「復活させる」とほとんど同じ意味に用いられている、という(p.392)。
従って、13:31では、それがさらに受け身形にされている。かなりぎこちないが直訳風に訳すと、「人の子は栄光そのものとされ、神も人の子において栄光そのものとされた」という意味となる。ところで「栄光化する」ということは突き詰めた意味は、誉める、誉め称える、栄誉を授ける、崇める、評価するという意味である。それを神に対して限定的に用いる場合、神を神とする、神を神と認めるという意味に他ならない。この場合、神については「人の子において」という言葉があるが、人のこの場合には誰によって栄光そのものとされたのが欠けている。それで編集者は「神が人の子において栄光あるものとされたのであるならば、神もまた神自身において人の子を栄光あるものとし、同時に神自身をも栄光あるものとしたのだ」と解説している。(ここでの代名詞と能動態受動態の使い分けが非常に曖昧である)。
つまり13:31の意味するところは、「人の子は神であると認められた。そして神も人の子において神と認められた」という意味であることは明白である。ちなみに、この理解を1:14の「そしてロゴスは肉となった。そして我々の間に住まった。そして我々は彼の栄光を見た。父の傍らでの一人の子としての栄光である。恵みと真理に満ちて」というヨハネ神学を凝縮した言葉は、「我々は彼の栄光を見た」という言葉は「彼が神であることを見た。父(なる神)の傍らでの一人の子としての神である」と読むことになる。
そして33節は36節以下のペトロの質問へと繋ぐセリフとなっている。このセリフがないと36節のペトロの質問は唐突で、イエスの言葉とちぐはぐになる。その意味から見ると、33節は原本に属すると見ることが自然ではあるが、ここで用いられている「子らよ」という表現は原本にはなく、むしろ編集者の好みのセリフである。従って元々あった言葉を改変したか、あるいは編集者が自らの判断でこのセリフを挿入したかである。私はむしろ後者に近いのではないかと思っている。
34節~35節の「新しい戒め」という言葉遣いは明らかに旧約聖書における律法に対するイエスの律法という意味であり、この語をこういう意味で用いるのは編集者の特徴である(14:15、21、15:10以下)。しかし、この文章はいかにも唐突でこの文脈にはなじまない。明らかにこの文章を除く方が文章の流れはスムーズである。なぜ編集者はこの言葉をここに挿入したのだろうか。その理由は分からないが、考えられる一つの理由は、洗足の出来事の際の教え(13:13~15)と14:21節以下の編集者の挿入とを繋ぐの伏線だろうと思われる。

2.シモン・ペトロの質問(36~38)
36節のシモン・ペトロの問いは、33節の言葉がないと唐突である。むしろ、唐突であることに意味があるのではないだろうか。つまり31節のイエスの言葉をペトロは理解できなかったのではなかろうか。しかし、ここ3年間の付き合いの中で、イエスには弟子たちには理解できない何かがある。出会った当初から、「その時が未だだ」という言葉が繰り返されてきた。そして、今は「その時」は近いと感じている。とくに洗足の出来事はイエスとの別離を予感させたのであろうと思う。これまでの付き合いの中で分からなかったことの一つが、ヨハネ7:32以下での出来事である。あの時は、仮庵の祭で町は大変に賑わっており、ユダヤ人のリーダーたちは、イエスの動きに何か異常さを感じ非常に緊張していた。そのために下役がイエスを逮捕するために派遣された。あの時、イエスは「あなたたちでは私を逮捕することができない」と語り、「しばらくはここにいるが、その内姿を消す」と言われたのである。そして「あなたたちは私を探しても私を見つけることができない」と意味深長なことを語っている。それをペトロたちも聞いている。イエスにはどこか「隠れ家」があるのじゃないかということが、その時問題になっている。これがイエスの謎である。だから何かが起こるとき、イエスはどこかに行かれる。それがどこか弟子たちにも分からない。だからギリシャ人がイエスに会いに来たときのイエスの姿勢といい(12:20~)、弟子たちの足を洗ったときのイエスの語りといい、いよいよ「その時が来た」とペトロは感じていたにちがいない。それで、イエスが意味不明なことを打ち明けられたとき、ペトロは、「どこに行かれるのですか」という質問になった、と私は思う。ところが、その時のイエスの返事が、ペトロの気持ちを逆なでするような言葉であった。それが36節~38節である。

3.「その場所」(1~3)
その上で、イエスは非常に重要なことを語られた。「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい。たとえこの世でどんなことがあっても、あなた方は究極的な安息の地が与えられているのです。私の父の家にはあなた方のために永遠に憩う場所が備えられています。そうでなければ、私はあなた方のために場所を用意しに行くと言ったでしょう」(14:1~2、文屋訳)。ここまでが原本ヨハネ福音書のイエスの言葉である。ここで編集者は彼の解釈(3節)を挿入する。「そしてもしも私が赴いて、あなた方のために場所を用意するのであれば、私は再び来て、あなた方を私自身のところに引き取るであろう。私がいるところに、あなた方もいるためである」。
イエスは、もう既にその場所は準備できている、と言っているのに、編集者は、それを将来のこととして説明する。つまり、イエスはこれから、そこに行って場所を準備し、それから迎えに来ると言うのである。ここには明らかに初代教会における再臨信仰の匂いがする。イエスの言葉は4節に続く。
「私がどこに行くのかということも、その道もあなた方は知っています」(4節)。
それを受けて、トマスの質問が発せられる。ここから11節までの原本の言葉である。ここにあの有名な「私が道であり、真理であり、生命なんです」(6節)という言葉が含まれている。

4. 「助け手なる聖霊、真理の霊」(12~25)
次に編集者の挿入句が現れるのは12節から25節まで。かなり長い。もはや、挿入句というレベルを超えて編集者の演説みたいなものである。この部分は以下のように5つの部分に分けられる。

(1)「アメーン、アメーン、汝らに告ぐ、私を信じる者は、その者もまた私がなす業をなすであろう。そしてそれよりもっと大きな業をなす。私が父のもとに行くからである。そしてあなた方が私の名において求めるものがあれば、私がそれをなすであろう。子において父が栄光化されるためである。もしもあなた方が私の名において私に何かを求めるならば、私がそれをなすであろう。もしもあなた方が私を愛するならば、私の戒命を守るがよい。(12~15)
この部分は明らかに10節~11節のイエスの言葉を発展させている。イエスの行う行為はすべて父なる神の意志であり、父なる神の行為と見なすことができる。この理屈をイエスの弟子たちが行う行為に当てはめて、「イエスにある」限り、弟子たちの行為はイエスの行為と見なされるのだ、と展開させている。

(2) 私もまた父に頼んで、他の助け手をあなた方に与えるであろう。その助け手はあなた方とともに永遠にいることになる。 それは真理の霊、世が受けることができないものである。世はそれを見ることも認識することもないからである。あなた方はそれを認識する。それがあなた方のもとにとどまり、あなた方の内にあるからである。(16~17)
「イエスにある」とは一体どういうことか、ということで、ここで初めて「助け手としての聖霊」についての論述が展開される。ここで「助け手」と訳されている言葉は「パラクレートス」で、口語訳では「助け主」、新共同訳では「弁護者」で、もともとの意味は「助けてくれー」と叫んだときに助けてくる者を意味する。聖霊をパラクレートスと述べているのはヨハネ文書だけである。イエスご在世の時はイエスが助け手であるが、イエスは世を去る。それで聖霊は永遠に存在する助け手となる。また、ここでは聖霊を「真理の霊」とも言う。これもヨハネ独自の聖霊論である。興味深い点は、ヨハネ第1の手紙では「真理の霊」と「人を惑わす霊」(1ヨハネ4:6)とが対比されている。
恐らく編集者は、この部分を書きながら、その不十分さを強く感じていたのかも知れない。この部分を本格的に論じているのが15章であると想像される。

(3) 私はあなた方を孤児として放棄することはしない。あなた方のところに来る。もう少しすると、世も私を見ることができなくなるだろう。しかしあなた方は私を見る。私が生きており、あなた方も生きているからである。その日にはあなた方は、私が私の父の中におり、あなた方も私の中におり、私もあなた方の中にいる、と知るであろう。私の戒命を持ってそれを守るものは、私を愛する者である。私を愛する者は私の父によって愛される。そして私もその者を愛し、その者に私を示すことになる」(16~21)。
父(なる神)と子と、弟子たちとの関係が「の中にいる」ということで論じられる。その関係を成立させているのが聖霊である。

(4) 彼にイスカリオテ人ではない方のユダが言う、「主よ、あなたが我々には御自身を示そうとし、世に示そうとはなさらないということが、何故生じたのですか」(22)。
弟子の一人、イスカリオテでない方のユダの質問は弟子たちの特殊な立場についてで、弟子以外のものとの違いについてである。「イスカリオテでない方のユダ」が登場するのは新約聖書全体でもここだけである。

(5) イエスは答えて、彼に言った、「もしも私を愛する者がいれば、その者は私の言葉を守るであろう。そして私の父もその者を愛し、私たちは彼(=神)のところに来たり、彼(=神)のもとで自分のために滞在場所を作るであろう。 私を愛さない者はわたしの言葉を守らない。そしてあなた方が聞くことはわたしの言葉ではなく、私を遣わし給うた父の言葉である。これらのことは、私があなたがのもとに居た時にすでに語ったことである(23~25)。
弟子たちとこの世の人々との決定的な違いとは「愛」である。つまり上で述べた、「の中に」とは愛なのである。この辺りは明らかにヨハネ第1の手紙の神学である。
聖霊論と愛の神学を語ったところで、26節のイエスの言葉につなげる。11節から26節に直接繋ぐと次のような文章になる。
「私が父の中に、また父が私の中に、ということについては、私を信じてください。私が信じられないなら、私の働き、私の生き方を信じればいいでしょう。
これらのことについては、今はまだ十分に理解出来ないかも知れませんが、父が私の名において遣わして下さるであろう助け手、すなわち聖霊のことですが、あなた方にすベてのことを悟らせ、また私があなた方に言ったすベてのことをあなた方に思い起こさせて下さるでしょう。だからあなた方は何も心配することはありません」(文屋訳)。非常にスムーズな文章になる。

5.締めくくりの言葉(27~28)
27節の言葉「私はあなた方に平安を残していきます。それは私の平安です。私は、世とは違う仕方で、私の平安をあなた方に与えます。だからあなた方はどんなことが起こっても怯えないで、落ち着いていなさい」は、14:1の「あなた方はこれからどんなことが起こってもジタバタすることはありません。神を信じなさい」で始まる一連のトークの結びの言葉として相応しい。
ここに編集者は次の言葉を補う。
「私は去り、そしてあなた方のもとに来る、と私があなた方に言ったのをあなた方は聞いた。もしもあなた方が私を愛しておいでだったら、私が父のもとに行くことを喜んだことであろうに。父は私よりも大いなる者であるからである」(28)。
ひと言で言って、言わずもがなの無駄な加筆である。29節以降のイエスの言葉だけで十分である。
「今、そのことをあなた方に言っておくのは、それが実際に起こってきたときに、あなた方が信じ続けることが出来るためなのです。もうこれ以上、あなた方に話しておかねばならないことはありません。兵士たちが近づいています。しかし彼らは私とは何の関係もないのです。しかし世界が、私が父を愛し、父が私に命じたままに私が行動していたことを知るためなのです。さぁ、立ち上がりなさい。出かけましょう」(29~31)。

昨日のFB 04/23

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お早うございます。主の平和。整形外科へ。だらだら。昼食後、昼寝1時間(OTB)。復活節第4主日の課題とは何かを考える。釣川堤防散策。夕食後、ドラマ・ミステリーズ10時に就寝。6時起床。体温:36.3、血圧(146:72、83)、体調・快調、チュン、チュン

27 川染 三郎さん、Izumi Naraさん、他25人
コメント

望月 克仁 先生、お早うございます。まだ、6時10分です。主の日の祝福を祈ります。

文屋 善明 ご注意ありがとうございました。

望月 克仁 「ご注意」なんていうことではございません(笑)

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪よく晴れた爽やかな朝です。礼拝が祝されますようにとお祈り致します。
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

東山 富昭 おはよう😃ございます。今日は、新大阪のホテルから、教会の礼拝に行きます。主なる神と主イエス・キリストを仰ぎつつ、聖日の礼拝をささげます。

萩野 秀子 おはようございます。礼拝に行きます。守られますようにお祈りします。

藤木 冨士子 こんばんは。

文屋 善明さんが写真2件を追加しました。
4月23日 6:12 ·

お目覚めの花。今日は復活節第2主日だ。実はイエスの復活についてじっくり考える主日だと私は位置づけている。今朝の花は、昨日ご近所の方が花園のようなお庭に招き入れてくださった時の撮った豪華なピンク色の花です。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、屋外、自然

31 鈴木 ゴリ 宣仁さん、川田信子さん、他29人
コメント

村田 多鶴子 見事なシャクナゲ(花言葉「荘厳」「威厳」など)ですね。「花木の女王」と呼ばれるのも納得です~♪

大津 博子 あ、石楠花、綺麗、福島の県花ですね。

文屋 善明 一寸、時期が遅すぎたきらいがあります。

村田 多鶴子 浜松は、これから…という感じです~♪(^^♪

若月 新一 おはようございます。

文屋 善明
4月23日 6:52 ·

2017 日々の聖句 4月23日(日)
あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。(申命記8:6)
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。(ロマ13:8)
私の黙想:
申命記の第1テーマそのもの。「ハイ、従います」で終わり、何も黙想することはない。それで、今日は全く別なことを。日本語って便利だと言うこと。
「畏れる」(フランシスコ会訳、岩波訳、文語訳)、これ口語訳、新改訳では「恐れる」。ここではどちらが正しいと言うことを論じるつもりはない。簡単な辞書ででも「おそれる」を入力すると「怖れる」、「懼れる」と出てくる。それぞれニュアンスが違う。英語辞書では、afraid、fear がある。ヘブル語でどれだけ類似の言葉あるのだろうか。
これに関連して、シュヴァイッツァー博士の思想のメインテーマは「生命への畏敬」であると言われている。畏れるということを丁寧にいうならば「畏敬」であり、それこそが聖書が語る「神への畏れ」の核心だと思っている。
私たち夫婦に長男が与えられたとき、予めお願いしていた通りに、松村克己先生に名付けをお願いしていたので、「男の子が与えられました」と電話で連絡し、1週間たって、お宅に名前を頂きに伺いますと、ご夫婦でお祝いの言葉と共に、筆で書かれた半紙を戴きました。それには「敬」という名前が記されていました。その時、松村先生は、この名前はシュヴァイッツァー博士の「生命への畏敬」に基づいたと、話されました。私はそれまで、先生の口からシュヴァイッツァー博士の名前を伺ったことがありませんでしたの驚きましたが、実はシュヴァイッツァー先生については「医療と神学」というテーマでかなり深く考えてこられたことを後に知りました。

28 北村 良輔さん、川染 三郎さん、他26人

文屋 善明
4月23日 6:58 ·

今日の名言:
幸せとは、健康で記憶力が悪いということだ。(Happiness is nothing more than good health and a bad memory.)(アルベルト・シュヴァ一ツァー)
<一言>この言葉には、医者にして神学者のユーモアが感じられる。ということは、健康で記憶力がどんどん低下している現在が一番幸せなのかも知れない。

26 北村 良輔さん、福永 澄さん、他24人
コメント

Mizota Michael Satoshi うらやましい。。。

植村 光郎 先生の一言、痛感しています。

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月23日 7:01 ·

5年前の「今日の名言」です。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月23日 · 福岡県 宗像市 ·
今日の名言:RT @1meigen:
本を読む時間がないのではなく、本を読まないから時間がない。(本田直之) 
<一言>本田直之という人は、一応「サクセス実業家」らしい。この言葉の魅力は誰が語ったかということでなく、私の心をグサッと刺したということである。

6 久保和男さん、藤井 衞さん、他4人

文屋 善明
4月23日 7:07 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第23章 中傷者の悪口に対して
キリスト:
愛する者よ、誰かが君の悪口を言ったり、それを聞かされたりしても、そんなことで落ちこむことはありません。連中が言っているよりももっと君自身を悪い人間だと思っておればいい。君が自省的な人間であるならば、過去の言葉や行為によってびくびくすることはありません。
答えに窮したときには黙っちゃいなさい。人々の言葉に振り回されないようにして、君の思いを私に向けなさい。また、優しい言葉を受けてもそれで安心してしまってはいけません。他人が良く言っても、悪く言っても君は君であり、君自身がそれによって変わるわけではありません。君の心の安らぎと喜びは私以外のところからは来ません。他人が君のことをどう評価しようと気にする必要な全くありません。他人の評価を過剰に気にすることから不安と興奮とが生じます。(2:23:1~9)

25 北村 良輔さん、濱 和弘さん、他23人
コメント

植村 光郎 これが出来ないのです。落ち込んだりくよくよするのが私です。

文屋 善明 これはできる、できないの問題ではなく、修道院における修行の課題です。

文屋 善明さんが写真4件を追加しました。
4月23日 16:04 ·

今日の散歩道、昨日、今日と風が強く、写真がどうしてもぶれます。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、花、屋外、自然

37 清水 行雄さん、細谷 民子さん、他35人
コメント

若月 新一 おはようございます。

文屋 善明
4月23日 16:20 ·

天木さんがご自身のメールマガジン(2017年4月23日)で、次のようなことを書いておられる。タイトルは
<安倍首相の天皇陛下いじめ、ここに極まれり>である。
ほぼ、私も同じことを考えていたが、天木さんほど上手く書けないので、天木さんに無断でほぼ全文を紹介する。
今国会中に天皇退位の特例法が成立し、今上天皇陛下が2019年中に退位される事が確実になった。よほどのことがない限り、安倍政権は東京五輪まで続くだろうから、安倍首相の手によって今上天皇が退位させられるという事になる。
安倍首相の高笑いが聞こえるようであるが、退位される前にも、安倍首相の天皇軽視は続く。
その一つがトランプ大統領の訪日だ。きのう4月22日の一部紙が報じた。5月26、27日の両日にイタリアで開かれるサミットで、安倍首相はトランプ大統領との首脳会談を行い、そこでトランプ大統領の11月訪日について確認すると。
すでに安倍首相は本年2月に行われたトランプ大統領との初首脳会談でトランプ大統領を招待しており、トランプ大統領もこれを受け入れたと伝えられた。
だから、これもまたよほどのことがない限り、サミット時の首脳会談でトランプ訪日が現実のものとなる。
大統領選の時は、在日米軍撤退を言い出すなど、孤立主義を打ち出すようなふりをしたトランプ大統領だったが、シリアを攻撃し、いまや北朝鮮との戦争も辞さないほど戦争大統領に変身したトランプ大統領である。
これで北朝鮮との戦争を始めようものなら、まさしくトランプ大統領は憲法9条の精神を否定する大統領だ。そのトランプ大統領を今上天皇は国賓として迎えるほかはないのである。
その心中はいかばかりかと思う。安倍首相はどんな顔をして歓迎晩さん会に出席するのだろうかと思う。
まるで、これでもか、これでもかと、今上天皇をいじめているようだ。首相による、国家と国民の統合の象徴に対する究極のいじめである。日本はなんという国になってしまったのだろうか(了)

23 石田 聖実さん、文屋 知明さん、他21人

文屋 善明
4月23日 16:35 ·

王国の分裂からイエスまでの歴史をざっくりとまとめると次のようになる。旧約聖書を読む場合に、これを常に念頭に置いて読むと理解しやすい。
イスラエル王国がソロモンの時代以後北のイスラエルと南のユダに分裂したのが紀元前926年。分裂状態は北のイスラエル王国がアッシリアに滅ぼされる紀元前722年まで約200年間続き、それからイエスまで、約700年間、大雑把に言って、バビロニア帝国時代、ペルシア帝国時代、アレキサンダーのギリシャ時代を経てイエスの時代のローマ帝国時代と4つの帝国による支配が続く。
南のユダ王国がバビロニアに滅ぼされたのが紀元前598年で、南のユダ王国単独の時代が約120年間、バビロニア帝国時代は紀元前538年のペルシャのキュロス王の登場までの60年間、この期間がいわゆるバビロン捕囚時代である。
続いてペルシャ帝国時代が終わるのがアレキサンダー大王の登場する333年頃までの約200年間、ギリシャ帝国時代はローマ帝国が台頭する紀元前60年代で約270年間。この間に一時ハスモン家のマカベアと5人の息子たちによる反乱(紀元前167年)が成功して、ユダヤにハスモン王朝が成立し独立する。ハスモン王朝は紀元前30年のローマによる征服まで約150年ほど続くことになるが、内実は外圧と内乱による混乱でとうてい独立した王国と言えるものではない。しかし、この期間がイエスの時代を理解するためには非常に重要であるが、あまりにも錯綜しているために、簡単には説明ができない。
これを表にまとめると
926年、ダビデ、ソロモン王国分裂(ソロモン王以後)
722年、北のイスラエルがアッシリアに滅ぼされ(アッリア捕囚)
598年、南のユダがバビロンに滅ぼされ(バビロン捕囚)
538年、キュロス王による解放、祖国帰還
    520年~515年神殿再建(ユダヤ教の成立)
    445年、エルサレム城壁建築(ネヘミヤ)
333年、アレキサンダー大王の登場
    167年、マカベア革命、ハスモン王朝
60年、ローマ帝国の台頭
0年、イエスの登場

22 北村 良輔さん、望月 克仁さん、他20人
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植村 光郎 大変参考になります。ありがとうございます。

昨日のFB 04/24

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お早うございます。主の平和。松村克己『三位一体の神』を読む。昼食後、昼寝1時間(OTB)。旧約聖書史、王国分裂からイエスまでをまとめる。釣川堤防散策。夕食後、観月ありさ主演「骨格標本師櫻子さま」を見て10時に就寝。6時起床。体温:35.8、血圧(143:77、71)、体調・快調、チュン、チュン

29 安田 信夫さん、大野 泰男さん、他27人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

東山 富昭 こんにちは😃。身体の状態は、かわりばえはしません。我慢しながらの生活です。動いた後は、休みますが、ウツラウツラすることはありません。主なる神と主イエス・キリストにあって、歩みます。よろしく、お願いします。

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りです。守られますようにお祈りします。

藤木 冨士子 こんにちは。

文屋 善明
4月24日 6:35 ·

お目覚めの花。「珍しい花、ご近所の庭園から戴いた。家で花瓶に活けたがすぐに枯れてしまった。良い香りがするとのことでしたが、私の鼻が鈍感で分かりませんでした」。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、自然

27 東山 富昭さん、芳賀 道子さん、他25人
コメント

村田 多鶴子 オオヤマレンゲ(w/甘い香り)かも…って思います。

文屋 善明 ありがとうございます。

文屋 善明
4月24日 6:43 ·

2017 日々の聖句 4月24日(月)
み御救いを愛する人が、主をあがめよといつも歌いますように。(詩40:17)
イエスの言葉;「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。(ルカ19:5~6)
私の黙想:
偶然、昨日から「あがめる」とはどういうことか考え続けてきている。そのため、今日は主の祈りの「御名が聖とされますように」を分析しようと思っていたところである。「主をあがめよ」の部分、口語訳では「『主は大いなるかな』ととなえるように」となっている。フランシスコ会訳では「主は大いなる方」、新改訳は新共同訳と同じで「主をあがめよう」、岩波訳は面白い「大いなれ、ヤハウェ」、文語訳は「エホバは大なるかな」。岩波によると同じ表現が詩35:27、詩70:5では「大いなれ、神」という用例が示されている。漢字で書くと「崇める」である。
旧約聖書では「神となる」「民となる」という組み合わせは、レビ26:12、エレミヤ7:23、31:1、31:33、エゼキエル37:27、新約聖書では2コリント6:16、ヘブル8:10、黙示録21:3に出てくる。多少、論理が飛躍するが、私は「神を崇める」とは「神を神とする」、その裏には「民は民となる」これは「人間は人間になる」を意味すると解釈している。
主の祈りで一般的には「御名を崇めます」を聖公会では「御名が聖とされますように」と祈るが同じ意味だと思っている。「大いなるか」「聖なるかな」も同様。ここに神と人間との究極的関係が示されていると、解している。これはヨハネ福音書における「栄光」あるいは「栄光化」を解釈する中での発展である。

33 久保和男さん、安田 信夫さん、他31人
コメント

門叶 国泰 逐語訳をすると「大いなれ」ですね。「崇める」ときの慣用句だ、と言うことなのでしょう

文屋 善明 大きい者に「大いなれ」は、神に「神たれ」と同意です。

川田信子 Amen!

文屋 善明
4月24日 6:51 ·

今日の名言:@Tolstoy_meigen
わたしたちは踏みなれた生活の軌道から放りだされると、もうだめだ、と思います。が、実際はそこに、ようやく新しいものが始まるのです。生命のある間は幸福があります。(トルストイ)
<一言>最後の「幸福があります」という言葉は、全体の流れから見て違和感がある。ここで「幸福」ということは問題ではない。人間として、まともかどうか。つまり、正常か異常かが問題である。「生命のある間は」、つまり生きているという実感のある間は正常である。

16 藤井 衞さん、植村 光郎さん、他14人

文屋 善明
4月24日 6:56 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第24章 どうして神の助けを祈り求めるベきか(A)
キリスト:
愛する者よ、私は君が悩んでいるとき、励まし力づける者です。だから困ったときには、私のところに来なさい。君の最大の欠点は君の祈りがあまりにも遅いことです。恐らく君は祈る前にいろいろなことを考えて、何とかして祈らないで、自力で解決しようとするからでしょう。だから私は君が私以外に助けてくれ者、有効な解決の道を示してくれる者がないことを実感するまでほっておくのです。さて、いよいよ他には救いの道がないことを悟ったなら、勇気を出して私に祈りなさい。私には不可能はないのです。君は私が君を助けないとでも思っているのですか。君の信仰はどこにあるのです。
信仰に固く立って、忍耐しなさい。君の助けは必ずもっともいいタイミングで与えられるのです。私は必ず君を助け、君の傷を癒やします。
君の悩みは一時的なものに過ぎず、君を脅かしている問題は気の迷いに過ぎないのです。将来について心配して何になるのです。悲しみは悲しめば、それで終わりなのです。一日の苦労は、その日だけで十分なのです。だから、どうなるか分からない未来のことを悩んだり喜んだりして何になります。確かに人間たちは悩める存在なのです。そのために敵の惑わしに簡単に騙されてしまいます。それが人間の弱さなのです。(2:24:1~15)

21 久保和男さん、藤井 衞さん、他19人

文屋 善明
4月24日 8:35 ·

(1強・第2部)パノプティコンの住人:5 (2017年4月24日)
「報道機関はファクトで武装し戦え」 新谷・週刊文春編集長
1強下でのメディア。週刊文春の新谷学編集長は「私たちは安倍政権の敵対メディアでもないが、応援団でもない」と語る。「編集長が雑誌の前に出すぎるのは、その雑誌にとって弊害」と顔をさらさないようにしている
 安倍晋三首相による「1強」。その支配に組み込まれているパノプティコンの住人には、政治報道に携わる我々メディアも含まれているのではないか。そんな問題意識から、昨年、「政治とカネ」の問題などで特ダネを連発し、「文春砲」という流行語を生んだ週刊文春の新谷学編集長に、1強下のメディアについて聞いた。
(聞き手・藤原慎一)
 ――安倍政権の支持率が5割台を維持しています。森友問題が首相を直撃しても、影響は今のところ限定的で、かえって「1強」を印象づけています。この政治状況と世論をどう見ていますか。
 それは極めてわかりやすい話で、安倍首相の代わりがいないからです。1強のおごりや慢心は国会質疑や人事に出ていて、国民には「脇を締めてもらわないと困る」という思いはある。だけど国際情勢が不安定な中、安倍政権に倒れてほしいとは思っていないということでしょう。
 ――国民は政治のスキャンダルそのものに関心を失ったわけではないということですか。
 昨年1月に甘利明・前TPP担当相の金銭授受疑惑をスクープし、辞任された時も「説明責任を果たしていない」という批判の声は上がりましたが、ただちに安倍首相の支持率低下には向かわなかった。長年、政治家のスキャンダルを報じてきましたが、盛り上がるかどうかは多分に政治家のキャラクターによる。分かりやすい分かれ目はワイドショーが取り上げるかどうか。だからといって、我々は盛り上がらなそうな政治家であっても報じるべき事実は報じます。
 ――それが「1強」に対するスタンスであると。
 2012年に編集長になって以降、現場の記者には「あなたたちの使命はスクープを取ることだ」と言い続けています。安倍政権に「親」でも「反」でもなく、書くべきことは書く。森友学園の問題でおかしいと思えば、厳しく書く。
 甘利問題では、首相官邸中枢から直接「時期が悪い。TPPの調印だけは行かせてあげたい。金銭を渡した方も筋が悪い」と言われたが、「そんな相手から受け取った方が悪いのでは」と突っぱねた。この件で私と距離を置く官邸の人もいました。だけど、報じるべきファクト(事実)があるのに「書かない」という選択肢はない。私たちは「安倍批判しかしない」敵対メディアでもないが、当然ながら「安倍政権の応援団」でもないのです。
 ――官邸中枢からの電話となると、権力側の圧力とは感じませんか。
 結果的に私は要請を拒否したわけで、圧力をかけられたとは感じていません。むしろ1強政権を前に、新聞やテレビの側が自主規制や事なかれ主義に流されているのではないか。
 ――自主規制ですか。
 高市早苗総務相が放送局に「電波停止」を命じる可能性に言及した直後に、テレビ局の幹部と会うたびに「テレビにいたら作りたい番組がある」と言いました。どこまでやったら電波が止まるか、視聴者が毎週ハラハラしながら見る「停波にチャレンジ」。幹部は全員、「できるわけない」と苦笑いしていた。もちろん冗談半分の話ですが、権力に対してメディアは明るいアナーキズムをもっていた方が世の中の風通しはよくなると思います。
 ――テレビ局以外はどうですか。
 この前、朝日新聞ではない、ある報道機関の社会部長と食事をした時に、その社内では相手から記事に抗議する内容証明郵便が来るだけで、その記事を書いた記者を問題視する傾向があるという。「裁判に負けたら、自腹で払え」という言葉が出てくる空気が社内にあるのだそうです。それでは、誰もリスクを負って政治家のスキャンダルを追うことはできません。
 これまで政治家側は一貫して司法に「名誉毀損の賠償額が安すぎる」と主張してきました。実際に賠償額はずいぶん引き上げられたし、何より名誉毀損で訴えられた場合の立証のハードルが確実に上がっています。もちろん裁判では負けたくない。記事の根幹部分が認められても、賠償額が100万円でもつき、新聞で「週刊文春が敗訴」と書かれると、「文春砲とか言って調子に乗っている。いい加減なことを書きやがって」と思われる。悔しいけど、負けながら勝ち方を覚えるしかないのです。十分な準備をすることが大前提ですが、訴訟リスクを恐れてはいけない。
 ――メディアの分断も指摘されています。
 安倍首相は良くも悪くもピュアな人という印象。1次政権のころは、味方のメディアと敵のメディアをきれいに色分けしていました。最近、産経新聞は、首相がトランプ米大統領と会った際に「朝日新聞に勝った」と言ったと報じています。首相はトランプ的なものに引っ張られているのか、再びメディアを切り分けているように見える。むしろ朝日新聞、毎日新聞、東京新聞を味方にしようというしたたかさがあると、メディアからすればもっと手ごわいと思います。
 ――メディアの側にも覚悟が問われますね。
 首相が理念型の政治家なので、メディアも鮮烈に親安倍と反安倍に分かれる。産経の愛読者と朝日の愛読者の間では議論も交わされず、批判し合うだけで、読者は見たい事実しか見ず、建設的な議論も行われないのではないか。
 その一方で、横並び的な紙面作りは昔と変わっていない。政府の発表したものを報じる発表ジャーナリズムがむしろ強まっている気がします。そうすると、こんなにたくさんの新聞が必要なのかと思ってしまう。独自性を求めて「今のままの安倍政権じゃ駄目だ」と、大取材班を組んで、大きな話から小さな話までファクトを掘り起こし、徹底的に調査報道をする新聞があってもいいのでは。
 ――やはりファクトで勝負すべきだと。
 本来、ファクトで武装して戦うのが報道機関ですが、朝日には「ファクトより論」の傾向を感じます。安倍首相を批判する上で、靖国神社の問題とか沖縄の問題とか、言い方は失礼かも知れませんが、旧態依然とした印象。同じ歌を歌い続けても、その歌が好きな人は聞きに来るが、嫌いな人は来ない。書かれる安倍首相にも「また、いつもの歌だな」と聞き流されてしまう。
 朝日も安倍政権を批判するなら、安倍首相がぐうの音も出ないようなスクープを出せばいい。朝日が特報した森友学園の問題はまさにそれだと思います。
     ◇
 しんたに・まなぶ 1964年生まれ。東京都出身。早大卒業後、89年に文芸春秋に入社。「Number」「マルコポーロ」、月刊「文芸春秋」編集部などを経て2012年から現職。近著に「『週刊文春』編集長の仕事術」(ダイヤモンド社)。
自動代替テキストはありません。

9 川染 三郎さん、岡 輝美さん、他7人

文屋 善明
4月24日 8:40 ·

「1強シリーズ第2部、パノプティコン」もなかなか、面白かった。とくに第5回、今日の特集はなかなか読ませた。メジャーなマスコミが、実を低くしてマイナーなマスコミの編集者に「聞く」という自虐的な企画は面白かった。第2部も今日で終わるらしい。
自動代替テキストはありません。

22 川染 三郎さん、藤井 衞さん、他20人

文屋 善明
4月24日 9:01 ·

「今週のローズンゲン 2017/04/16~04/22」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

8 川染 三郎さん、小貫 ツマさん、他6人

文屋 善明
4月24日 9:47 ·

「昨日のFB 04/21」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

10 川染 三郎さん、小貫 ツマさん、他8人

文屋 善明
4月24日 10:00 ·

「昨日のFB 04/22」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

13 川染 三郎さん、望月 克仁さん、他11人

文屋 善明
4月24日 10:22 ·

「原本ヨハネ福音書研究から抜粋(14章)」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

13 川染 三郎さん、望月 克仁さん、他11人

文屋 善明
4月24日 10:39 ·

「ヨハネ福音書第14章研究」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

14 川染 三郎さん、松下 光雄さん、他12人

文屋 善明さんが写真5件を追加しました。
4月24日 16:39 · 福岡県 宗像市 ·

今日の散歩道、気持ちの良いそよ風、暖かい晩春の午後。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、花、屋外、自然

33 川染 三郎さん、松井 信一さん、他31人

文屋 善明
4月24日 19:49 ·

穏やかな晩春の午後鴨一羽 善明

14 植村 光郎さん、徳善 義和さん、他12人

文屋 善明
4月24日 21:01 ·
livedoor News
·

いいじゃないか、何でもやってみれば、やりもしないで、ただ批判は、ひがみ根性というもの。

鳩山由紀夫氏の持論に批判殺到「ソーラーパネルで作物がよく育つ」 - ライブドアニュース
鳩山由紀夫元首相(70)が「畑や水田の上にソーラーパネルを設置すると、作物を育てながら太陽光発電でき…
NEWS.LIVEDOOR.COM
http://news.livedoor.com/article/detail/12975068/

11 松下 光雄さん、玉城 豊さん、他9人
コメント

吉田 櫻井 啓子 ぽっぽさん、これでも工学博士だし。ねぇ。
そういやうちの理学博士(二世帯住宅の大家様w)も、災害に備えたソーラーパネルを所有のマンションに設置してます。

文屋 善明
4月24日 21:48 · 福岡県 宗像市 ·

晩春や命の息吹万物に 善明

13 久保和男さん、植村 光郎さん、他11人

文屋 善明
4月24日 21:57 · 福岡県 宗像市 ·

疑いが平和な社会脅かす 仙明

18 小貫 ツマさん、宮﨑 達雄さん、他16人

「復活信仰」と「復活祭信仰」

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「復活信仰」と「復活祭信仰」

この問題は、復活について論じる場合の基本的な問題で、学者の間ではこういうことが論じられているのかということを知って頂くためにも、以前にも一度掲載したことがありますが、その点だけを抜粋して再掲載しておきます。復活について真剣に考える場合の資料の一つです。

http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/7a913297b327120376dac59c6e7ad73a

溝田 悟士
私が「復活信仰を『語りえぬこととして』<括弧>に入れなければならない」と主張しているかについて、正確な説明が必要だと思いましたので、以前掲載した私の卒論の改訂版の、前の部分を掲載しておきます。
_________________________

注)
最近新約学者佐藤研氏は「<復活>信仰の成立」という興味深い論文を『現代思想』1998.4に発表し、「復活信仰」の成立に関して「空の墓」の史実性を提唱した教会史家カンペンハウゼンの研究を論拠として新たな理解の可能性を提出しておられるが、氏の意見は、上のブルトマンの見解と鋭く対立するものであろう。
氏は御自身の論を「<復活>表象の一種の<非神話化>」であると語っており「この作業は、かの非神話論者ブルトマンが決してやろうとはしなかったことである。彼にとっては、原始キリスト教宣教の核心である<イエスの死と復活>は、非神話化の攻撃に晒されることのない聖域であった」と述べておられるが、ブルトマンが復活の伝承を分析しようとしなかったのは佐藤氏の考えているところとは別のところにあったと思われる。ブルトマンは「最初にわれわれが問わなければならないことは、あくまで、史的と考えることのできるものは何か、ではなく、キリスト教の伝承として理解できるものは何か、である。そしてこの教会伝承の問いに、史的可能性の問は、それぞれ個々の事情に応じて、組み入れられるか、あるいは従属させられるのである」(注14)と語っている。
ブルトマンを「復活」の伝承の前に立ちすくませたのは、上に述べたような知的誠実さの故であり、元来資料としての使用可能性においてデリケートな地位をしめる復活物語を極めて限定された研究範囲として適用する事にたいする危険性である。ブルトマンの復活に関する理解もその上に立っている。ただ、ブルトマンが復活の問題を非神話化「できなかった」ということは真面目に取り上げられるべきであろう。彼はこう書かれている。「この決断の行為を個々の人がどのように行い、復活祭の信仰がどのように個々の<弟子たち>において成立したのかは、伝承においては伝説のためにあいまいにされているが、内容から見ても重要な意味は持たない」。
しかし、なお次の彼の言葉は今でも強い力を持っているはずである。
「様式史研究が他のあらゆる史学的研究と基本的に異ならず、<循環論証>の一種であることを認識することは、本質的に重要である」(注15)。
つまり、ブルトマンを立ちすくませたその危険性をあえて犯し、「復活」という問題の核心への分析を進める学者としても、ブルトマンの「キリスト教の伝承として理解できることとは何か」という問が徹底して問われる「循環論証」の中で、史的経緯再現の可能性への鍵は開かれるはずである、ということに首肯するべきである。
上の佐藤氏の論文はユダヤ教の思想の大前提「心身一如」(氏はこの前提がどれだけの範囲及び、その限界はどこにあるかを考慮していない)を前提に置きすぎ、かつそれぞれの文書を分析する際、そのそれぞれ個々の文書の内証に信頼を置かずその文書の資料の問題の証拠を他の文書から求めすぎている(一つの文書についてはその文書自体の内証を)と思われる点で、ブルトマンが最大限大切にしようとした
 (1) 各福音書の書かれた順序とそれによる制約
 (2)各福音書の福音記者の執筆動機・目的
 (3)各福音書記者執筆の際、確実にもっていた伝承・資料等はなにか
 (4)各福音書記者の同一の用語・伝承・資料における使用法の差とその原因
に対する考慮を欠いているものであるといえるのではないだろうか。

溝田 悟士 歴史学が循環論証(トートロジー)であるというブルトマンの立場にはあとから限界を感じました。(だからテクストの科学や認識論が必要だと思うわけです)。しかし、ブルトマンが復活信仰そのものを「非神話化」しようとしなかったのは、「聖域」だったからではなく「もはや正確に知ることが出来る方法は存在しない」という歴史家ならではの知的誠実さの故なのだと、今でもおもいます。佐藤氏も出来ぬことを語りましたし、私もこの時点では、もう少し挑戦できる範囲があるものだと考えていました。

溝田 悟士 「最初にわれわれが問わなければならないことは、あくまで、史的と考えることのできるものは何か、ではなく、キリスト教の伝承として理解できるものは何か、である。そしてこの教会伝承の問いに、史的可能性の問は、それぞれ個々の事情に応じて、組み入れられるか、あるいは従属させられるのである」(注14)。このブルトマンの立場は、歴史をむやみに想定することなく、テクスト内容を把握することが先だという点で、極めて妥当な姿勢だと考えています。

文屋 善明 私は細かいことは分かりませんがブルトマンにおいて「復活祭信仰」と「復活信仰」とは別次元のことだと思っています。いかなる祭にしても、祭の「起源」は曖昧なもので祭において重要なことは参加すること、参加することによって自己の中で起こること、それが復活祭信仰だと思っています。

溝田 悟士 そうですね。「復活日の信仰」ということも彼は言っているんですが、それも結局は実際に見て確認し得ない(歴史学的には正確に)と考えています。確かめようがないからです。概念として違うものと理解するしかありません。この点に関して、本書97頁にスクロッグス・グルフの論文を批判していますが、まるで見てきたかのように語る姿勢が非科学的だと感じるわけです。

溝田 悟士 教会の祭儀を通して(これが復活祭の信仰でしょうね)、また聖書や伝承、神学を学ぶことを通して、さらには先輩たちの生き方を通して(これがイエスに従うこと)、復活を信じることは出来ますので、問題はそこだと思うわけですね。

断想:復活節第3主日の旧約聖書

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断想:復活節第3主日の旧約聖書(2017.4.30)

水の中を通るときも  イザヤ書 43:1-12a

<テキスト>
1 ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。
2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
3 わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金としクシュとセバをあなたの代償とする。
4 わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。
5 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。
6 北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。
7 彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。
8 引き出せ、目があっても、見えぬ民を耳があっても、聞こえぬ民を。
9 国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ、初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し聞く者に、そのとおりだ、と言わせうる者があろうか。
10 わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう、わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。
11 わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。
12 わたしはあらかじめ告げ、そして救いを与え、あなたたちに、ほかに神はないことを知らせた。あなたたちがわたしの証人である、と主は言われる。
<以上>

1. 人生苦
フランスの作家で、平和運動家としても有名なロマン・ローランが次のように言っている。「人生というものは、苦悩の中においてこそ、最も偉大で実り多く、かつ最も幸福である」。この言葉は『ベートーヴェンの生涯』という作品の序文の中の言葉である。ベートーヴェン自身は友人への手紙の中で次のように書いている。「わたしたち有限の人間どもは、ひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、ほとんどこう言えるでしょう。最も秀れた人々は苦悩を突き抜けて歓喜を獲得するのだと」。(参照:中野孝次監修「人生に関する60章」p.255,256)
個人的な趣味であるが、私はクラシック音楽が好きで、その中でも交響曲が一番好きで、これを聴いているときに幸せを感じる。いろいろな音楽の中で、たった一つだけを選べ言われたら、私は何の躊躇もなくベートーヴェンの交響曲第9番「歓喜」を選ぶ。これを作曲した当時、彼はほとんど耳が聞こえなくなっていた。従って彼の「人間は苦悩を突き抜けて歓喜を獲得する」という言葉は真実となり、私たちに感動を与え、今、現在苦しみの中にある人々に希望を与え慰めの言葉となる。
「生きている」ということの喜びというものは「死ぬような経験」を通して与えられる。何不自由ない家庭に生まれ、健康で、人並みに判断もできて、そのまま波風なく育った人間には本当の喜びというものは与えられない。与えられない、というより、与えられているのに、それを喜びと感じないと言うべきであろう。「人間は苦悩を突き抜けて歓喜を獲得する」というベートーヴェンの言葉は真実である。

2. 水の中を通るときも
旧約聖書の民族イスラエルの民には、苦しいときに思い出し、お互いに励まし合う共通の経験があった。共通の経験といっても、イスラエル人一人ひとりが実際に経験したことというよりも民族としての経験で、イスラエル人であれば誰でも知っていること、今日彼らが存在していることの根拠になったこと、もしこの経験がなければ、彼らも彼らの父親も、その祖父も存在しない出来事である。だから彼らは民族として苦しい経験をしているとき、また個人的にも苦しい、悲しい状況にあるとき、このことを思い出してその苦しさを乗り越える。こういう共通の経験を持っているということはすばらしいことであり、幸せでもあり、力でもある。また、それがその共同体の連帯感の根拠ともなる。
イスラエルの民の場合は、それが出エジプトという経験であり、その中でも特に紅海徒渉という出来事であった。出エジプトしたイスラエルを最初に襲った生きるか死ぬかという大事件が紅海徒渉である。後からは重装備をしたエジプトの軍隊が無防備なイスラエルの群集を殲滅すべく砂ぼこりを立てて迫ってきている。その足音が不気味に響いてくる。もう一刻の余裕もない。しかも彼らの前には広く、深く、逆巻く紅海が横たわっている。前に進むことも、後退することもできない。彼らには逃げ道はない。進退きわまる、とはこういう状況であろう。
その時「モーセが手を海に向かって差し伸べると」(出エジプト14:21)、紅海が真っ二つに割れ、その間に道が開けた。両側に水が逆巻く間をイスラエルの民は歩いて渡った。この情景は満潮とか干潮ということで説明が付くものではない。まさに奇跡である。両側に水が逆巻く間を歩くということは納得して出来ることではない。
私はまだ若い頃、家族で信州から立山を越えて富山にでるドライブしたことがある。その時の光景は見事で忘れることができない。もう春だというのに、両側にそびえ立つ雪の谷間を車は走る。それは怖ろしさを超えて、感動である。その感動は言葉で語ることができない。
「水の中を歩く」とはこれと比較にならない。紅海の真ん中に出来た道の両側には逆巻く水が聳えている。落ちてきて当然である。その中を歩くことが出来るのか。彼らは神を信じてその中を歩いた。というより、それ以外の選択肢がなかった。彼らを追ってきたエジプトの軍隊が同じように水の間を渡ろうとしたとき、両側の水は軍隊の上に雪崩のように崩れ、全滅した。この経験は民族の血の中に染み渡り、彼らが困難に直面したときに、民族の声として涌き上がってくる。旧約聖書を読むと、いろいろな場面でそのことが繰り返し、繰り返し語られる。本日の旧約聖書の中でも2節の「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」、という言葉はその時の光景である。

3. 復活経験の最も日常的な経験
復活経験の最も日常的な経験は、苦難を超えて歓喜に至るという経験である。そういう経験は日常性のレベルでいくらでもある。病気もあるだろうし、受験といい、恋愛から結婚へのプロセスでもある。ここでもう一度ベートーヴェンの経験を思い起こしてみよう。彼が耳が聞こえなくなったということが分かったとき、もう音楽家としての生命は絶たれたと思ったことであろう。それでも彼は音楽を捨てることができなかった。耳が聞こえない音楽家の作曲した音楽など碌なものにならないということは、もう確信に近かったに違いない。それでも彼は作曲した。その時できた音楽自体を彼自身は聞くことができない。しかし楽譜を読めばどういう音楽が奏でられているかは十分に分かった。また、それを演奏した人たち、それを聴いた人たちの反応を見たとき、彼自身歓喜に包まれたに違いない。私はできる。それが彼の復活経験である。彼の耳が治ったのではない。聞こえない耳と共に生きることが確信できた。

4.「神共にいます」
イエスが死から甦ったということは、つまり「今、ここおられる」ということに他ならない。ちょっと脇道に逸れるが、「イエスが今ここにおられない」ということにこだわったのがルカである。そこからルカは「昇天」という考えを打ち出した。これはルカだけの、ルカ独自の思想であって、他の人たちはそういうことにはこだわらなかった。マタイは「今、ここにおられる」ということにこだわった。どちらも、それぞれである。私などはどちらも、それでいいじゃないかと考えている。復活日とその翌日の月曜日、マタイ福音書の28章が読まれた。その最後の一節が次の言葉である。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。これは聖書に記されているイエス・キリストの言葉である。これこそが「復活経験」の核心部分である。イエスが復活したとか、それは本当かどうかとか、いろいろ議論はあるが、これだけは外せない事実である。それは「イエスが私たちと共にいる」という経験である。これは一回だけの特別な経験ではなく、ズーッと継続している事実である。私たちはこの言葉をあまりにも軽く言いすぎるので、いざというときに威力を発揮しない。この言葉を気安く口にしてもらいたくない。「水の中を歩く」というような危機状況の中で、このことだけしか頼りにするものが何もない時に、口にすべき言葉である。しかし、そういう状況の中で、なおこの言葉を共に頼りにする仲間がいること、この言葉を共有し、分け合い、励まし合う共同体があることは喜びである。

4. 足跡
最後に、一つの詩を紹介したい。この詩の作者は不明である。不明であるが、この詩を一度聞いた人は、もう二度と忘れることが出来ない。そして、多くの人々の、特に苦しみの中にある人を励まし、力になってきている。そしてまた、その人を通じて他の人の励ましとなる。そういう形で、この詩は、共通の経験となっている。皆さんも、よくご存じの詩である。

足跡
ある夜、夢を見た。
主と共に浜辺を歩んでいる夢を
空の向こうには歩んできた人生のさまさまなシーンが映し出されて、
でも、いつも二すじの足跡がくっきりと浜辺の砂に残されている。
一つはわたしのもの、もう一つは主のものと
人生の最後のシーンが映し出されて、
砂の上に残された足跡を振り返る。
過ぎ去った人生の幾年月
苦しかったあの時
悲しかったあのころ
だが、ああ、その時の足跡は、
ただ一筋だけだった。
わたしは主に尋ねた。いぶかりながら
主よ、わたしがあなたに従いますと、
決心しましたときに、
あなたは、いつでも、どこでも、
お前と一緒にいるよ、と
あのように堅くかたく言われました。
それなのに、何故
あの足跡を見て下さい。
ただ一筋の足跡を、
わたしが最も苦しかったときに、
主よ、何故に、あなたはわたしを見放されたのですか。
主は答えられた。
わが子よ、愛するわが子よ、
わたしは決して、けっして 離れはいないよ。
あなたが、苦しみあえいでいたときに、
あなたが、悲しみの底にあったときに、
わたしは、いつも、あなたを抱きしめて、
あなたを背負って、歩いていたのだよ。
見てごらん、あの一筋の足跡を。

昨日のFB 04/25

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お早うございます。主の平和。家内は整骨院へ。私は昨日は終日、『三位一体の神』を読む(テキスト化)。孫息子は何をしているのか分からない。昼食後、昼寝1時間(OTB)。釣川堤防散策。夕食後、寺脇康文主演「信濃のコロンボ」を見て10時に就寝。6時起床。体温:35.3、血圧(135:79、77)、体調・快調、チュン、チュン

28 北村 良輔さん、増野 真美さん、他26人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

東山 富昭 おはようございます😃。私のほうは、身体の状態は、かわりばえはしません。来月の予定について、考えています。主なる神と主イエス・キリストにあって、歩みます。

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りです。守られますようにお祈りします。

町田 勝彦 おはようございます♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪

藤木 冨士子 おはようございます。

村田 多鶴子 おはようございます~♪先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

文屋 善明
4月25日 6:08 ·

お目覚めの花。今朝は美しい朝焼けでしたが、写真に撮る心の余裕がありませんでした。今日は火曜日で、紅色のボタン、お向かいの花園で撮りました。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然、屋外

38 藤木 冨士子さん、佐藤 静代さん、他36人
コメント

加藤 佑三 さすがに、そちらは早いですね。こちらはまだ小さな蕾が出た所です。

文屋 善明
4月25日 6:34 ·

2017 日々の聖句 4月25日(火)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。(詩84:11)
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。(ヨハネ10:9)
私の黙想:
ここでは、どういう「千日」なのか書かれていない。口語訳とフランシスコ会訳では、「余所のいる千日」と言葉を補っている。文語訳、新改訳では、次の「主に逆らう者の天幕で長らえるよりは」を前の文と後ろの文との両方に掛けているようだ。岩波訳では次の行の冒頭にある「私が選んだ」を前の文章につなげて、「私が選んだ千日よりも善く」としている。詩文としては岩波訳は捨てがたい。
次のゴールデンウィークはどこに行こうか、といろいろ自分で考えても良い案はなかなか出てこない。まぁ、それよりも教会の庭の掃除にでも出かけようか、という信徒はいないかな。まぁ、いないでしょうね。休みの日はそれぞれ自分で考えて楽しく過ごしましょう。それが神にとってもとても「トーヴ(良いこと)」ですよ。

28 北村 良輔さん、楠 真理子さん、他26人
コメント

門叶 国泰 大丈夫!信徒は信徒なりに考えています。連休明けの、6日に礼拝堂の掃除に行きます。

文屋 善明 安心しました。

川田信子 私も、連休に関係なく、⛪のお掃除 、聖日メッセージタイトルの看板を書きに行きます!恵みに感謝います!

文屋 善明
4月25日 6:40 ·

今日の名言:@Michael_Ende_jp
(象徴的に捉えると)かりに頭蓋が自立して、世界を歩きまわれるようになれば、それがカメなのです。ところで頭蓋は神話では全く特別の存在です。北方神話で星空は、氷の巨人の頭蓋からつくられます。そして面白い事に、全ての神秘的な流派において、頭蓋と星空には繋がりがあります。(ミヒャエル・エンデ、『闇の考古学』)
<一言>まぁ、面白いね。たまには、そんなことを考えて時間を過ごすのも。

11 文屋 知明さん、川染 三郎さん、他9人

文屋 善明
4月25日 6:51 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第24章 どうして神の助けを祈り求めるベきか(B)
キリスト:
愛する者よ、本当のことであれ、嘘であれ、あるいはこの世への愛着であれ、将来への不安であれ、君を誘惑しようとする者にとっては、そんなことはどうでもいいことなんだ。要するに彼らは君を堕落させたいのだ。だから君はそんなことで心を騒がしたり、恐れたりすることはありません。ただ、私を信じ、私に寄り頼みなさい。君が私を遠くに感じているときにこそ、私は君のすぐ近くにいるのです。君が万事休すと思う時、私は君の間近にいるのだ。だから君はその時の感情や一時的な判断によって絶望的になってはいけないのです。時には私自身が君に試練を与え、八方塞がりの状況に置くことだってあるのですよ。だから私が見捨てた、などと思ってはいけません。
人生はこういうことが繰り返されて天国に至るものなのです。だからすべてのことが君の思うようにならなくても、そういう場合にこそ、これも益になるのだと信じて前に進みなさい。
私は君の密かな願いを知っています。君が時には私から忘れられたと思うようなこともあるでしょうが、それは君が傲慢にならないために私がしていることなのです。私は与えることもできますし、与えたものを取り上げることだってできます。それを判断するのは私の自由なのです。だから君に与えたものも実は私のものなのです。当たり前のことですが、全てのものは私のものなのです。だから試練が与えられたり、逆境におかれても、そのことで喜んだり、落ち込むことはありません。私はいつでもあなたを救うこともできるし、悲しみを喜びに変えることだってできるのです。
君がどういう境遇に置かれたとしても、私が君を愛していることには変りません。どんなときでも私は正しく情け深いのです。現実を正しく調べてご覧なさい。そうすれば、私のことを信じ感謝するに至ることでしょう。
かつて私は弟子たちに「父がわたしを愛されたように、私もあなたがたを愛した」と言いました。しかも私は彼らを、この世の喜びを受けるためでなく、大きな戦いをするために、栄誉を得るためでなく、侮辱されるために、安楽をむさぼるためでなく、激しく働くために、安息を味わうためでなく、忍耐して多くの実を刈りとるために遣わしたのです。(2:24:16~31)

18 福澤浩子さん、川染 三郎さん、他16人

文屋 善明
4月25日 6:53 ·

どうしたのいつもの小鳥卯月尽 善明

14 竹本 耕造さん、山本 友美さん、他12人

文屋 善明
4月25日 7:57 ·

日本海空母が脅す春の陣 仙明

18 小貫 ツマさん、竹本 耕造さん、他16人
コメント

加藤 佑三 目の前で「どうだ、これでもか」と、「米日合同訓練」をして、北をけしかける危険な行動。何と愚かな事か。

文屋 善明さんが写真6件を追加しました。
4月25日 16:16 ·

今日の昼食は孫息子のドライヴで急遽、みやこ町赤村のフルーツガーデン「えふ」に「りんごカレー」を食べに行きました。ここのカレーは往復3時間かけても値打ちがあります。それにまた、フルーツガーデンだけあってパッフェが格別で、一度食べたら病みつきになります。
自動代替テキストはありません。

47 久保和男さん、細谷 民子さん、他45人
コメント
Izumi Nara おしゃれなメニュー。おいしいでしょうね。

昨日のFB 04/26

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お早うございます。主の平和。二人で整骨院へ。『三位一体の神』のテキスト化完了。孫息子のドライブで赤村にカレーを食べに行く。ノートパソコンの下に置くクーラーが届いた。疲労感が激しく夕食はほとんど食べられず、すぐに風呂に入って8時半就寝。6時半起床。体温:35.2、血圧(132:72、79)、体調・快調、チュン、チュン

39 播 稔さん、川染 三郎さん、他37人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

文屋 知明 昼食のカレーが多すぎたのでは・・。

文屋 善明 久子にもそれを言われてもいます。だが、絶対反省はしません。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

萩野 秀子 おはようございます。雨で寒いですが守られますようにお祈りします。

東山 富昭 おはよう😃ございます。今日は、雨模様です。来月の予定は未定です。主なる神と主イエス・キリストにあって、歩みます。よろしく、お願いします。

藤木 冨士子 おはようございます。

文屋 善明
4月26日 6:54 ·

お目覚めの花。「可愛い!一生懸命咲いているという感じが良い」。(昨日、赤村のカレー屋さんの庭にて)
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、木、空、屋外、自然

28 川染 三郎さん、寺田 由志子さん、他26人

文屋 善明
4月26日 7:06 ·

2017 日々の聖句 4月26日(水)
あなたは多くの災いと苦しみを、わたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう。(詩71:20)
イエスの言葉:心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(ヨハネ14:1)
私の黙想:
ここでの詩人は、多くの災い、苦しみを経験しているが、死んではいない。「死線を越えて、地獄を見てきた」とさえいう。だが、現実は死線など越えていない。死んでいたら、災いも苦しみもない。にもかかわらず、「再び命を得させてくださう」という。つまり、詩人にとって災いと苦しみの中にある時、死んでいるのと同じだという。普通人々は「死の苦しき」というとき、本当は死んではいない。何となく、「死=苦」という公式ができあがっていて、十字架というと死の苦しみという。しかし、信仰者にとって災いとか苦しみは死ではない。生きている証拠である。そこが「信じどころ」である。そこで「信じられるか、信じられないか」が甦りをもたらす。

23 小貫 ツマさん、川染 三郎さん、他21人

文屋 善明
4月26日 7:11 ·

今日の名言:@dannshi_bot
賢い奴は何も言わなくても解ってる。馬鹿は言っても解らない。(立川談志)
<一言>あれだけ言っているのに、バカは同じことを繰り返し地位を奪われる。未だに未だ分からないバカが残っているが。

22 楠 真理子さん、大脇 友弘さん、他20人
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糸原 由美子 ほんと、バカ。

文屋 善明
4月26日 8:17 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第25章 造り主を覚えよ(A)
修道者:
主なる神よ、私がこの世の何からも誘惑されない境地に達するためには、今まで以上にお恵みが必要です。この世の何かが私を引っ張って、あなたの元に自由に飛んで行けません。あなたの忠実な下僕ダビデ王でさえ、「どうか鳩のように翼をお与えください。そうすれば、あなたの元に飛んで行き、そこで安らぐことができます」と祈りました。私もあなたの元に飛んでいきたいのです。
世の多くの人たちは、神以外にも多くの良いものがあると言っています。彼らは地面を這いずり回っている虫のようなものです。神以外のものは、すべて無に等しいのです。私の願いは、この世の実態を素直に見て、そこに何も魅力的なものがないことを知りたいのです。そうすれば私はこの世から自由になり、何ものにも囚われず、自我を捨ることができます。しかし、この境地にまで達することは、あなたの恵みによらなければ不可能です。永遠にして無限の善である神よ、この境地に至らせてください。(2:25:1~11)

15 久保和男さん、松井 理直さん、他13人

文屋 善明
4月26日 8:57 ·

「昨日のFB 04/23」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

10 川染 三郎さん、久保和男さん、他8人

文屋 善明
4月26日 9:16 ·

「昨日のFB 04/24」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

9 川染 三郎さん、望月 克仁さん、他7人

文屋 善明
4月26日 9:21 ·

「復活信仰」と「復活祭信仰」をブログに投稿しておきました。

BLOG.GOO.NE.JP

15 久保和男さん、Mizota Michael Satoshiさん、他13人
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文屋 善明 この点が聖書学的に追求できる限界です。ブルトマンの業績はここにある。ここから後は願望。

文屋 善明
4月26日 9:31 ·

賑やかな新緑の山今川路 善明
(北九州道今川SAからみやこ町への道から眺める色とりどりの山波)

14 久保和男さん、小貫 ツマさん、他12人

文屋 善明
4月26日 9:32 ·

目の前にレンゲ畑がひろがれり 善明

24 久保和男さん、松井 理直さん、他22人
コメント

加藤 治 鼻をくすぐる幼き思い出

文屋 善明
4月26日 9:33 ·

赤村の奥にひっそり穴場あり 仙明

27 久保和男さん、楠 真理子さん、他25人
コメント
杉浦 紀明 「穴場」と書かれると知りたくなります。何の「穴場」ですか?

文屋 善明 私の昨日のfbを見てください。

杉浦 紀明 わかりました(笑)。

加藤 治 知る人ぞ知る リンゴのカレー

文屋 善明 どなたでも、自動車でお迎え頂いたら、時間があればご案内いたしますよ。ハハハ。トモさんバイクは駄目ですよ。

植村 光郎 レンガの三連橋しか知りません。静かな

植村 光郎 村です。かっては良質な無煙炭が採掘され、精鋼用のコークス原料炭が産出、このコークスは大砲の砲身造りに欠かせませんでした。小さな村ですが米軍の爆撃を受けました。

文屋 善明 それは知りませんでした。村です。その村の名前が「赤」、それで「赤村」、初めて聞いたとき「共産社会」かと思いました。

文屋 善明 正式なアドレスは「〒824-0225 福岡県京都郡みやこ町犀川大坂280-26」、田川郡赤村(南)の奥ですが、今川側(北)から入ると赤村の手前です。

文屋 善明
4月26日 10:38 ·

今日の「折々のことば」。「折々のことば」もここ暫く口を挟むポイントがなく、スルーした。それは当然のことで、これはあくまでも鷲田先生の世界だ。でも、今日の「折々のことば」、仮面の本質ということになると、いろいろ口出ししたくなる。現代では・・・・という現代の病巣を批判的に取り上げることもできるが、今、私自身が取り組んでいるのは、いわゆる「三位一体論」、ここでの「位」というのは、この議論が始まった頃にはギリシャ悲劇の「仮面、マスク」を意味した語、「ペルソナ」である。唯一絶対の神が人間の歴史という舞台に、「人間のペルソナ」を持って顕れたというキリスト論から始まる。ここから人間イエスのペルソナに限らず、神のペルソナ、聖霊のペルソナといういうように展開し、300年以上も議論し続けて、未だに決定的な解決に至っていない。キリスト教史にとっては厄介な言葉である。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1333851393358985&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

22 川染 三郎さん、清水 行雄さん、他20人

文屋 善明
4月26日 11:04 ·

明日の日本のキリスト教界を見るような感じがする。日本聖公会の場合はそうならないための、最後の砦が「主教による派遣制度」。

現役僧侶だけど「空き寺」「後継者不足」などよりもっと深刻な問題
最近は新聞でも目にするようになった「空き寺」「兼務寺院」「後継者不足」が問題として取り上げられているけど、こんなの実はそんなに問題な…
ANOND.HATELABO.JP
http://anond.hatelabo.jp/20170425210458

43 Luke Etsuzou Nomahさん、大坂 太郎さん、他41人
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コメント

文屋 善明 幼稚園の経営権(園長・理事長)をめぐって、もう一部では始まっている可能性は大きい。

文屋 善明 任命制(派遣制)の重要ポイントは、転勤したら後ろを引きずらない、断ち切るということである。このポイントが、任命制と定年制との難しいところである。任地がなくなると、自由にはなるが、呼ばれないと行きにくい。それでどうしても最後の任地にしがみつくことになる。

Mizota Michael Satoshi 困ってるでしょう。それは突っ込まないお約束です。

Mizota Michael Satoshi うーんその通りですけど、聖公会に置き換えると「自分たちのお眼鏡にかなった者がいない」という常置委員会の身勝手さがそれに代わるのではなかろうかと。。。どこも同じだなあ。。。

福山 貴之 · 共通の友達6人
ニッキの制度を望んでいるのでしょうか?

Mizota Michael Satoshi 教団の制度にはならないでしょう。歴史的主教制は聖公会信仰の生命線です。

福山 貴之 · 共通の友達6人
教団ってこ教会に来ている信者さんによって呼び寄せる牧師さんを決めるのですよね?間違っていたらごめんなさい

Mizota Michael Satoshi 呼んだ牧師がいい牧師とは限らない。それがプロテスタント。

福山 貴之 · 共通の友達6人
逆に派遣された牧師がいい意味でパラドクスな働きをするかもしれないのが聖公会でしょう。

Mizota Michael Satoshi まあロクでもない人もいますけどね。。。

文屋 善明 問題はその方が多い。

Mizota Michael Satoshi 当たり外れが大きいですね。まるでくじ引きです。

Mizota Michael Satoshi これまた信者や教会にも当たりはずれが多い。でも「見てて笑えるコミカルな奴」が多いってのは聖公会かもしれない。

大坂 太郎 昨日、私どもの教会では葬儀があったのですが、火葬場でのおしのぎの席で、檀家の総代をやっている親族の方から仏教界の腐敗についてさんざん聞かされたところです。「ちゃんとやっていて、危機感を持っている僧侶の方もおられますよ」と応答しておきましたが、やはり世襲と財の問題が大きいようですね。私どもの教団の場合は「理事会による任命制」をとっていますが、なかなかうまく機能させることが難しいようです。

Mizota Michael Satoshi 世襲はむしろプロテスタントの方があり得そうなのが残念と。。。

大坂 太郎 Mizota Michael Satoshi カトリシズムはそもそもこの問題はあり得ませんから。笑。

文屋 善明
4月26日 15:32 ·

これが自衛隊の現実だ。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1573288352690732&set=gm.1910609122545547&type=3&theater

‎なつし 聡‎ ― 反自民護憲運動
4月25日 10:29 ·
「そんなに行きたくないなら、辞職すればいいじゃん」と無責任に言う人もいますが、自衛隊は簡単に辞職させてくれるような組織ではありません。その証が記事にある自衛官失踪。(4月24日東京新聞)
元陸上自衛隊第31普通科連隊(レンジャー隊員)の井筒高雄さんにお話を伺って初めて知りましたが、自分の部隊から退職者が出たら部隊長は自身の出世に響くから必死で思いとどまらせる。訓練に訓練に訓練に訓練を重ねてボロボロにさせる、訓練中の事故も起きるかもしれない、精神的におかしくなれば不適格の烙印を押せる、退職にはならない(させない)など、報道されていないことが山ほどある組織だそうです。

考えてみれば、それもそのはず。戦争法案が成立して、入隊時の服務の宣誓には海外派兵など想定していなかった、話が違うから辞める、と若い隊員たちが言い出しても「はい、そうですか」と辞めさせたら自衛隊は存続できなくなってしまいます。「みんなの民主主義 歩みの会」(FM西東京)でゲスト出演していただいた井筒高雄さんのお話は背筋も凍るものでした。ポッドキャストで是非お聴きいただきたいと思います。
http://ch9.seesaa.net/

18 加藤 道子さん、久保和男さん、他16人
コメント

加藤 佑三 良く解りませんが軍隊ですね。外面は自衛隊ですが、人権も自由も無いのですね。可哀想に騙されて入る人もいるのでしょうね。

文屋 善明さんが田中 隆夫さんの投稿をシェアしました。
4月26日 16:17 ·

画像に含まれている可能性があるもの:1人、眼鏡、クローズアップ
画像に含まれている可能性があるもの:1人、大勢の人、屋外、テキスト
田中 隆夫さんが写真2件を追加しました。
4月26日 3:21 ·
(あのとき・それから)1945年 哲学者・三木清の獄死 「共謀罪」に重なる治安維持法
2017年4月12日16時30分
 (昭和20年)
 「『共謀罪』が無くても、テロ犯は取り締まれます」

 日本弁護士連合会の共謀罪法案対策本部事務局長、山下幸夫弁護士(54)は、3月に横浜市であった神奈川県弁護士会主催の講演会で、聴衆約160人を前に語った。

 爆発物、化学兵器、ウイルスなどテロ準備が対象の法律はすでにある。国会で審議中の「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案は、「準備行為」が拡大解釈されれば犯罪と無関係の市民を監視し、政府と異なる意見表明を脅かす可能性がある。「社会を一つの方向に導く現代版の『治安維持法』です」と山下弁護士は述べる。

     *

 1925年に制定された治安維持法は、国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社やその加入を禁止し、思想運動や大衆運動を弾圧した。45年10月4日の連合国軍総司令部(GHQ)の「人権指令」で廃止された。

 指令8日前の9月26日、「人生論ノート」などで知られる哲学者の三木清は、東京の豊多摩拘置所の独房で、寝台から落ちて亡くなっているのが発見された。朝日新聞は「治安維持法等の容疑により拘引されたものと云(い)はれてゐる」「(三木の)獄死事件は(中略)思想警察への強い反発として多くの反響を呼んでゐる」と伝えた。

 ログイン前の続き三木の研究者で和歌山大名誉教授の永野基綱(もとつな)さん(80)によると、三木は2度、警察に検挙されている。最初は30年。知人に「頼まれて出した金」が共産党への運動資金だったため、治安維持法違反の罪で懲役1年執行猶予2年の有罪判決を受けた。法政大教授の職も失った。45年には疎開先の埼玉で、治安維持法関連で特高警察にマークされていた昔の友人を一晩泊め、金銭と服を提供。これが獄死につながる検挙となった。

 共産党員ではなく、首相を務めた近衛文麿の政策研究会の一員だった三木が検挙された背景を、研究者の永野さんは「三木は歴史と社会の中で生きる人間が直面する非人間的な問題を批判した。いわば行動的なヒューマニズムを貫いたからだ」と解説する。

 一方、治安維持法や特高警察について研究する小樽商科大の荻野富士夫・特任教授(64)=日本近現代史=は「治安維持法の目的遂行罪による解釈の拡大がなければ、三木は獄死することはなかった」と話す。目的遂行罪は、28年の改正で、最高刑を死刑に引き上げるのとともに導入された。潜伏の手助けやカンパ、出版物配布の援助などが対象とされ、行為が目的遂行罪に当たるかは、本人の意図の有無ではなく、特高警察や思想検事の判断だった。

     *

 当初のターゲットだった共産党員だけでなく、宗教団体や自由主義・民主主義者へと取り締まりは広がった。太平洋戦争直前の41年の改正では再犯のおそれを理由に拘禁を続ける予防拘禁制が取り入れられた。警察の統計では治安維持法違反による検挙者は約7万人。しかし荻野さんは「思想事件」の検挙者は数倍だとみる。令状を読み上げられることもなく、罪名がわからないまま取り調べられ、「違反する」運動にかかわらぬように警告後、釈放されるケースも多かったという。

 九州地方の男性(91)も44年9月17日朝、突然、下宿から刑事に連行された。「戦死者は靖国神社に合祀(ごうし)するのではなく、キリスト教徒らの遺族の意思を尊重すべきだ」と書いた文集が検閲に引っかかったらしい。刑事に殴られる取り調べが1週間続き、釈放された。「治安維持法違反の検挙だと思っている。自由に発言できない時代が再び来ないことを願っている」

 荻野さんは「治安維持法を歴史的事項にとどめるのではなく、現代への教訓と考え、人権を脅かす法には声を上げ続けるしかない」と語る。(平出義明)

 ■社会のあり方、考え続ける 「三木清研究会」事務局長・室井美千博さん(67)

 1999年に発足した三木清研究会は、彼の郷里である、現在の兵庫県たつの市を中心とした会員が講演会や研究発表、「人生論ノート」の読書会をおこなっています。私は、三木が卒業した旧制兵庫県立龍野中学(現龍野高校)の後輩だったこともあって、高校時代から三木の著作にふれてきました。

 「人生論ノート」は戦時色が濃い38年に文芸誌「文学界」で始まった連載をまとめ、太平洋戦争が始まる41年に刊行されました。その一編「幸福について」にある「幸福の要求が今日の良心として復権されねばならぬ」という言葉は、ファシズムの時代への批判であるとともに、現代にもあてはまります。

 「中央公論」の36年の論文「日本的性格とファシズム」では「単なる役割における人間はなほ真の人間ではなく、いわば偽善者即(すなわ)ち仮面を被(かぶ)つた人間である。真の人格はそのような役割を脱ぎ棄(す)てて裸の人間になつた時にあらわれる」といい、真の人格を認めない全体主義はファシズムでありヒューマニズムに対立すると述べています。

 三木は穏健な思想の持ち主です。その彼を獄死させた社会のあり方には憤りを感じます。三木は自ら考えることの重要さを訴えています。「今」がどのような時代か、一人ひとり問い続けることが大事だと思います。

 ■治安維持法の関連年表

<1925年>

 治安維持法制定

<28年>

 共産党員の大量検挙(3・15事件)

 治安維持法改正で最高刑が死刑になり、結社員だけでなく結社と関係する者(シンパ)も取り締まりの対象に

<30年>

 三木清が共産党への資金提供容疑で検挙される

<31年>

 満州事変

<33年>

 作家の小林多喜二が特高警察による拷問で死亡

<37年>

 日中戦争始まる

<38年>

 国家総動員法制定

<41年>

 予防拘禁制の導入と罰則強化を盛り込む治安維持法の改正(3月)

 太平洋戦争始まる(12月)

<42年>

 神奈川県特高警察が共産党再建謀議の容疑で言論・出版関係者らを逮捕。拷問で4人が獄死。「中央公論」「改造」が廃刊させられた(横浜事件)

<45年>

 三木清検挙

 終戦(8月)

 三木清が獄死

 GHQの「人権指令」

 ◇次回は「国産ペニシリンの開発」の予定です。

14 久保和男さん、岡 輝美さん、他12人
コメント

入口 紀男 この4月に、NHKの「100分de名著」で『人生論ノート』が流れたところですね。改めて「今」の日本に通じる三木清の思索の深さが感じられます。

文屋 善明 私は三木清は西田幾多郎先生の第1の弟子でしたが、先生を超えていたと思います。従って、西田先生が三木清の影響を受けて時局へと深く関わることになったと解釈しています。三木には西田先生にないジャーナリスティックな感性が豊かにありましたから。私の恩師、松村克己は三木清から最も多くの永久を受けたと思います。ただ、残念なことに松村が本格的に勉強を始めた頃、三木先生は東京に行ってしまいました。

植村 光郎 三木清の奥深さと明快さを再確認します。

文屋 善明
4月26日 22:06 · 福岡県 宗像市 ·

口先の謝罪の言葉聞き飽きた 仙明

31 萩野 秀子 さん、大野 泰男さん、他29人

文屋 善明
4月26日 22:18 ·

東北で良かったという言葉反政権 仙明
《「反政権」よりも「したたかさ」の方がよかったかな ?》

15 竹本 耕造さん、清水 晴好さん、他13人

昨日のFB 04/27

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お早うございます。主の平和。『三位一体の神』を読みながら校正。復活について考える。やはり難しい。昼食後30分昼寝(OTB)。雨のため外出はなし。夕食後、孫と人生についていろいろ話し合う。今時の若者の結婚観、経済、政治観など。暗い。10時半就寝。6時起床。体温:36.0、血圧(130:70、82)、体調・快調、チュン、チュン

29 石田 聖実さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他27人
コメント

東山 富昭 おはよう😃ございます。身体は、かわりばえはしません。月末ですが、主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
今日は一泊二日の予定で久しぶりの上京です。三十数年ぶりにマニラ時代の恩人と再会し、ランチと談笑を。夜には在京の姪と一緒にFB友ご夫妻(ピアノコンクールで、連弾部門で優勝された方で、今回は入賞者たちの演奏会にご招待いただきました)の演奏を聴きに行きます。
先生ご夫妻の今日の歩みが祝されますようにm(__)m

文屋 善明 十分にお楽しみください。

村田 多鶴子 ありがとうございます!♥

藤木 冨士子 おはようございます。

萩野 秀子 おはようございます。整形外科、チラシ配りです。守られますようにお祈りします。

文屋 善明
4月27日 6:18 ·

お目覚めの花。今は盛りのピンクの躑躅(ツツジ)、ご近所にて。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、木、屋外、自然

38 Luke Etsuzou Nomahさん、播 稔さん、他36人
コメント

播 稔 花のバランスが良いです。

文屋 善明
4月27日 6:50 ·

2017 日々の聖句 4月27日(木)
初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。(43:18~19)
神の国は、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になる。(ルカ13:19)
私の黙想:
今日の聖句はイザヤ書でもone of the biggest wordsだ。で、今朝は小さなことに目を付けて考える。それは「それは芽生えている」という表現だ。まさに今、日本では芽生えの時だ。季語では「芽立ち」とか「芽吹く」というらしい。美しい言葉だ。「今や、それは芽吹いている」とでも訳すと、枯れた枝から芽が吹き出る様子が目に浮かぶ。新芽はいろいろな色をしている。赤もあれば淡い緑もあれば、黄色もある。それらが暫くするとみんな濃い緑になる。この短い期間、私たちはうきうきする。
口語訳では「やがてそれは起こる」、いかにも散文的だ。フランシスコ会訳では「今にもそれが芽生えている」、新改訳は「今、もうそれが起ころうとしている」、まさに緊急事態である。文語訳は難しい「頓て(やがて)おこるべし」。この「頓」は、急に、時を移さずにその場で、たちどころに、にわかに」という意味である。岩波訳はなかなか凝っている、「今、もうその兆しは見えている」。そうなんです。その徴候はも既に見え始めている。妊婦の場合で言うならば、「もう陣痛は始まっている」のである。だから、勘のいい人ならば気付いている筈だし、気付いていなければならない。さぁ、今や日本でも何かが起ころうとしている。あまり脅かすと安倍政権をサポートすることになるから、大きな声では言えないが、何かが始まろうとしている。その兆しはあちらこちらに見られる。それが「吉か兆か」、吉であることを祈る。

28 Luke Etsuzou Nomahさん、播 稔さん、他26人
コメント

齋藤篤 先生、おはようございます。ここのところの先生の句作が、ローズンゲン黙想に活かされておられますね!新しい視点が与えられました。感謝です。

文屋 善明
4月27日 7:01 ·

今日の名言:@B_Pascal_jp
数の上で最も多い人たちは、ただついていくことしか望まず、自分たちの発明によって名誉を求めている発明家たちに名誉を与えることを拒んでいる。
もしも発明家たちがあくまで名誉を得ようとして、発明しない人たちを軽蔑すれば、他の人たちは彼らに嘲笑的な名を与え、棒で殴ることだろう。(パスカル『パンセ』§302)
<一言>この言葉の前に「これは力の結果であって、習慣の結果ではない。なぜなら発明する能力を持っている人たちはまれであるからである」という言葉がある。これを付けないと、何のことか分からないだろう。この言葉の後ろにはもっと厳しい言葉が付いている。「だから、このような鋭敏さを鼻にかけないか、あるいは、自分だけで満足しているほうがいい」。これで、この節の全文である。

22 Luke Etsuzou Nomahさん、播 稔さん、他20人
コメント

清水 行雄 うーん。やはり、パンセ凄いです。

文屋 善明 私が口をはさむ余地なし。

Mizota Michael Satoshi だれにも付いてこられないのも気が楽だなと最近は気がつきましたけども。。。

文屋 善明
4月27日 8:23 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第25章 造り主を覚えよ(B)
修道者:
主なる神よ、多くの人たちは、あなたを心の中でただ思い浮かべるだけの生活を望んでいます。ところが、その多くの人はそれを実践しようとしません。修道者の修行の多くは外面的な所作や行事に重きを置きすぎて、自己を無にすることが妨げられています。霊的であることを望みつつ、この世の過ぎゆく事柄のために多くの時間が取られ、自分自身の精神を集中して内的生活を省みることがまれになっています。
ああ、なんと情けないことでしょうか。たまたま静かにあなたのことを思う時をもとうとしても、自分自身の生活を厳しく反省することもなく、すぐに外的なことに思いが散らされてします。しかも、実際的には私たちが何に向かって進んでいるのかも分からず、堕落への道を進み、それを嘆こうともしないのです。
「すベての人がその道をみだした」ので、あの洪水が起こりました。私たちの心の奥底が乱れたとき、その人の行為も乱れるのです。清い心から良い生活を送りたいと願っても、その願いは簡単に刈りとられてしまいます。
私たちはしばしば偉い人たちがやったことの大きさに驚きますが、どこからそれだけの力を得たのかに注意を払いません。また強い人、富んだ人、美しい人、才能ある人、優れた著者、上手な歌手、巧みな職人などを賞賛しますが、その人がどんなに謙遜な心で、辛抱強く、敬虔で霊的であるかは、見過ごしてしまいます。
普段、私たちは人を外から見ていますが、主の恵みを通して見るとき、人の心の中が見えてきます。ボヤッとしていると外見によって騙されますが、神の恵みによって見るときに騙されません。(2:25:12~23)

17 Luke Etsuzou Nomahさん、播 稔さん、他15人

文屋 善明
4月27日 22:34 ·

4月27日、午後10時半、孫息子が奈良に向かって出発しました。道中の安全を祈ります。4月12日から27日まで滞在しました。とても楽しいときでした。

48 Luke Etsuzou Nomahさん、川染 三郎さん、他46人
コメント

松井 貴志 その車に乗って帰れば良かった~❗

望月 克仁 ちょっとお寂しくなりますネー

加藤 佑三 随分と長かったですね。ホッ!と
文屋 善明 敵もさるもの、こちらの限界を知っている。

文屋 善明
4月27日 23:16 · 福岡県 宗像市 ·

孫が来て何をしてるか分からない 仙明

32 Luke Etsuzou Nomahさん、藤木 冨士子さん、他30人
コメント

文屋 知明 ジイジが、まごまご⁉

文屋 善明 まさに

加藤 佑三 {最近の若者は?

加藤 佑三 世代が違うと、理解不能の状況が稀にありますよね。

Hajime Kawamukai お孫さんはテクノ異言を語られたのではないか…と
こんな感じの。
個々のポート番号が○番だから、そこにループホールを開けて、つないでやると問題なくできるはず、とか。CPUがデュアルコアで、メモリが4?信じられん・・・・おまけに常駐がメモリ食ってるし…とか

私は家内にこの種の異言を聞かせるので、あとから解き明かしを求められるという実に聖書的な家庭…w

文屋 善明 全くその通り。遊んでいるのと仕事をしているのとの区分が分からない。何しろ、映像なので画面に映っているのは映像なんですが。

文屋 善明 今までは孫のすることは大体把握できたのに今回は全くわかりませんでした。ショックです。

Hajime Kawamukai 大学の専門課程とか、修士課程に行き始めると業界用語という異言を喋り始めるようになり、仕事を始めると、社内用語という異言を話す模様。業界用語だけじゃなくて、社内規格用語とかも色々あるので。w

文屋 善明 彼は大学卒業後、1年間、映像関連の企業に勤め、今年の4月から独立して仕事をしています。彼の名刺によると「Tecnical Creator / Movie Director / Engineer 」ということらしいですが、私には、この名刺の意味さえ分かりません。え

Hajime Kawamukai 個人事業主として、映像関係の制作をする仕事で、映画監督と映画の作成にまつわる技術的な仕事をする人、ということですねぇ。今流行りの個人事業主、って感じですかねぇ。

電通とか、博報堂とかの広告代理店さんが企業から依頼を受けて作成するCMに使う映像を作ってらっしゃいそうな雰囲気プンプン・・・w

文屋 善明 電通みたいなところではありませんが、そんな感じです。

加藤 佑三 おじいさまのDNAを継いで、頭脳明晰・立派な社会人になられて、祖父を超えたのですね。

今週のローズンゲン 2017/04/23~04/29

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今週のローズンゲン 2017/04/23~04/29

2017 日々の聖句 4月23日(日)
あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。(申命記8:6)

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。(ロマ13:8)

私の黙想:
申命記の第1テーマそのもの。「ハイ、従います」で終わり、何も黙想することはない。それで、今日は全く別なことを。日本語って便利だと言うこと。
「畏れる」(フランシスコ会訳、岩波訳、文語訳)、これ口語訳、新改訳では「恐れる」。ここではどちらが正しいと言うことを論じるつもりはない。簡単な辞書ででも「おそれる」を入力すると「怖れる」、「懼れる」と出てくる。それぞれニュアンスが違う。英語辞書では、afraid、fearがある。ヘブル語でどれだけ類似の言葉あるのだろうか。
これに関連して、シュバイッツァー博士の思想のメインテーマは「生命への畏敬」であると言われている。畏れるということを丁寧に言うならば「畏敬」であり、それこそが聖書が語る「神への畏れ」の核心だと思っている。
私たち夫婦に長男が与えられたとき、予めお願いしていた通りに、松村克己先生に名付けをお願いしていたので、「男の子が与えられました」と電話で連絡し、1週間たって、お宅に名前を頂きに伺いますと、ご夫婦でお祝いの言葉と共に、筆で書かれた半紙を戴きました。それには「敬」という名前が記されていました。その時、松村先生は、この名前はシュバイッツァー博士の「生命への畏敬」に基づいたと、話されました。私はそれまで、先生の口からシュバイッツアー博士の名前を伺ったことがありませんでしたの驚きましたが、実はシュバイッツアー先生については「医療と神学」というテーマでかなり深く考えてこられたことを後に知りました。

2017 日々の聖句 4月24日(月)
み御救いを愛する人が、主をあがめよといつも歌いますように。(詩40:17)

イエスの言葉:「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。(ルカ19:5~6)

私の黙想:
偶然、昨日から「あがめる」とはどういうことか考え続けてきている。そのため、今日は主の祈りの「御名が聖とされますように」を分析しようと思っていたところである。「主をあがめよ」の部分、口語訳では「『主は大いなるかな』ととなえるように」となっている。フランシスコ会訳では「主は大いなる方」、新改訳は新共同訳と同じで「主をあがめよう」、岩波訳は面白い「大いなれ、ヤハウェ」、文語訳は「エホバは大なるかな」。岩波によると同じ表現が詩35:27、詩70:5では「大いなれ、神」という用例が示されている。漢字で書くと「崇める」である。
旧約聖書では「神となる」「民となる」という組み合わせは、レビ26:12、エレミヤ7:23、31:1、31:33、エゼキエル37:27、新約聖書では2コリント6:16、ヘブル8:10、黙示録21:3に出てくる。多少、論理が飛躍するが、私は「神を崇める」とは「神を神とする」、その裏には「民は民となる」これは「人間は人間になる」を意味すると解釈している。
主の祈りで一般的には「御名を崇めます」を聖公会では「御名が聖とされますように」と祈るが同じ意味だと思っている。「大いなるか」「聖なるかな」も同様。ここに神と人間との究極的関係が示されていると、解している。これはヨハネ福音書における「栄光」あるいは「栄光化」を解釈する中での発展である。

2017 日々の聖句 4月25日(火)
あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。(詩84:11)

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。(ヨハネ10:9)

私の黙想:
ここでは、どういう「千日」なのか書かれていない。口語訳とフランシスコ会訳では、「余所のいる千日」と言葉を補っている。文語訳、新改訳では、次の「主に逆らう者の天幕で長らえるよりは」を前の文と後ろの文との両方に掛けているようだ。岩波訳では次の行の冒頭にある「私が選んだ」を前の文章につなげて、「私が選んだ千日よりも善く」としている。詩文としては岩波訳は捨てがたい。
次のゴールデンウィークはどこに行こうか、といろいろ自分で考えても良い案はなかなか出てこない。まぁ、それよりも教会の庭の掃除にでも出かけようか、という信徒はいないかな。まぁ、いないでしょうね。休みの日はそれぞれ自分で考えて楽しく過ごしましょう。それが神にとってもとても「トーヴ(良いこと)」ですよ。

2017 日々の聖句 4月26日(水)
あなたは多くの災いと苦しみを、わたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう。(詩71:20)

イエスの言葉:心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(ヨハネ14:1)

私の黙想:
ここでの詩人は、多くの災い、苦しみを経験しているが、死んではいない。「死線を越えて、地獄を見てきた」とさえいう。だが、現実は死線など越えていない。死んでいたら、災いも苦しみもない。にもかかわらず、「再び命を得させてくださう」という。つまり、詩人にとって災いと苦しみの中にある時、死んでいるのと同じだという。普通人々は「死の苦しき」というとき、本当は死んではいない。何となく、「死=苦」という公式ができあがっていて、十字架というと死の苦しみという。しかし、信仰者にとって災いとか苦しみは死ではない。生きている証拠である。そこが「信じどころ」である。そこで「信じられるか、信じられないか」が甦りをもたらす。

2017 日々の聖句 4月27日(木)
初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。(43:18~19)

神の国は、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になる。(ルカ13:19)

私の黙想:
今日の聖句はイザヤ書でもone of the biggest wordsだ。で、今朝は小さなことに目を付けて考える。それは「それは芽生えている」という表現だ。まさに今、日本では芽生えの時だ。季語では「芽立ち」とか「芽吹く」というらしい。美しい言葉だ。「今や、それは芽吹いている」とでも訳すと、枯れた枝から目が吹き出る様子が目に浮かぶ。新芽はいろいろな色をしている。赤もあれば淡い緑もあれば、黄色もある。それらが暫くすると見んな濃い緑になる。この短い期間、私たちはうきうきする。
口語訳では「やがてそれは起こる」、いかにも散文的だ。フランシスコ会訳では「今にもそれが芽生えている」、新改訳は「今、もうそれが起ころうとしている」、まさに緊急事態である。文語訳は難しい「頓て(やがて)おこるべし」。この「頓」は、急に、時を移さずにその場で、たちどころに、にわかに」という意味である。岩波訳はなかなか凝っている、「今、もうその兆しは見えている」。そんなんです。その徴候はも既に見え始めている。妊婦の場合で言うならば、「もう陣痛は始まっている」のである。だから、勘のいい人ならば気付いている筈だし、気付いていなければならない。さぁ、今や日本でも何かが起ころうとしている。あまり脅かすと安倍政権をサポートすることになるから、大きな声では言えないが、何かが始まろうとしている。その兆しはあちらこちらに見られる。それが「吉か兆か」、吉であることを祈る。

2017 日々の聖句 4月28日(金)
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。(彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、)この僕たちを、神は御使いを送って救われた。(ダニエル3:28)

すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。(使徒言行録12:7)

私の黙想:
実に痛快の物語。3人のユダヤ人の青年たちの信仰の物語、括弧の中にその物語の核心部分が記されている。3人の青年を放り込んだはずの竈の中に4人の人間が歩いていたという。信仰者はたとえ迫害され、火の竈の中に放り込まれても、天使が助けてくれるという。
この物語の事実性などいかなる合理的解釈も不要である。これを信じたために、実際は竈の中で焼け死んでも、恨み言は無しです。それはすべて「自己責任」で、どうぞ。

2017 日々の聖句 4月29日(土)
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。(イザヤ53:1)

パウロの手紙:わたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。(コロサイ4:3)

私の黙想:
今日の聖句は疑問形で書かれているが、疑問文ではない。極度の驚きの表現である。その驚きの内容を、パウロの言葉で言うと、「(ヤハウェの)秘められた計画」である。預言者はイスラエル民族の上にヤハウェが計画された内容を知り、驚いている。それはとうてい普通の常識では考えられないことであった。ご承知のようにイザヤ書52章13節以下53章12節までの、「主の下僕の詩」であり、それは主の下僕がどういう形に顕れ、どう生きるかという預言である。主の下僕が「栄光の姿」ではなく、苦難の下僕として顕れる。それが何故イスラエル民族の救済になるのか、分からない。この理解不能なことに「ヤハウェの秘密」である」。パウロはそれを「躓き」と言った。まさに、躓きである。人類はすべて神の行為に「躓く」。
実はキリスト教史は、この躓きの解明であり、躓きの解消であり、「分かること」にしようとする努力である。それはそれで人間として仕方がないが、思い切って、神の行為に躓こうではないか。

昨日のFB 04/28 再臨論議

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お早うございます。主の平和。家内は整骨院へ。私は終日読書、松村克己『アウグスチヌスの「三一論」について——神学方法論についての一考察——』。昼食後30分昼寝(OTB)。釣川堤防散策。夕食後、孫の仕事ぶりを横で見る。専門的すぎて何をしているのかよく分からん。とにかく映像関係なんだろう。孫息子10時半に出発。風呂には行って日付変更の15分前に就寝。7時起床。体温:36.3、血圧(133:77、77)、体調・快調、チュン、チュン
追記:孫息子は7時半、無事奈良の自宅に到着しました。

26 加藤 治さん、佐藤 静代さん、他24人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

文屋 善明 追記しました。

Izumi Nara ご無事に到着よかったです。

東山 富昭 おはよう☀ございます。今日は、今、富田林の耳鼻咽喉科に行って、1ヶ月分の耳鳴りの薬を処方してもらったので、来月は、どんな、生活になるのでしょうか?主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

文屋 善明
4月28日 7:09 ·

今朝は寝坊したので、「お目覚めの花」以下は、朝飯後に。また後で。
さん、他21人

文屋 善明
4月28日 8:00 · 福岡県 宗像市 ·

お目覚めの花。興奮状態の2週間あまり、今日の金曜日はやっと落ち着きました。孫と一緒に過ごす時間は楽しいけれど、緊張して疲れます。(花は、赤村のカレー屋の庭にて)
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、木、屋外、自然

30 播 稔さん、東山 富昭さん、他28人
コメント

杉浦 紀明 最近、某グループのお仲間から「孫は来てうれしい、帰ってまたうれしい」と聞きました。

文屋 善明 孫もここまで成人すると(現在27才)と、そういう感覚ではありません。むしろ戦う緊張感です。孫の前に、私の全人生がさらけ出されている感じ。

文屋 善明
4月28日 8:14 ·

2017 日々の聖句 4月28日(金)
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。(彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、)この僕たちを、神は御使いを送って救われた。(ダニエル3:28)
すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。(使徒言行録12:7)
私の黙想:
実に痛快の物語。3人のユダヤ人の青年たちの信仰の物語、括弧の中にその物語の核心部分が記されている。3人の青年を放り込んだはずの竈の中に4人の人間が歩いていたという。信仰者はたとえ迫害され、火の竈の中に放り込まれても、天使が助けてくれるという。
この物語の事実性などいかなる合理的解釈も不要である。これを信じたために、実際は竈の中で焼け死んでも、恨み言は無しです。それはすべて「自己責任」で、どうぞ。

19 文屋 知明さん、辻本 昌弘さん、他17人

文屋 善明
4月28日 8:19 ·

今日の名言:@Indianteachings
朝起きたら、太陽の光と、おまえの命と、おまえの力とに、感謝することだ。どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、それはおまえ自身の中に、罪がとぐろを巻いている証拠だ。(ネイティブ・アメリカン、テクムセ・ショウニー族の首長)
<一言>彼らをどう猛で、危険な種族だという観念を世界中にばらまき、植え付けたのは、何処の、誰だ。彼らこそ、人類にとって最も危険な人種だ。今も、同じことをしている。

22 文屋 知明さん、北村 良輔さん、他20人
コメント

播 稔 朝目覚めると、今日も生きていたと思います。神よありがとう。

文屋 善明
4月28日 8:30 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第26章 己に勝つ
キリスト:
愛する者よ、君は君自身を全く捨て切らないかぎり、完全な自由を得ることは不可能です。誰でも自己中心に生き、自己自身を愛するならば、その人は「内なる鎖」につながれているのです。彼らは貪欲者、好事家、浮気者であり、いつもつまらないものを大事そうに抱え込み、イエス・キリストを求めず、長続きしないものを求めています。神から与えられたもの以外はすベて滅びてしまうのです。
私は君に何も難しいことを求めているわけではありませんよ。ただ、次の短い金言を心にとめなさい。「一切のものを捨てよ。そうすれば一切のものを見いだすであろう。過度の欲望を絶て。そうすれば安息を見いだすであろう」。ただ、このことを心の中で念じなさい。そして、それを実行に移すならば、あなたは万事を理解するでしょう。(2:26:1~5)
修道者:
主なる神よ、確かにこの短い言葉に霊的な人々のすべての徳が含まれていると思います。でも、これは幼子が口移しで歌えるように、実践できることではありません。(2:26:6)

15 辻本 昌弘さん、楠 真理子さん、他13人

文屋 善明
4月28日 8:36 ·

「断想:復活節第3主日の旧約聖書」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

12 文屋 知明さん、播 稔さん、他10人

文屋 善明
4月28日 8:48 ·

「昨日のFB 04/25」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

13 播 稔さん、辻本 昌弘さん、他11人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月28日 8:49 ·

5年前の「今日の名言」、この錯覚が社会を見る目を曇らせる。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月28日 · 福岡県 宗像市 ·
今日の名言:RT @1meigen:
人間は自分がいるところが曇ると、一部分ではなく、全体が曇ったと信じてしまう。(幸田露伴 )
<一言>これは面白い。ツイッターをしていて自分のタイムラインに流れる情報を他の人もみんな見ていると思い込んでいる人がいる。タイムラインはその人独自の情報の流れである。

12 播 稔さん、辻本 昌弘さん、他10人

文屋 善明
4月28日 11:31 ·

「昨日のFB 04/26」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

11 播 稔さん、辻本 昌弘さん、他9人

文屋 善明
4月28日 11:47 ·

孫たちはどんどん先に追いつかぬ 仙明

17 播 稔さん、辻本 昌弘さん、他15人

文屋 善明
4月28日 12:36 · 福岡県 宗像市 ·

再臨信仰って、特に空中再臨の思想と核爆発、核戦争、核爆弾の投下の思想と似ているように思う。再臨信仰は危ない。

27 加藤 治さん、萩野 秀子 さん、他25人
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コメント

杉浦 紀明 四重の福音を説教したら「共謀罪」。

霜山 雅也 母教会の先代牧師はそれで引っぱられた。

杉浦 紀明 霜山 雅也 さん、安藤仲市先生!

霜山 雅也 そぅ!

文屋 善明 私の問題提起について、肝心のホーリネスの人から、杉浦牧師を除いて、ないのは非常に寂しい。あなたたちは再臨信仰をどうしんじているのか。信じているのは、いい。問題はその信じ方だ。

鎌野 健一 確かに再臨信仰を語らない牧師も多いですね。今のような時代だからこそ語るべきでしょう。森山諭先生の再臨のメッセージを聞きました。もう召天されましたが、懐かしいです。東北弁で力強く語られていました。アメリカでは携挙のメッセージがよく語られているそうです。

杉浦 紀明 横から失礼します。鎌野 健一 (Kenichi Kamano)さん、「再臨待望大会」での森山諭先生の名調子の説教、今も覚えています。聖歌「夕べ雲焼くる」の作者でいらっしゃいましたね。森山先生はたしか福島県会津のご出身。私の母の生家も福島で、標準語ながらも東北弁のイントネーションと発音を残した森山先生のお話ぶりには親しみを感じたものでした。

鎌野 健一 杉浦 紀明 先生も東京で森山先生のメッセージをお聞きになられましたか。お元気な時には、わたしの教会によく来られました。わたしも塩屋聖会でも、わたしの教会の聖会でもよく来られ、よく聞きました。「夕べ雲焼くる」この賛美もよく歌いました。今、こういう先生がないのが寂しいです。

Mizota Michael Satoshi 再臨信仰の元になっているのは復活信仰なんで、これがまずは危険だと思いますね。

文屋 善明
4月28日 12:49 · 福岡県 宗像市 ·

だいたい今頃の若い牧師連中は再臨信仰ってどんな信仰か知らない。まして空中再臨の思想も知らないでしょう。ざまみろ、私の言っていること通じないでしょう。

44 斎藤 成二さん、播 稔さん、他42人
コメント

Hajime Kawamukai 年寄りなので、よくわかります。ディスペンセイション神学産み出した教派にいたので

Hajime Kawamukai 中田重治先輩とか、それが内村先生に飛び火して…w

文屋 善明 そうそう、核爆弾の思想と似ているでしょう。

Mizota Michael Satoshi 知ってます。ホーリネス分派のペンテコステ派だったから空中携挙はわかります。

Hajime Kawamukai なので核戦争を期待する人々、とかw

Hajime Kawamukai これっすね
https://www.amazon.co.jp/核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記-朝日選書-越智-道雄/dp/4022594861

文屋 善明 ちょっとカーブかけるとハルマケドンの思想になる。

Mizota Michael Satoshi ああ、分かるな。わかっちゃいけないんだが。。。

Hajime Kawamukai オウムのハルマゲドンは、プリマスブラザレン由来w

大坂 太郎 残念ながらよく知ってます。その中にいるもので、、、携挙ごっことかですかね、、、ふふふ。

Mizota Michael Satoshi 空中携挙はありますよね。否定することはできんとは思っています。書かれてることから行くと。

Mizota Michael Satoshi 大坂先生のところといとこみたいな教会だったですから、ガイガーカウンターもMAXですね。。。危険極まりないw

Mizota Michael Satoshi だいたい聖公会の祈祷書は聖書の「いいところ」しか抜き書きしてない&3年周期暦年の聖書日課もところどころ飛ばしてるんで、信じるべき箇所は決まってる、ともいえる。あとは読まない。

Mizota Michael Satoshi 祈祷書では、聖書は深く学ぶべきもの、とされ、信じなさい、とは書かれていないというところでしょうか。。。聖書を「正しく読む」ことだけに「まい進」したいので、かえって「聖書を信じない道」を選んでる気がします。ご本尊にするとどうしても切ろうとする刀の切先が鈍る。

Mizota Michael Satoshi 大食い系統の牧師がいますけど「はるまげ丼」とかあるみたいですけどね。私は半分も食べられません。。。
http://www.geocities.jp/.../contents_terameshi_club_347.html

一期一食・テラめし倶楽部(バトル347・吉ちょう)
GEOCITIES.JP

Hajime Kawamukai 誰かがわかる・・・う○○牧師ですよね。

Mizota Michael Satoshi 伏字にしないでくださいよ。「うんこ」が入りそうではないですか。。。

文屋 善明 再臨信仰については、私のブログぶんやさんちで取り上げています。

Mizota Michael Satoshi カクテルで「空中携挙」とかがあればいいのに。ブラッディーマリーもあるんだし。。。

大坂 太郎 rapture,,,

大坂 太郎 いいんじゃない。歓喜、とか有頂天って意味もあるし。爆。

Mizota Michael Satoshi 「芋焼酎・再臨」とか。。。

大坂 太郎 Mizota Michael Satoshi 和のテイストですか。

Mizota Michael Satoshi 漢字なんでね。。。空中携挙は英語で何だろう。。

Mizota Michael Satoshi 「聖母被昇天」とかも体操のテクニックとかでありそうな名前。。。

Hajime Kawamukai Mizota Michael Satoshi さま

>空中携挙は英語で まさに大阪先生のお答えどおりRapture...もっと見る

大坂 太郎 Hajime Kawamukai レフトビハインドは、、、にがそうだなあ。泣、

Hajime Kawamukai あるいは、レムナント・・・ 酸っぱいレモン味がする・・・とか。w

Mizota Michael Satoshi そうか。英語では答えられなんだ。。。

Mizota Michael Satoshi 「ちょっと、あそこのレディーに空中携挙をひとつ頼むよ」とか、嫌にキザだな。。。。

Hajime Kawamukai 上階のホテルにお持ち帰りするのに最適・・・とか。w

Mizota Michael Satoshi 色は青く透き通っていて、飲んだらサンポールの味がしたとか。。。

Mizota Michael Satoshi 嫌がらせだわなあ。。。

Hajime Kawamukai サンポールだと、酸が効く・・・ので、歯がぼろぼろに・・・。

Mizota Michael Satoshi ひとかけみこすりサンポール。思った以上にきれいだなあ。。。
https://www.youtube.com/watch?v=qRi4eXetqPk

サンポール・ダイキンCM 80年代後期

YOUTUBE.COM

小渕 春夫 体重が重くても空中に浮かぶのですか? 往年の小錦でも大丈夫ですか?

Mizota Michael Satoshi 霊にも体があるそうですね。まあ霊の体があるからといって霊の重力がないとは言えないのでそこらへんはどうもいえないw

Mizota Michael Satoshi そうか「ソウル火の海」ってのは大リバイバルが韓国で起こる預言だということか(違。。。

文屋 善明 再臨信仰に対する批判はあくまでも真剣にそして誠実になすべきで、決してふざけてはならないというのが私の基本的姿勢です。何故なら私が回心したときの動機の半分は再臨信仰であり、ファンダメンタリズムから離れたときの主な理由は再臨信仰への批判だからです。今もなお真面目に信じている人の信仰を茶化してはならないと思っています。その点誤解のないように。

矢野 寛子 私の父は再臨信仰の伝道者でした。(超有名)ところが現在属ている教会では全くこの問題に触れません。主人が以前、伝道師たちに「携挙っ知ってる?」と言ったが、全く知らなかったようです。文屋先生は関学をご卒業との事ですが、関学では全く教えておられないのですか?

長倉 崇宣 終末論なんてカッコつけるより、再臨なんていうプリミティブな言い方の方が、僕の性に合ってると思ってます。

杉浦 紀明 私は再臨を真面目に信じて説教します。再臨を真面目に信じないならば、キリストを信じることは虚しいとさえ思います。死者の復活と同様に再臨があるからこそ、希望があります。

石田 聖実 学生の頃は再臨待望大会などにも出席しておりました。
うちの教団の信仰告白にも「主の再び来たりたもうを待ち望む」と明記されています。

小渕 春夫 再臨は真面目に信じてますが、信者が空中に浮く空中携挙はよくわかりません。

文屋 善明 私にとって再臨は神学的思惟の原点であり課題です。それは信仰(神話)と物理とを切り結ぶ接点だからです。私の場合、神話とはメンタルな世界の象徴です。その上で、再臨を一つの神話とし、それを物理的現象とする信仰には徹底的に批判しています。

眞野 玄範 本当に過去のものになっているのならいいですけれど。

二上 英朗 聖書に書いてあるとおりですね。米国TV映画で、レフトビハインド(空中携挙)が大流行ですから、あんがい若い世代が知ってるかも。むかしのホーリネス信仰の再臨ブームは、それが原因で戦時中に牧師17人が検挙されて獄死させられたので、古い牧師は話題を避けますけど。

文屋 善明 今さら、再臨信仰を復興させる必要もないが、キリスト教史の基本的な課題であり、再臨信仰って一体どういうものであったのか、それを現在いかに克服したのか、さらには、それを今どういう風に解釈するのかということが、重要で、「習っていない」「知らない」で済まされるものではないと思う。知らないことが、危ない。空中再臨、千年王国、ハルマケドンの戦いなどなど。

長倉 崇宣 ホーリネスでも、最近は殆ど聴かないように思います。いつの間にか消えてるというのが、一番良くないと思います。

Mizota Michael Satoshi 書かれてあることは「すべて実現する」ことです。おそらくそのまま理解しようとするならば「間違い」に陥るでしょう。もう少し概念をきちんと理解したいところ。空中とか「青いお空」を想像するのもいいのかもしれないですが、「結局のところ何が言いたいのか」をもう少し考えてみたいもの。

福山 貴之 · 共通の友達6人
レベルが高すぎる

Mizota Michael Satoshi 聖公会だとそんなもんでしょ。基本的に勉強しないのがいいからねえ。福音派がいいところはたとえ読み間違っていても、きちんと聖書に向き合おうとしているところですよ。

福山 貴之 · 共通の友達6人
福音派って大阪に教会ありますか?

Mizota Michael Satoshi え、山ほどあるでしょう。。。

福山 貴之 · 共通の友達6人
ニッキやカトリックは福音派ですか?

Mizota Michael Satoshi 日本基督教団は合同教会だから「元の由来が福音派」なところはあるでしょう。カトリックは福音派ではない(福音主義者はいるけども)。

https://ja.wikipedia.org/.../%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE...
日本の福音派 - Wikipedia
日本の福音派(にほんのふくいんは)について記述する。キリスト教のプロテスタントにおいて日本の福音派とエキュメニカル派は、明白に分かれている[1][2]。両者は前提が異なるのであり、リベラルが人間理性を最終権威とするのに対し、聖書信仰の福音派は神の言葉である聖書を最終権威とする[3]。
JA.WIKIPEDIA.ORG

馬場悦郎 · 共通の友達: 眞野 玄範さん、他1人
共謀罪法案成立を視野に入れると、純粋に再臨信仰を持つクリスチャンに対する思想弾圧も可能になるのではないかと危機感を感じます。

金井 望 ウウ~~ッ、失礼ながら、皆さん自分が「今頃の若い牧師」だと勘違いしておられるのかも?

私は森山諭の弟子ですから、当然、骨の髄まで再臨信仰が染み付いております。

ということは、ーー諸君はもう「今頃の若い牧師」ではないのだ! 自覚せい!ーーと大先生は仰せなのであります。

深読みし過ぎでしょうか(爆)

文屋 善明 まぁまぁ、この「今ごろ」とは逆に言うと再臨信仰との血のにじむような格闘をしていない、ということでしょうね。リベラリズムを含めて。

文屋 善明 金井先生が「森山諭先生の弟子」だとしたら、この問題に関しては私は「車田秋次の弟子」だと言わねばならないでしょう。私がまだ聖書学院の修養生(そこでは神学生のことをそう呼んでいた)だった頃、東京ではある一部の牧師たちの間で「再臨待望祈祷会」というような集会がしばしばもたれ、何人かの修養性もそこに出席していたように思う。また、米田豊先生をはじめ何人かの教授たちも出かけていったように思うが、車田先生だけは、その種の集会には参加していなかったし名前も出していなかった(ように思う)。私の中では「不思議だ」という思いがありましたが、恐らくそれが車田先生の矜持だったと思う。再臨信仰への批判の言葉を聞いたことはないが、「非常に消極的」だったことは確実です。ある意味で「再臨信仰の危険性」を最も強く意識しておられたのだと思う。

Mizota Michael Satoshi 克服してないんでは?誤解をしながら克服したつもりとか。。。

Mizota Michael Satoshi (だいいち復活からして信じてないんだからね。。。)

金井 望 小生は大学時代、荻窪に3年間通い、1年間住み着いて、可能な限り集会に出席し、朝食を牧師館でご馳走になって、森山諭先生からホーリネス運動と再臨待望運動の歴史と信仰について学びました。また、古書店などでこれに関係する書物を収集し、研究しました。

当時、大学では国際政治(安全保障論)とエコロジー経済学を中心として学び、持続可能な社会への転換について探求していました。

「再臨待望と社会改革は矛盾するのではないか。世俗の仕事などせずに、ひたすら伝道すべきではないか」と悩みましたが、マタイ25章と第一テサロニケを読んで納得がいき、社会運動系の生協に就職した次第です。腰を痛めて、3年後に転職しましたが。

確かにアメリカには『核戦争を待望する人々』で批判された如き、無責任な終末論・再臨論を説くファンダメンタリストがいます。

しかし、森山諭師をはじめ、戦後にホーリネス系の再臨待望運動を指導した牧師たちは、日韓友好や難民救済、高齢者福祉など社会的な活動にも熱心に取り組んでおられました。いや、それは現在進行形です。

森山諭師は中田羽後師と共に、中田邸で荻窪栄光教会を興したのです。日本の聖歌の父・中田羽後師は中田重治師の次男であり、重治師が指導したリバイバル運動や再臨待望運動でも音楽をもって活躍していました。森山・羽後両師は、中田重治師の指導したホーリネス運動・再臨待望運動の「過熱」「脱線」をよく知っていましたから、決して反社会的な教育や活動をすることはありませんでした。

むしろ、アメリカのファンダメンタリズムに感化された戦後の「福音派」に、厭世的な再臨論を説く牧師たちがいたように思います。

終末論・再臨論については幾つもの異なった教理がありますけれど、どれが絶対に正しいと言えるものではないでしょう。いわゆるレフトビハインド史観とて、聖書解釈の可能性としては、全面否定できるものではない、と思います。

文屋 善明 ご丁寧なご報告ありがとう御座います。

金井 望 聖書の解釈においては、それぞれのテクストと文書について字義的、文学的、歴史的、社会的等いくつもの光があてられますし、キリスト教会としては何よりも正典論的な解釈、すなわち正典全体における整合性を考慮する必要があります。
いくつものプロセスを経るわけですから、再臨論についても可能性としては多種多様な教説が存在するのは当然でしょう。
実際に「その時」になるまでは、わからないことだらけです。けれども、キリスト教2000年においてどのような教説が生まれてきたのか、これは無視しちゃならんと思います。このスレッドを拝見して、私が数年前にまとめた再臨論の思想史レポートを、ブログにのっけようかな、と思いました。
とりあえず、この本↓は、とてもよくまとめてくれています。

聖書VS.世界史 (講談社現代新書)
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金井 望 「体重が重くても空中に浮かぶのですか? 往年の小錦でも大丈夫ですか?」
「その上で、再臨を一つの神話とし、それを物理的現象とする信仰には徹底的に批判しています」...もっと見る

宇宙は本当にひとつなのか―最新宇宙論入門 (ブルーバックス)

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文屋 善明
4月28日 15:10 ·

今日の「折々のことば」は、あまりに重すぎて、そのままそっと呟くだけにしておきたいぐらいだ。残念ながら、こういう言葉は私の口からは出てこない。なぜなら、この言葉が口から出てくる前に、私の心の中では「神さまのお蔭だ」、「神さまが生かしてくださった」と思うからである。生きているのは「生かされている」のだという信仰が、「生きてきた自分を褒めるという」思いを妨げている。と、ここまで考えていたら、私の後ろから、そっと「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉が聞こえてきた。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1336288606448597&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

56 岡本真知子さん、播 稔さん、他54人
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コメント

富山 信 先生の文章に感動と感謝をもって読みました。私も弱さを抱える息子を育てています。すべてはイエス様のおかげですが、よくぞ、がんばったと言われたら、うれし泣きすると思います。シェアさせてください。お願いいたします。

樋口 重夫 シェアさせてください。

播 稔 柳田邦男氏の本をよんだとき、涙が出ました。

文屋 善明
4月28日 15:23 ·

俊樹はとても苺が好きで、昨晩、奈良へ帰る前に、一緒にこの苺を食べました。
孫と食う甘酸っぱさ苺かな 善明
画像に含まれている可能性があるもの:フルーツ、食べ物

44 望月 克仁さん、岡本真知子さん、他42人

昨日のFB 04/29

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お早うございます。主の平和。二人で整骨院へ。読書、『アウグスチヌスの「三一論」について——神学方法論についての一考察——』。昼食後30分昼寝(OTB)。一寸した思いつきで、再臨論と核爆破との関連を考えた。意外に反響が大きいので驚いている。夕食後はイミタチオの現代文化。10時に就寝。6時起床。体温:36.3、血圧(141:78、78)、体調・快調、チュン、チュン

24 小貫 ツマさん、望月 克仁さん、他22人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
先生ご夫妻の今日の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

藤木 冨士子 こんばんは😃🌃

文屋 善明 おそいやん。どうしたんや。

藤木 冨士子 なれへんスマホのお陰です。

文屋 善明 ヘンなこと聞いてスンマホン。

文屋 善明
4月29日 6:13 ·

お目覚めの花。「いつもの散歩道」「しかしいつも変わってくる」「毎日違う」。(今朝の花は目も覚めるような紫色、この花いつもの散歩道で)
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、屋外、自然

29 大野 泰男さん、岡 輝美さん、他27人

文屋 善明
4月29日 6:32 ·

2017 日々の聖句 4月29日(土)
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。(イザヤ53:1)
パウロの手紙:わたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。(コロサイ4:3)
私の黙想:
今日の聖句は疑問形で書かれているが、疑問文ではない。極度の驚きの表現である。その驚きの内容を、パウロの言葉で言うと、「(ヤハウェの)秘められた計画」である。預言者はイスラエル民族の上にヤハウェが計画された内容を知り、驚いている。それはとうてい普通の常識では考えられないことであった。ご承知のようにイザヤ書52章13節以下53章12節までの、「主の下僕の詩」であり、それは主の下僕がどういう形に顕れ、どう生きるかという預言である。主の下僕が「栄光の姿」ではなく、苦難の下僕として顕れる。それが何故イスラエル民族の救済になるのか、分からない。この理解不能なことに「ヤハウェの秘密」である」。パウロはそれを「躓き」と言った。まさに、躓きである。人類はすべて神の行為に「躓く」。
実はキリスト教史は、この躓きの解明であり、躓きの解消であり、「分かること」にしようとする努力である。それはそれで人間として仕方がないが、思い切って、神の行為に躓こうではないか。

31 小貫 ツマさん、久保和男さん、他29人

文屋 善明
4月29日 6:34 ·

とうとうやったか!

北朝鮮が弾道ミサイルを発射 | 2017/4/29(土) - Yahoo!ニュース
Yahoo!ニュース
NEWS.YAHOO.CO.JP

15 畠山 秀明さん、望月 克仁さん、他13人
コメント

水草 修治 どこに飛んで行ったんでしょう。どこに落ちたんでしょう。うちには来ませんでした。
数秒後に爆発と、いま見ました。米軍に操作されているんじゃないかという観測もありますね。閣僚たち10人だったかが連休中、11億円かけて外遊するようすを見ると、ほんとは危機じゃないのかも、と思ってしまいます。

播 稔 みずから爆発させたのではと思います。

松下 光雄 失敗だったそうですね。
一箇成功したら、その次は本番なのでしょうか?

杉浦 紀明 東京では地下鉄が止まったそうで...正気の沙汰ではないです。
http://www.asahi.com/articles/ASK4Y2JGVK4YUTIL001.html

東京メトロなど一時見合わせ 北朝鮮ミサイル発射報道で:朝日新聞デジタル

ASAHI.COM

杉浦 紀明 報道を聴いてから止めたって間に合わないww

糸原 由美子 いかに危機にさらされているかをアピールしたいのでしょうね。

糸原 由美子 東京より、関西のほうが近いのに、関西ではあまり騒ぎにならない。政府のお膝もとだから東京は大騒ぎ!

三枝 千洋 · 共通の友達: 楠 真理子さん、他24人
むしろこの後の核実験やった情報の方が怖かったです。続報ないとこみるとガセだっようですが。

畠山 秀明 やりましたね。若き独裁者・金正恩の暴走はどこまで続くんでしょうか。

文屋 善明
4月29日 6:39 ·

今日の名言:@SNOOPYbot
学問ていうのは大変な冒険なのよ! (スヌーピーの言葉、ベパーミントパティ)
<一言>本当だよ。その学問をするところが大学で、その大学を文科省のバカ連中がいじくり回している。そのため、「冒険の場所」でなくなってしまっている。

18 小貫 ツマさん、久保和男さん、他16人

文屋 善明
4月29日 6:42 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第26章 己に勝つ(B)
キリスト:
愛する者よ、完全ヘの道の厳しさを聞いたからといって、逃げ出したり、挫けたりしてはなりません。むしろそれによって心を燃やし、もっともっと強く完成への道に挑戦しなさい。この姿勢が君の普通の状態となり、自分自身への愛を克服し、私と父なる神の御心を行おうとする心がまえに達するならば、君は間違いなく私の弟子となり、私の愛に相応しい者となり、君の全生活は喜びと平安に満たされます。
君にはなお多くの捨てるベきものがあります。それらをすベてを私の祭壇の上に捧げない限り、君が望んでいる状態には達することはできません。黙示録でも勧められているように、「豊かな者となるために、火で精錬された金を私から買いなさい」ということです。要するに君が地上で持っている財産をすべて処分して目の前にあるがらくたを買いなさい、ということで、そのがらくたこそが天では金銀財宝なのだという教えなのです。そのこころは、天での知恵は、自分を高く評価しないということ、地上は偉大な人とは思われないこと、人々から軽蔑され、忘れられてしまうことを意味します。言わば、天の知恵こそ、多くの人々にとっては隠された高価な真珠なのです。(2:26:7~12)

20 小貫 ツマさん、久保和男さん、他18

文屋 善明
4月29日 6:45 ·

<イザヤ43:2(復活節第3主日の日課)をイメージして>
水の中燃える炎もなんのその、死を乗り越えて、我共にあり 善明

17 久保和男さん、望月 克仁さん、他15人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
4月29日 7:01 ·

5年前の「今日の名言」
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年4月29日 · 福岡県 宗像市 ·
今日の名言: RT @meigennavi:   
人間らしく生きるために七分は真面目人間、三分は不真面目人間で生活するのが「生きる智恵」と言うべきであろう。(遠藤周作) 
<一言>それが真理だという何の根拠もない。ただ、私の中で「そうだ、その通りだ」という思いがあるだけだ。これを経験的真理という。こういうところが遠藤周作の魅力である。

8 望月 克仁さん、安井 郁夫さん、他6人

文屋 善明
4月29日 9:29 ·

みどりの日そこのけそこのけ昭和の日 善明

28 楠 真理子さん、小貫 ツマさん、他26人
コメント

吉田 櫻井 啓子 もうこんな祝日やってるなら記紀からの全部の(わかる限り)天皇誕生日を祝日に!
たぶんプレミアムフライデーやハッピーマンデーより休めます。wwww

藤木 冨士子 途中で変えるさかいわけわからんようになりました。

文屋 善明 ほんまや。祝日なんか平気で変えるんやいうこと勉強しました。

小貫 ツマ 東京教区は各地区ごとに、「グリーンデーピクニック」を計画し、そのまま続けています。

文屋 善明
4月29日 9:38 ·

何処へ行く見つけた隙間みどりの日 善明

22 小貫 ツマさん、川染 三郎さん、他20人
コメント

播 稔 昭和天皇の誕生日を知らない若者は多くいそうだ。

文屋 善明
4月29日 9:54 ·

「昨日のFB 04/27」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

15 川染 三郎さん、望月 克仁さん、他13人

文屋 善明さんが写真8件を追加しました。
4月29日 19:15 ·

今日の散歩道。私の自撮り、影薄いなぁ。(今時の人「影薄い」っていう意味知っとるかな。まぁ、知らんでもいいや)。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然、屋外

33 北村 良輔さん、植村 光郎さん、他31人
コメント

Izumi Nara でも若いひとは、顔がこい!とか言いますよ。

文屋 善明
4月29日 20:45 ·

「今週のローズンゲン 2017/04/23~04/29」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

11 植村 光郎さん、川染 三郎さん、他9人

文屋 善明
4月29日 22:28 ·

昭和の日夫婦の長さ思うわれ 善明

50 増野 真美さん、植村 光郎さん、他48人
コメント

文屋 善明 結婚55年の記念日です。

大脇 友弘 記念日でしたか、おめでとうございます。

清水 晴好 おめでとうございます。

山本 友美 文屋司祭、久子様、おめでとうございます。私どもも55周年を超えて頑張りたいです。

久保和男 おめでとうございます。

杉浦 紀明 おめでとうございます!「私と同じ月日」と伺ってから、「金婚は過ぎたはず」と思いつつ、何年になられたのかと考えていました。55年前、私は3歳、私のほぼ半生ぶんの結婚生活、これからも天父の恵み豊かにありますように。

濱 和弘 結婚記念日、おめでとうございます。

門叶 国泰 おめでとうございます。55年?54年?

村田 多鶴子 おめでとうございます~♥(*^_^*)♥

文屋 善明 はい、今日から55年目に入ります。数え方の問題は「結婚記念日」とは結婚式当日も数えるのか否かという点にあるようです。数えると、55回目、数えないと54回目の「記念日」ということになります。

門叶 国泰 成る程!「数え」ですね。

文屋 善明 そうです。還暦や喜寿等の「数え」にもずれが出てきます。

杉浦 紀明 なるほど、そうするとうちも33年目になります。何だか法事みたいな妙な気分(汗)。

吉田 櫻井 啓子 結婚記念日おめでとうございます。
実は、もう崩壊寸前な私ども夫婦の結婚記念日は12月23日です。いや、天皇はどーでも良かったのですが、主賓である大学の教授が有名で多忙なために、この日しか選べなかったのです。
14年でズタボロになる私から見たら金婚式以降の方々はもう尊敬としか申し上げられません。

昨日のFB 04/30

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お早うございます。主の平和。北朝鮮がミサイル1ッ発発射、直後に失敗判明。米空母日本海に進出。午前中はほとんど古い写真の整理にかかった。400枚ほど廃棄。下痢気味で、外食は控えた。昼食後、30分ほど昼寝。午後から読書、『アウグスチヌスの「三一論」について』。1頁ほど。釣川堤防散策。夕食後はイミタチオの現代文化。10時半に就寝。5時半起床。体温:36.1、血圧(130:70、75)、体調・快調、チュン、チュン

27 播 稔さん、松井 信一さん、他25人
コメント

久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

東山 富昭 おはよう😃ございます。身体は、かわりばえはしません。聖日礼拝で、教会に行きます。今日は、教団の南海地区の講壇交換です。主なる神と主イエス・キリストにあって、歩みます。よろしく、お願いします。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
どうぞ、お大事になさって下さいませ。
先生ご夫妻の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

藤木 冨士子 こんにちは。

文屋 善明
4月30日 6:04 ·

お目覚めの花。「今日は復活節第3主日、復活節のピークだ」。(今朝の花は昨日に続いて、いつもの散歩道の道路脇に咲いていた、赤い花。赤は写真写りが悪い)
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、屋外、自然

24 入口 紀男さん、播 稔さん、他22人
コメント

杉浦 紀明 赤色はデジカメで撮るのが大変に難しく、赤い花は露光で調節するのですが、老眼鏡必須になった私は今では露光だけでなくピント合わせにも難儀しております(笑)。

文屋 善明
4月30日 6:28 ·

2017 日々の聖句 4月30日(日)
低くされたわたしたちを御心に留めた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。(詩136:23)
もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。(ヨハネ8:36)
私の黙想:
「低くされたわたしたち」ときたら、ほとんど反射的に「誰によって」という疑問が出てくる。それでこの詩を改めて読み返してみると、それらしい言葉は24節の「敵からわたしたちを奪い返した方に感謝せよ」と続き、「敵」が私たちを低くしたらしいと読む。じゃあ、その「敵」とは誰だ、となるとこの詩の中では答えがない。と思いながら、ふらふらと口語訳を見ると、「われらが卑しかった時に」とあり、受け身形ではない。だから「誰によって」という疑問はわかない。私たちが未だ貧しかった頃、と読める。フランシスコ会訳、新改訳では「卑しめられたとき」で受動態だ。岩波訳では「低いとき」だ。面白い。こうなったら、私はお手上げだ。
ところで文語訳を見ると、これはまた面白い「われらが賤しかりしときに記念したまえる者に感謝せよ」。こういう場面で「記念」という言葉が出てくると違和感があるが、面白い。貧しさを記念する、という感覚。これはもう「御心に留めた」とはかなり違う。岩波訳では、この部分「われらを思い起こし」で、これは「記念」にかなり近い。私たちが未だ「身分の低かったときのことを」ズーッと思っているのはヤハウェだというニュアンスである。私たちは、忘れたいと思っていることを神は忘れない。さて、この結論は、お預けだ。

26 播 稔さん、小貫 ツマさん、他24人
コメント

門叶 国泰 「シェーペル」は名詞形ですね。やはり、岩波が正確なのですね。コヘレト10:6と詩136:23だけに使われています。

文屋 善明 ありがとう御座います

文屋 善明
4月30日 6:33 ·

今日の名言:@Wilde_meigen
女は男に欠点があるからこそ愛するのだ。男に欠点が多ければ多いほど、女は何もかも許してくれる。我々の知性さえもだ。(オスカー・ワイルド)
<一言>これは本当だ。実証済みの真理である。一言付け加えるならば、男には女の欠点が見えない。

17 北村 良輔さん、播 稔さん、他15人
コメント

播 稔 これは 何故か本当ナンダナー。

文屋 善明
4月30日 6:38 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第27章 心の統一
キリスト:
愛する者よ、君自身を含めて人間というものの愛情に頼よってはなりません。それは一つの物から、何か一寸したことがあるとすぐに他の物に移ってしまいます。君は生きているかぎり、移ろい易いのです。今、笑っていると思ったら、次の瞬間泣き始めます。今、安心していると思っていたら、すぐに悩み始めます。ある時は勤勉で、ある時は怠け者になります。ある事柄では慎重で、また別なことでは軽薄になります。
しかし霊的生活を積んでいる人は、このように移ろい易い人間の本性を超えて、自分の内部で何を感じているので、つむじ風のように方向性のない風に迷わされることなく、自分の心が向いている方向を定めています。すべてのゴチャゴチャした状況においても、自分自身が進むべき方向を見定めしっかりと進むことができるのです。
人間は内的な目が清らかであれば、それだけ確固として嵐の中を通つて行きます。けれども多くの人には、方向を定めるべき目も、鱗に覆われ、現実を朧気にしか見えないのです。それで、どうしても安易な道に進んでしまいます。
自己追求という鎖から全く解き放たれた人はめったにいません。その昔、ユダヤ人たちがベタニヤのマルタとマリヤとの所に集まって来たのは、「イエスのためだけでなく」、甦ったラザロも見ようとしたのであった。だから人間は自分自身の目を清め、すべての障害を乗り越えて、真っ直ぐに私を見なさい。(2:27:1~9)

23 播 稔さん、濱 和弘さん、他21人

文屋 善明
4月30日 8:13 ·

「昨日のFB 04/28 再臨論議」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

11 播 稔さん、竹本 耕造さん、他9人

文屋 善明さんが写真4件を追加しました。
4月30日 17:30 ·

今日は教会の朝の礼拝に参加し、聖書研究会でヨハネ福音書14章を学び、帰りに信徒の方が岡垣町の岡湊神社の「なんじゃもんじゃ」を見て、家まで送って頂きました。岡湊神社では牛島司祭ご夫妻とばったり、楽しい一時を過ごしました。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、自然

35 播 稔さん、佐藤 静代さん、他33人
コメント

烏田牛島 和美 とってもキレイでしたね。お会いできて嬉しかったです。

文屋 善明 私たちも!

文屋 善明
4月30日 17:33 ·

奇遇!
画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、屋外

烏田牛島 和美さんが写真3件を追加しました — 牛島 幹夫さんと一緒です。
4月30日 16:35 ·
対馬はひとつばたご祭りの日。だけど行けないから、直方近辺でひとつばたごを検索すると芦屋にありました。満開!低木に仕立ててあるので、間近で見れます。対馬とはまた趣が違って、花にまみれて見れました。明日はもう1ヶ所、戸畑教会の用事の帰りに行ってみます。


12 辻本 昌弘さん、竹本 耕造さん、他10人
コメント

村田 多鶴子 これって「ナンジャモンジャ」じゃないのかしら?!…と思いながら調べてみましたら、ヒトツバタゴ=ナンジャモンジャということが分かりました。それにしても立派な樹ですこと!

文屋 善明
4月30日 20:05 ·

今日の「折々のことば」、大変遅くなりました。もうスルーしようかとも思いましたが、一言だけ。この人、温又柔さんは何か深くものを考えようとする場合、いったい何語で考えているのだろうか、と考えていた。その上でバイリンガルの難しさを思い起こす。
実は、私は小学校の3年生の1学期まで日本語と中国語(満洲語)のバイリンガル状態で育った。両親は日本人だが、共働きで昼間はほとんど中国人の女性に育てられた。彼女はほとんど日本語が話せない。だから彼女と話すときは中国語、両親と話すときは日本語で、子どもながら不自由は感じていなかった。両親は片言の中国語しか話せなかったので、そのお手伝いさんとの会話は私が通訳しているような状況でしたが、敗戦と同時に、一瞬で中国語社会とは完全に切り離されて、日本人の収容所に入れられた。そこを管理しているのは朝鮮人で、そういう生活が1年続いているうちに中国語は完全に忘れてしまった。あのまま順調に育っておればほぼ完全にバイリンガルになったかも知れない。
と、そこまで考えて、そうだ。温さんは日本語でもなく台湾語でもなく、温さん独自の「言葉」でものを考えているのだと思い当たった。それが特定の「国語」の呪縛から解放されるという状況なんだろうな、と思う。恐らく、表現も温さん独自のものがあるのだろうなと思う。「私は日本語に住んでいます」という表現は、実に面白いと思う。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1338633866214071&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

30 木下 海龍さん、Luke Etsuzou Nomahさん、他28人

昨日のFB 05/01

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文屋 善明
5月1日 6:17 ·

お早うございます。主の平和。教会の礼拝にでて、聖研、加藤ご夫妻の車で帰宅。途中で岡垣の岡湊神社に立ち寄り「なんじゃもんじゃ」を見た。今年は見られないと諦めていたが、見ることができてうれしかった。神社では偶然、牛島夫妻と会った。帰宅後、写真の整理。夕食後はだらだらと「さんまの転職 de 天職」を見て10時半に就寝。6時起床。体温:35.7、血圧(142:81、73)、体調・快調、チュン、チュン

27 増野 真美さん、北村 良輔さん、他25人
コメント

村田 多鶴子 おはようございます~♪暖かい(ひょっとしたら少し暑い?)日になるそうです。
どうぞ、お大事になさって下さいませ。先生ご夫妻の歩みが守られ祝されますようにm(__)m

東山 富昭 おはよう😃ございます。今月も、よろしく、お願いします。主なる神と主イエス・キリストにあって歩みます。

萩野 秀子 おはようございます。チラシ配りです。守られますようにお祈りします。

藤木 冨士子 こんばんは。

久保和男 今日は、こんばんはです。主の平和

文屋 善明 お早うから、今晩はまで、良い日でした。でも、私はその半分は寝ていました。

久保和男 私も結果okのよい日でした。

文屋 善明
5月1日 6:26 ·

お目覚めの花。「今日から5月、皐月(さつき)とも呼ぶ。美しい季節だ」。(写真の花は、名前は知らないが、昨日、聖堂に飾られていた花、祭壇花ではありません)。
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物

38 木下 海龍さん、小貫 ツマさん、他36人

文屋 善明
5月1日 6:41 ·

2017 日々の聖句 5月1日(月)
見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。(エレミヤ18:6)
なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。(エフェソ2:10)
私の黙想:
「お前たちはわたしの手の中にある」。なんという力強い言葉だろう。み子には「懐にある」といわれる。天使たちには「天にある」という。蛇(サタン)には「足下にある」という。しかし、人間には「私の手の中にある」といわれる。人間は神のために働く者として創られた。創造者は人間を使う道具として創られた。役に立たなければ、すぐに廃棄される。役に立てばいつまでも喜んで使ってくださる。人間は神の手の中にある器として用いられることに喜びを感じる。
神は役に立たない者をお作りにならない。すべての人は神の器として創られている。何が出来るか、何が出来ないかも、神の御手の中にある。「主よ、どうぞ私をあなたの器としてご自由にお使いください」。

27 北村 良輔さん、濱 和弘さん、他25人

文屋 善明
5月1日 6:50 ·

今日の名言:@B_Pascal_jp
原理によって推理する習慣のついている他の人々は、直感に関する事柄については何も解らない。彼らはそこに原理を求めようとするが、一目で見ることなどできないからである。(パスカル『パンセ』§3)
<一言>この節でパスカルは「直観によって判断する習慣の付いている人」は物事を「一目で見抜こうとする」と批判している。直観と推論とのバランスが大切だという。

17 辻本 昌弘さん、久保和男さん、他15人

文屋 善明
5月1日 6:57 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第28章 神との愛の関係
修道者:
主なる神よ、あなたは「私の父と私自身のすべてを見なさい」とおっしゃいます。ハイ、私はそのようにいたします。私にはそれ以上の幸せはありません。それはみ言葉を愛する者たちにとっては、なんと楽しいこと、うれしい言葉です。しかし、世と世のものとを愛する者には、その喜びを理解できないことでしょう。
「私の父と私自身のすべてを見なさい」。わかる者にとっては、それだけで十分です。あなたを見ることができれば、すべてのことは喜ばしいこととなり、あなたが見えな時には、すべてのことが厭わしくなります。心の中に静けさを、精神の中に平安を、また祭のような喜びをお作りになるのは、あなたです。
すべてのことが善いことだと思い、何事においてもあなたを讃美させていただくのは、あなたによるのです。あなたを離れたら、何ものも長く心を喜ばすことはできません。
何ものでも楽しく心地よく味わおうとすれば、あなたの恵みがそれに加えられ、あなたの知恵の塩が加味されねばなりません。あなたを喜びとする人の幸いをくつがえすことができるものは、何もありません。またあなたを喜びとしない人は、いったい何を喜びとしているのでしょうか。肉的なものを喜びとするこの世の知者は、あなたの知恵をもっていません。そのような喜びは多くはむなしく、そのような楽しみには死が伴っています。
しかし、あなたに従ってこの世を汚れたものとし、肉欲を克服した人こそが真の賢者です。その人は真理のために虚栄を捨て、霊のために情欲を捨てているからです。その人は神を喜びとします。造られたものの中での善きことは、たとえそれがどんな善でも、それらをすべて造り主の栄光に帰するのでしょう。
造り主を喜ぶことと造られたものを喜ぶこと、永遠的なものを喜ぶことと時間的なものを喜ぶこと、造られない光を喜ぶことと造られた光を喜ぶことの間には、無限のヘだたりがあります。(2:28:1~15)

23 Luke Etsuzou Nomahさん、辻本 昌弘さん、他21人
コメント

文屋 善明 これが中世の修道者たちの理想だ。

辻本 昌弘 現代人は持ちえないものでしょうね。イミタチオ・クリスチの現代版を読みたいものです。

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
5月1日 7:02 ·

5年前のローズンゲン。フクシマを台無しにしたのは誰だ。地震、津波はなんとか乗り越えられるが。核による被害は人間の手に負えない。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年5月1日 · 福岡県 宗像市 ·
losungenj 2012.05.01(tue) 
わが民は平和の住みか、安らかな宿憂いなき休息の場所に住まう。(Isa32:18)
わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。(2Pet3:13)
私の黙想:
「安住の地」、幸せの条件はまず「安住の地」に住むこと、その上に築かれる生活が第1の条件である。必ずしも風光明媚も「安住の地」の条件にならない。そこで働き、結婚し、子供を産み、育て、幸せそうな子供たちの顔を見ながら死ねる場所、それが「安住の地」である。今や、フクシマは「安住の地」ではなくなった。


9 佐藤 彰子さん、久保和男さん、他7人
コメント

吉田 櫻井 啓子 子どもたちにいつも説教してます。「私たち東京人が電気の無駄遣いをするから、何十年か前の東京人によって、田舎だからいいだろうと、福島に原発なんか作って押し付けた。その結果、今、福島の人が故郷を失い、健康を損ねている。東京人は反省しなければならないし、電気の無駄遣いは大変良くない!」と。

文屋 善明
5月1日 8:28 ·

今日から5月、別名「さつき」、漢字で書くと「皐月」という。さつきの意味は早苗を植え付けるという意味から来ているという。または「幸月(さちづき)」からの転訛(てんか)ともいう。とにかくラッキーな月だ。
今日は我が家の門外不出の5月飾りを公表します。これは家内の母親「春さん」の手作りで、息子が産まれたときに戴いたもの。その息子ももう50才になるのか。
自動代替テキストはありません。

35 早乙女 実さん、小貫 ツマさん、他33人

文屋 善明さんが写真18件を追加しました。
5月1日 9:19 ·

昨日訪れた岡垣の岡湊神社の「なんじゃもんじゃ(正式名モクセイ科ヒトツバタコ)」を一挙掲載。
画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外

43 高橋 明子さん、小貫 ツマさん、他41人
コメント

杉浦 紀明 なんじゃもんじゃの木を写真で初めて堪能させていただきました。見事なものですね。

若月 新一 こんにちは。

岡本真知子 初めて見ました。大きいですね。

藤木 冨士子 なんじゃもんじゃって変な名前やなぁと思ってました。正式名があったんですね。

文屋 善明
5月1日 9:46 ·

「昨日のFB 04/29」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

14 植村 光郎さん、望月 克仁さん、他12人

文屋 善明
5月1日 15:39 ·

原発の現場責任者の命をかけた警告の手記、電気を使っているすべての日本人が知るべき事実です。それでも、あなたは未だ原発の使用を認めますか。

原発で事故が頻発する本当の理由を、あなたは知っていますか?元現場責任者の証言に慄然! | お役立ち情報の杜(もり)
USEFUL-INFO.COM

http://useful-info.com/message-from-ex-npp-manager

50 竹本 耕造さん、望月 克仁さん、他48人

文屋 善明
5月1日 17:05 ·

メーデーがエイプリルフールに負けている 善明

31 播 稔さん、竹本 耕造さん、他29人
コメント
吉田 櫻井 啓子吉田 櫻井 啓子 「主イエスが、サンタに負けてるようなもの」

大垣 收ピーター 5月1日は大型連休の途中に有るので、人が集まらないです。そこで最近は、メーデーですが、4月末辺りに行う会社というか組合が増えました

Hajime Kawamukai この歌も聞かなくなった・・・

https://www.youtube.com/watch?v=enb15Bzyt3o...

「がんばろう」
日本の代表的な労働歌です。 「やる夫と学ぶ教科書」補完ブログ http://yarukyo.blog66.fc2.…
YOUTUBE.COM

大垣 收ピーター 僕なんか、ちょろっと歌った最後の世代かもしれない。

Hajime Kawamukai ピーターさんも?
同世代同世代。...もっと見る

大垣 收ピーター メーデー用の山車の一部を取り替えて神戸祭りへ。というか神戸祭りがメインで、メーデーはついでののどかな時代です。

Hajime Kawamukai 今、5月中旬に移っちゃいましたしね。神戸まつり。

大垣 收ピーター 神戸みなと祭りでしたね。
花電車きれかった

文屋 善明
5月1日 17:11 ·

日本から消えてしまった労働者 仙明

27 播 稔さん、小貫 ツマさん、他25人
コメント

吉田 櫻井 啓子 「メーデーを知らないなにそれおいしいの?」

文屋 善明 歩いて、叫んだ後の飯旨い 仙明

吉田 櫻井 啓子 「労組もね、ブラック労働、とめられない」

嶋津 雅彦 メーデーの参加者多くは元ヤング

Hajime Kawamukai 何故か歌えたりする・・・

https://www.youtube.com/watch?v=dqxRT081miE

【Hatsune Miku】 インターナショナル(日本語版): The…
YOUTUBE.COM

久保和男 確か、組合運動を始めたのも賀川豊彦ではなかったかな。BSでやっていた。

石田 聖実 昨日はね「労働聖日」誰も知らん
4月最終主日は日本基督教団の行事暦では労働聖日です。
母の日ほどは力入ってませんね。

文屋 善明
5月1日 17:25 ·

春なのかそれとも夏か皐月かな 善明

19 播 稔さん、小貫 ツマさん、他17人
コメント

Izumi Nara 夕方になるとストーブいれたくなります。

文屋 善明
5月1日 17:30 ·

皐月かな皐月のさの字こう読むの 善明
<皐という字のもとの読みは「こう」なんです>

21 播 稔さん、大野 泰男さん、他19人
コメント

杉浦 紀明 (笑)うけました。
皐月、卯月、水無月、神無月などはたまたま漢字に振り仮名が割り振れますが、弥生や如月などと同じに考えたほうが良いのでしょうね?たぶん。

藤木 冨士子 うちの教会に皐子(たかこ)さんがおられます。読めへんかった。

文屋 善明 皐子さんの皐の字の元々の意味は「白」という意味らしい。きっと色白の美人なんでしょうね。

藤木 冨士子 若い頃はきっとね。

昨日のFB 05/02

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お早うございます。主の平和。やはり月曜日は疲れるみたい。鼻水がでるので、朝食後、寝た。一寸、仕事をして、午後からもまた寝た。読書『アウグスチヌスの三一論』。外出なし。夕食後はだらだらと「世界ルーツ探検隊」を見ながら「イミタチオ」を現代文化。10時半に就寝。6時起床。体温:36.1、血圧(140:80、73)、体調・快調、チュン、チュン

32 増野 真美さん、木下 海龍さん、他30人
コメント

東山 富昭 おはよう😃ございます。身体の状態は、かわりばえがしません。今日も、よろしく、お願いします。

村田 多鶴子 おはようございます~♪
先生と10歳違いですが、この季節は疲れ易く、加齢を実感する日々です(苦笑)
どうぞ、お大事になさって下さいませ。...もっと見る

久保和男 文屋先生こんばんは、主の平和。

小貫 ツマ 気温の差が激しいので体調を崩しやすいと思いますが、お大事に!

藤木 冨士子 こんばんは。

文屋 善明
5月2日 6:12 ·

お目覚めの花。「花が美しい季節。何よりもうれしい」「そうですね。花を見る余裕っていいものです」。(今朝の花は濃いピンクの花)。
画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、屋外、自然

29 久保和男さん、眞塩 ナナ子さん、他27人
コメント

若月 新一 おはようございます。

文屋 善明 お早うございます。

村田 多鶴子 見事なシャクヤクの花…♥ 目が覚める鮮やかさですね~♪(^^♪

文屋 善明
5月2日 6:44 ·

2017 日々の聖句 5月2日(火)
善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、(搾取する者を懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。)(イザヤ1:17)
パウロの手紙:どうか、(御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、)信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソ3:16~17)
私の黙想:
今日の聖句、意図的にか、たまたまか、「搾取する者を懲らし」を避け、それ以下を「虐げられて者」を一纏めにして「守りなさい」で収めている。文章としては整っているが、「搾取されている者、孤児、やもめ」等、虐げられている者の「虐げ」はそれぞれ個別できで「一派一纏め」にはできない。とくに、昨日はメーデーだった。昔の労働搾取と、現代の搾取とは形がかなり巧妙化し、生産現場での搾取というよりも、消費局面での搾取を含めて、大々的に行われ、貧富の格差が大きくなっている。ここで、われわれ一般国民は「搾取」という現実をしっかりと見て叫ばなければならない。一部キリスト者の間では「搾取」という言葉をマルクス主義に由来するものとして、避ける傾向がある。聖書の中に「搾取」という言葉が用いられているケースは少ない。だからこそ、この言葉が用いられているテキストは大切にしたいものだ。
<<以下、参考まで>>
聖書において「搾取」という言葉が用いられているのは次の15節で新約聖書では用いられていない。ちなみに、口語訳では一度も用いられていない。
申 24:14 同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。 詩 10:7 口に呪い、詐欺、搾取を満たし舌に災いと悪を隠す。
詩 35:10 わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から貧しく乏しい人を搾取する者から助け出してくださいます。」
詩 55:12 町中には滅びがあります。広場からは搾取と詐欺が去りません。
詩 62:11 暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな。
箴 22:16 弱者を搾取して自分を富ませたり金持ちに贈り物をしたりすれば、欠乏に陥る。
箴 22:22 弱い人を搾取するな、弱いのをよいことにして。貧しい人を城門で踏みにじってはならない。
箴 28:3 貧しい者が弱者を搾取するのは雨が洗い流してパンがなくなるようなものだ。
箴 28:16 指導者に英知が欠けると搾取が増す。奪うことを憎む人は長寿を得る。
イザ 1:17 善を行うことを学び裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。
イザ 52:4 主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。
エレ 21:12 ダビデの家よ、主はこう言われる。朝ごとに正しい裁きを行え。搾取されている人を虐げる者の手から救い出せ。わたしが火のような怒りを発することのないように。お前たちの悪事のゆえにその火は燃え消す者はいないであろう。
エレ 22:3 主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。
エゼ 18:18 彼の父は搾取を行い、兄弟のものを力ずくで奪い、自分の民の中で善くない事をしたので、自分の罪のゆえに死んだのである。
ホセ 12:8 商人は欺きの秤を手にし、搾取を愛する。

20 安井 郁夫さん、播 稔さん、他18人
コメント

石松 周 先生、驚きと感動です。原書(標記の間違いは失礼)に記されていることを;感謝します。

文屋 善明
5月2日 6:48 ·

今日の名言:@Tolstoy_meigen
金持ちと立派な地位にある役人で、エゴイストでないものはない。(トルストイ)
<一言>これは貧乏な私が言っているのではありません。金持ちかどうか知らないけれど、世界のトルストイの言葉です。 

19 川染 三郎さん、大野 泰男さん、他17人

文屋 善明
5月2日 6:53 ·

現代文イミタチオ・クリスチ
第29章 誘惑に負けないために(A)
キリスト:
愛する者よ、君はこの世では安全でなく、生きている間は霊の武器を必要とします。君は敵のただ中に住んでおり、右からも左からも攻められています。だから忍耐の盾をとって八方を防衛しないかぎり、長く無傷であることはできません。その上、君の心を固く私に結びつけ、万事を私のために忍ぶ覚悟をしないかぎり、誘惑の火に立ち向かい、恵まれた者に授けられる冠を受けることはできない。だから、君はあらゆることを雄々しく立ち向かい、敵する者と勇敢に戦うベきである。天からのご褒美は勝利を得る者に与えられ、怠け者は多くの不幸の中に取り残されるからである。
この世で安定を求める人が、永遠の安らぎ達することができないのは当たり前ではないか。ゆっくりとした休みを期待するよりも、長い忍耐を覚悟するがよい。本当の安らぎは、この地上でなく天においてのみ、人間その他の被造物によってではなく神においてのみ、与えられるのだ。(2:29:1~9)

20 川染 三郎さん、大野 泰男さん、他18人

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
5月2日 7:05 ·

5年前の「今日の名言」、今読み返すと、まさにそれを職業化したら牧師になったと思う。
5年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2012年5月2日 · 福岡県 宗像市 ·
今日の名言:RT @philokko:
最も困難なことは自分自身を知ることであり、最も容易なことは他人に忠告することである。(タレス、最古の哲学者)
<一言>彼は星を観察するのに一生懸命で空ばかり眺めていて、足元の溝に気付かずハマって転んだ。それを見ていたメイドが笑った。哲学的ジョーク。今日の名言はタレスの反省の辞。

12 松井 守さん、川染 三郎さん、他10人

文屋 善明
5月2日 7:58 · 福岡県 宗像市 ·

朝日の1面トップ「海自、初の米艦防護」
蟻が象を防護する様なもの。バカ丸出し。

37 久保和男さん、髙橋 和廣さん、他35人
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コメント

杉浦 紀明 防護ではなく、付き人でしょうと思います。

松下 光雄 テッポウダマ((泣)

杉浦 紀明 !!!

文屋 善明 バカ丸出しは朝日のこと。こんなことトップに出すな❗️

吉田 櫻井 啓子 全国紙と某公共放送のトップニュースが腐ってます…。腐りやすい季節は要注意。w

榮 義之 箴言26:17 自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。

増野 真美 毎日新聞もトップではありませんでしたが 一面にありますよ❗

畠山 秀明 朝日新聞は元々腐ってます。

髙橋 和廣 蟻の穴から平和が崩れる。

文屋 善明さんが写真4件を追加しました。
5月2日 13:57 ·

今日、整骨院からの帰り道、バスを降りると目の前の化粧品店の前で一袋100円でキンカンを売っていたので、2袋買って帰りました。量ると325グラム、表面をよく洗い、胴切りにしてへたと種を取り除くと、304グラム、それに200グラムのグラニュー糖をまぶして、1時間ほど寝かしましたが、水分が十分出てこないので水を100CC 程加えて、約1時間ほど焦げ付かないように掻き回しながら煮て、出来上がり。美味しいキンカンの砂糖煮。ちょっと皮が固いですが、それは成育過程の問題。

59 辻本 昌弘さん、斎藤成二さん、他57人
コメント

播 稔 わたしも やってみようかな。

齋藤篤 またまた美味しいものをお作りになられて。

文屋 善明
5月2日 14:01 ·

キンカンを砂糖で煮たらダイヤモンド 善明

32 佐藤 静代さん、木下 海龍さん、他30人
コメント

藤木 冨士子 喉の薬ですね。

文屋 善明
5月2日 14:31 ·

今日の「折々のことば」を読んで変なことを思いだした。大阪には「貧乏ボンボン」という言葉がある。大阪弁ではお坊ちゃんのことを「ぼんぼん」という。通常それは「ええしの息子(金持ちの男の子)」という意味である。それの変形で、貧乏人なのに、人びとから「ぼんぼん」と言われて育った子どもで、恐らくもともとの意味は良い意味だったのだろうと思う。しかし、それを口にする人によって、いろいろなニュアンスが出てくる。極度の貧乏な家庭なのに、気位だけは高くて、そこの息子は人びとから「ぼんぼん」と呼ばれている。それを陰では「貧乏ぼんぼん」と言う。それは誰のことか想像してください。最近は結構、給料も良くなってきたので、死語になったいる。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1340684919342299&set=a.200492220028247.51380.100002024109092&type=3&theater

25 辻本 昌弘さん、川染 三郎さん、他23人
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コメント

久保和男 家は貧乏だったけれど、子供の頃 若 と可愛がられました。ありがたいことです。

文屋 善明さんが写真5件を追加しました。
5月2日 17:28 ·

今日の散歩道、エンドウ豆も育っています。
画像に含まれている可能性があるもの:植物、花、草、自然、屋外

47 辻本 昌弘さん、佐藤 静代さん、他45人

文屋 善明
5月2日 18:59 ·

このことに疑問を感じない人は非人情ものだ!

安倍政権が見捨てた福島・飯舘村から悲痛な叫びを『報ステ』が報道「東京が1mSvなのに、なぜ福島は20mSv?差別でしょ」 - 本と雑誌のニュースサイト/リテラ
LITE-RA.COM
http://lite-ra.com/2017/03/post-2982.html

45 樋口 重夫さん、川染 三郎さん、他43人

断想:復活節第4主日の旧約聖書(2017.5.7)

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断想:復活節第4主日の旧約聖書(2017.5.7)

新しいユダヤ人共同体の成立 ネヘミヤ9:6-15

<テキスト>
6 あなたのみが主。天とその高き極みを、そのすべての軍勢を、地とその上にあるすべてのものを、海とその中にあるすべてのものをあなたは創造された。あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む。
7 あなたこそ、主なる神。アブラムを選んでカルデアのウルから導き出し名をアブラハムとされた。
8 あなたに対して忠実なその心を認め彼と契約を結び、子孫に土地を与えると約束された。
カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、エブス人、ギルガシ人の土地を。あなたは約束を果たされた。まことにあなたは正しい方。
9 わたしたちの先祖がエジプトで苦しんでいるのを見葦の海で叫び声をあげるのを聞き
10 ファラオとその家来、その国民すべてに対して、あなたは数々の不思議と奇跡を行われた。
彼らがわたしたちの先祖に対して、傲慢にふるまったことをまことにあなたは知っておられた。
こうしてかちえられたあなたの名声は今日も衰えることを知らない。
11 あなたは先祖の目の前で海を二つに裂き、海の中の乾いた地を通らせ、
追い迫る敵をあたかも石のように、荒れ狂う水の深みに投げ込まれた。
12 昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、わたしたちの先祖を導き、その進み行く道を照らされた。
13 あなたは天からシナイの山に降って彼らと語り、正しい法、真実の律法、優れた掟と戒めを授け、
14 あなたの聖なる安息日を布告し、僕モーセによって、戒めと掟と律法を授けられた。
15 彼らが飢えれば、天からパンを恵み、渇けば、岩から水を湧き出させ、
必ず与えると誓われた土地に行って、それを所有せよと命じられた。
<以上>

1.復活節第4主日
復活節も第4主日まで来ると、いつまで「復活、復活」と言っているんだという気分になってくる。もっといろいろメッセージがあるだろうと思う。
復活日は確かに復活の喜びが課題であり、旧約聖書でも出エジプトの際に紅海を歩いて渡ったということが取り上げられ、そこでモーセの姉ミリアムのリードにより喜びの歌が歌われたことを聞いた。
次の第2主日では、復活についての少々理屈っぽい、人間存在の「死と再生」の神秘に触れた。ある意味ではかなり哲学的なメッセージであった。
第3主日では復活という出来事の最も実践的な課題としての日常生活における復活論として「主が共におられる」ということを学んだ。
それで第4主日で何が取り上げられるというのだろうか。福音書ではヨハネの10章、羊と羊飼いの譬え話が取り上げられている。つまりイエスと信徒たち、つまりイエスの復活に始まる共同体との関係である。ここまでの言わば、復活論は確かに個人の経験に基づいているが、それだけでは終わらないことに気づく。復活節第4主日のテーマは復活を信じる共同体の形成ということである。それを仮に「復活共同体」と呼ぶことにする。
イエスの復活がただ個人の経験にとどまっていたら、それはただ「そういう話があった」ということで終わってしまう。ところが、イエスの復活を経験した人たちが共同体になると、もう個人の問題ではなく、世界の歴史となる。つまり、それが教会である。
復活節第4主日の旧約聖書で取り上げられるのはまさにそれである。バビロンの捕囚から解放された人たちが祖国へ帰ってきた。もし、それだけであったらイスラエル民族史の一コマにすぎないが、その人たちが新しい共同体を形成した。それはもはや昔のイスラエル史の延長ではなく、新しい民族、つまりユダヤ人共同体が始まった。ここからはもはや「イスラエル」ではなく「ユダヤ人」となる。

2.バビロンからの解放からエルサレムの第2神殿の完成まで
私たちは旧約聖書を読んでいて、一つの大きな誤解があるように思う。何となくペルシャのキュロス王によって祖国復帰が許可されて、ほとんどすべてのイスラエル人が喜び勇んで祖国に戻ったという印象で読んでいる。ところが厳密に読むと、その時祖国に帰った人は全部ではなく「一部」であったと思われる。それがどの程度なのかはっきりしない。このことについて細かく論じはじめると、それだけで一つの論文が出来そうである。それで、ここでは簡単に関連することだけを拾って語る。祖国に帰った人々は帰るだけが精一杯だったものと思われる。ともかく祖国に帰って最初にしようとしたことは荒れ果てた神殿の再建であったが、それも定礎式だけをしただけで、工事は中断してしまった。なんだかんだあって第2神殿が完成するまでに20年近くかかっている。それこそ神殿はできたものの、祭儀を司る祭司たちも新米ばかりで、人々は自分の生活に精一杯だったらしい。従って人々の宗教心も道徳心も民族意識も混乱したままで、とうてい組織された「国民」と言える状況でなかった。
そういう状況の中で立ち上がったのがネヘミヤであった。実はネヘミヤは帰還組ではなかった。つまりペルシャにとどまった残留組であった。彼はペルシャ王アルタクセルクセスの側近として活躍していたが、祖国の状況を知り、矢も盾も堪らず、王に祖国に帰らせて欲しいと願い出た。王はネヘミヤの願いを聞き入れ、彼をユダヤ州の総督に任命し、周辺諸国への紹介状も準備して帰国させた。紀元前445年のことである。解放後、すでに100年近く経っていた。
その時、恐らく祭司エズラもネヘミヤと一緒に帰国し、エズラは神殿の祭儀の復興、ネヘミヤは国土の整備を初め政治的な部門を担当したものと思われる。ネヘミヤが担当した国土の整備というのは主に外敵から自国を守る城壁の建設と、新しい律法の制定であり、その詳しい報告がネヘミヤ記である。

3.本日のテキスト(ネヘミヤ9:6-15)
祖国の回復が一段落したところで、大きな祝典が開催された。それがネヘミヤ記7章以下の部分に詳しく報告されている。祝典の第1日目の主な行事は、エズラによる律法の朗読、つまり新しいユダヤ人共同体の憲法の制定と考えればいいであろう。第2日目は「仮庵祭」と呼ばれる行事である。この祭についてはネヘミヤ記8:13以下で次のように記されている。
二日目に、すべての民の家長たちは、祭司、レビ人と共に書記官エズラのもとに集まり、律法の言葉を深く悟ろうとし、主がモーセによって授けられたこの律法の中にこう記されているのを見いだした。イスラエルの人々は第七の月の祭りの期間を仮庵で過ごさなければならず、これを知らせ、エルサレムとすべての町に次のような布告を出さなければならない。「山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されているとおりに仮庵を作りなさい。」
民は出て行き、枝を持って来て、各自の家の屋上、庭、神殿の庭、水の門の広場、エフライムの門の広場に仮庵を作った。こうして捕囚の地から帰った人々から成る会衆は、皆で仮庵を作り、そこで過ごした。ヌンの子ヨシュアの時代からこの日まで、イスラエルの人々がこのような祝いを行ったことはなかった。それは、まことに大きな喜びの祝いであった。(ネヘミヤ8:13~17)
この中でとくに注意しなければならない言葉17節で、実は仮庵祭は古い祭りであるが、ヨシュアの時代から忘れられていた、という。ヨシュアの時代というのはイスラエル民族が荒野での40年間におよぶ放浪の生活から、「約束の地」カナンに入った時代である。それは紀元前1200年頃のことであるから、少なくとも700年昔のことである。
ちなみにユダヤ暦では「過越しの祭」、「刈入れの祭」、「仮庵の祭」という3つの大きな祭がある。過越しの祭は出エジプトという大事件、これが事実上の建国日である。出エジプトのとき、「種入れぬパン」を食べたところから「種入れぬパンの祭」とも呼ばれる。それはまたカナン定着後は大麦の収穫期と重なる。刈入れの祭は過越しの祭から50日目の祭であり、「五旬節(ペンテコステ)」とも呼ばれ、小麦の収穫期にあたる。通常、この祭は律法制定の祭とされる。
3番目が「仮庵祭」で季節的には葡萄の収穫期の祭である。イエスの時代では、仮庵祭はかなり盛んで、ヨハネ福音書がかなり細かく述べている(ヨハネ7:2、10以下)。この祭の期間、イエスは人々の前に姿を現し、2つの説教をしている。1つは「生きた水」の説教、もう一つは「世の光」というテーマであった。恐らくイエスの時代にはこの祭は「水の祭」「光の祭」と考えられていたようである。
恐らく、仮庵祭はネヘミヤの時代から始まったのではないかと思われる。彼らは7日間仮小屋を建ててその中で過ごし、先祖の出エジプトの出来事を追体験する。そして祭の最終日に、礼拝を捧げる。この礼拝の趣旨は「懺悔」である。懺悔をすることによって新しく出発する。
本日のテキストは、この祭の中で歌われる懺悔の歌の一部であるが、この部分だけを取り上げると、懺悔というよりも、ヤハウェが私たちの先祖に何をなさったのかということが歌われている。重要なポイントを拾い上げると、
(1) 6節、「あなたは万物に命をお与えになる方」
これは天地万物の創造者である神を誉め称えた言葉である。とくに、その中でも彼らの課題としては「命をお与えになった」というところにポイントがある。この部分を字義通りに訳すと「あなたはこれらすべてを生かす方」という意味であろう。彼らは捕囚期間、死んだような民であったと思っていた。そして祖国に帰ってきて、新しい生活を始めた。これが復活節のメッセージと重なる。

(2) 8節、「あなたは約束を果たされた。まことにあなたは正しい方」
ここではアブラハムを選び出されたということから「約束」ということにポイントがある。この約束という考えは、旧約聖書の民の一貫した神との関係である。神は約束を果たされる。それを破るのは常に人間側の問題である。

(3) 10節、「こうしてかちえられたあなたの名声は今日も衰えることを知らない」
ここでは出エジプトの出来事が想起され、そのときの神は今も健在であるということが強調されている。神は「昨日も、今日も、変わりなく、生きておられる」。これが復活信仰の核心である。
(4) 12節、「(あなたは)先祖を導きその進み行く道を照らされた」
ここでは砂漠をさまよい歩く先祖たち、とくに仮庵祭のテーマが述べられている。それは単に過去の物語ではなく、これからの新しいユダヤ人共同体の行く末が重ね合わされている。

(5) 14節、「(あなたは)僕モーセによって戒めと掟と律法を授けられた」
このポイントが、ネヘミヤがとくに強調するポイントで、「私たちの戒めと掟」の源泉はモーセに由来しているということが述べられている。新しい民の律法は、モーセに与えられた神の律法の更新であって、革命ではない。
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